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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.105 (2002/03/31)
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 □ 黒崎宏『言語ゲーム一元論』
 □ 星川啓慈『言語ゲームとしての宗教』
 □ 矢向正人『言語ゲームとしての音楽』
 □ 土屋賢二『猫とロボットとモーツァルト』
 □ 竹内薫+SANAMI『シュレディンガーの哲学する猫』
 □ 野矢茂樹『無限論の教室』
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●324●黒崎宏『言語ゲーム一元論』(勁草書房)

 「ウィトゲンシュタインとフロイト」からの抜き書き。

《…ウィトゲンシュタインにしたがえば、フロイトは、「無意識」という新しい事
実を発見したのではなく、「無意識」という語の新しい語り方を発明したのである、
という事になる。》(143頁)

《ウィトゲンシュタインとフロイトは、ともに「治療」を目指している。ウィトゲ
ンシュタインは哲学的問題に悩む人の、そして、フロイトは神経症に悩む人の。し
かも興味深いことに、ウィトゲンシュタイン自身が哲学的問題に悩み、フロイト自
身が神経症に悩んだのである。
 さて、哲学的問題に悩む人は、言語の表面的構造に捉えられて、自由を失ってい
るのであり、神経症に悩む人は、意識の底に沈んだ過去の経験に捉えられて、自由
を失っているのである。そしてウィトゲンシュタインによれば、哲学的問題に悩む
人をその悩みから解放するには、言語の表面的構造の底にある深層構造──深層文
法──を自覚させればよいのであり、フロイトによれば、神経症に悩む人をその悩
みから解放するには、意識の底に沈んだ過去の経験をとにかく自覚させねばならな
いのである。》(150頁)

《ウィトゲンシュタインによれば、意味、信念、知識、能力、理解、といったもの
は、観察可能な持続を有せず、したがって、観察の対象にはならない。それらは、
体験内容を有せず、実はそもそも体験ではないのである。したがってそれらは、本
来意識されないものなのである。実は、我々の自己というものは、大部分意識され
ないものなのである。それは行動に現われて初めて我々自身にも明らかになるもの
なのである。「自分が如何なる人間であるかは、自分自身が一番よく知っている」
と言う事ほど、大きな嘘はないのである。そして、この点に関しては、フロイトの
言うことも同じである。我々は、自我の他に、意識されないエスと超自我を抱えて
いるからである。》(151-2頁)

●325●星川啓慈『言語ゲームとしての宗教』(勁草書房)

 ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(藤本隆志訳)の第373節に、「あるものが
いかなる種類の対象であるかは、文法が述べる。(文法としての神学)」とある。
また、その二つ前の節には「本質は文法の中で述べられる」とも。これらを踏まえ
て、星川氏は次のように書いている。

《ここで重要なのは〈言語ゲームが異なるとリアリティが異なってくる〉というこ
とである。すなわち、霊魂不滅を信じる者とそれを信じない者、最後の審判を信じ
る者と信じない者、復活の教理を受け入れる者と否定する者、自分の身におこった
ことをすべて宗教的褒賞や罰として受け取る者とそうでない者は、異なった言語ゲ
ームをプレイしていると同時に、異なったリアリティを生きているのである。》

《「言語ゲーム」なる概念は多くの問題をかかえこんだ概念である。しかし「生活
形式と一体となっている言語ゲームは、ある一組の規則にのっとって営まれており、
一つの体系を構成している」と考えられるのであった。この定義を宗教に応用する
と、以下のようになる。

 一つの宗教とは、それ独自の一組の諸規則にのっとって営まれていて、一つの体
系を構成しており、さらにその生活形式と一体となった、言語ゲームである。

 仏教にせよ、ユダヤ教にせよ、キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、いかなる
新宗教にせよ、それらはそれら独自の宗教的諸規則にもとづいて営まれている体系
だった言語ゲームなのである。そして、それらは当該の宗教の生活形式と表裏一体
の関係にある。

 このように述べると、〈人間の他の活動と異なる宗教の本質、つまり宗教を宗教
たらしめるものは、この定義では把握できないのではないか〉という疑問が、宗教
の本質論者から出されよう。これに対しては、次のように答えたい。宗教には本質
はない、宗教を宗教たらしめているものなど存在しない、と。もろもろの「宗教」
と呼ばれているものの間にあるのは、家族的類似性だけである。》

 宗教に本質などない。そして、宗教にはリアリティはある。──この規定がもた
らす「意味」を見定めていきたいと私は思う。(ところで、これに似たアイデアは
どこかで読んだ覚えがある。たしか橋爪大三郎著『仏教の言説戦略』だったと記憶
している。再読すべし。)

●326●矢向正人『言語ゲームとしての音楽
       ──ヴィトゲンシュタインから音楽美学へ』(勁草書房:2001.9)

 「鰯の頭も信心から」という言葉があるけれど、「鰯の頭」に神秘的なもの(語
り得ないもの)を感じるのはそこに「信心」(内面)があるからではなくて、「鰯
の頭」にカミが宿ることをすでに知っているからである。語り得ないものについて
は沈黙しなければならないこと(ただ祈り、瞑想し、あるいは身振りで示すしかな
いこと)を知っているからである。それを知らない人、つまり「鰯の頭」に神秘を
感じるシステム(生活形式)に内属していない人、システムの外部にいる人にとっ
ては「鰯の頭」をめぐる規範(ルール)は記述可能な事実でしかないし、これに対
する「沈黙」の行為も単なる「信心」(迷信)によるものでしかない。

 この外部(超越的なメタレベル)を組み込んだ複合的な言語ゲーム論をもって法
や社会システムをめぐる学的考察のための理論的装置を提唱したのが橋爪大三郎氏
の『言語ゲームと社会理論』(1985)で、これをフーコーの「集蔵体」のアイデア
と接続して「悟り」をめぐる宗教的言説へと応用をはかったのが同じく橋爪氏の『
仏教の言語戦略』(1986)だった。(ちょっと乱暴な紹介だったかもしれないが、
もうあれから十五年も経っているのだから、記憶が朦朧としている。)

 本書『言語ゲームとしての音楽』の基本的なアイデアは、ほぼこの橋爪理論に拠
っている。精緻な分析と目配りのきいた叙述で独自の音楽美学を理論化しようとす
る意気込みは感じられるのだが、結局のところ、言語ゲームの概念を導入したこと
の画期性がいったいどこにあるのかが曖昧になってしまうのは、橋爪理論が持つ難
点がそのまま反映しているのだろう。(断っておくと、橋爪氏の議論そのものは面
白いものだったし、とても刺激的だった。ただしそれは言語ゲーム論の橋爪流解釈
とその応用に拠るものではなかったと思う。)

 ──著者は本書で、美的判断を伴う音楽の評価行為を「美のブラックボックスを
めぐる言語ゲーム」と規定している。『哲学探究』には「たしかに、誰かがしかじ
かの心の状態にあることの証拠を介して、そのひとがたとえばいつわっていないこ
とに、確信をもつようになるときがある。だが、そこにはまた〈測りえぬ〉証拠も
あるのである。問題は、測りえぬ証拠が何を遂行しているのか、ということ」(邦
訳全集8:455頁)とあるが、ここで言われる〈測りえぬ〉証拠がブラックボック
スの認識と同じである。〈測りえぬ〉ものをそれとして指し示すことは形式的には
可能だが、そこには形式以外の何も指し示されてはいない。それと同様に、美を媒
介抜きに論じようとしてもそれは仮象でしかないのである。

 またウィトゲンシュタインは『美学講義』で「是認の身振り(gesture of appr-
oval)」という考え方を提出した。《われわれは、〈これは美しい〉といった美的
判断について語らなくてはならないと考えるけれども、われわれが見出すのは、美
的判断について語らなくてはならないとすれば、そのようなことばが全然みつから
ず、身ぶりのように用いられて、複雑な活動を伴うようなことばが現われてくる、
ということなのである。》(邦訳全集10:146頁)《人間の身体は、人間の魂の最
良の映像である。》(『哲学探究』,邦訳356頁)

 これらを踏まえて、著者は、音楽の言語ゲームを成り立たせているのは「音を持
続させるゲーム」「音を反復させるゲーム」「是認の身振り」の三種のゲームであ
るとする(第一章「美の介在をめぐるゲームとしての音楽」)。そして、以下「持
続」は和声に(第三章「協和・不協和のシステム──見えざるXとしての不協和」
)、「反復」はリズムに(第四章「リズム──現前の是認」)に、「是認」は音楽
美の生成に(第二章「音楽の始源へ」)それぞれ関連づけて論じられる。いつかま
た反芻することはあるかもしれないが、少なくともいまのところこの本は私の関心
の対象外。
 

●327●土屋賢二『猫とロボットとモーツァルト 哲学論集』(勁草書房:1998.9)

 「存在の問題の特殊性──ハイデガーとウィトゲンシュタイン」という論文が読
みたくて、結局収録された7つの「哲学論文」全編にざっと目を通したのだが、読
後なんとも陰鬱な気持ちになってしまった。

 たとえば件の論文で著者は、「後期ハイデガーは、答えを迫るようにみえる存在
の問題に対して、通常の答えは不可能であっても、その存在の呼びかけになんらか
の仕方で対応する必要がある、と考えている。その呼応の仕方はもはや命題で表現
されるような主張ではなく、その時の哲学の言葉はむしろ詩に近いものになり、初
期ギリシアの哲学者の断片にその理想が求められることになる」と書き、「ウィト
ゲンシュタインの立場は後年変化するが、その最終的な結論については終生変わら
ぬ態度をとりつづけた、と言うことができる。もちろんこの結論は、存在は自明な
ものだということを意味するものではない。この結論の意味するところは、存在の
問題は問題とは言えない、ということである。存在の問題は原理的に解決不可能で
あり、解決を求めることがナンセンスであるような問題であり、したがって問題と
呼ぶことはできない。それを問題として立てるところに根本的な錯誤がある」とし
た上で、最後に「以上が正しいなら、ハイデガーもウィトゲンシュタインも、同じ
問題意識を抱きながら、存在の問題が解決不可能である、少なくとも普通の意味で
の「解決」は不可能である、したがって普通の意味での「問題」ではない、という
結論に達していたと言うことができる。そこに至る道筋は違うし、そこから先に向
う方向も違うけれども、その重要な結論については一致していたと思われるのであ
る」と「結論」づけている。

 これでは結局何も言っていないのに等しい。哲学的駄弁の典型である。(それと
も何か私が勘違いしているのだろうか。)

 ──猫がピアノの鍵盤の上を歩いて出す音がデタラメで、モーツァルトが五歳の
時にピアノで弾いた音(父親がそれを書きとめた「ナンネルの楽譜帳」が残ってい
る)が曲だとなぜ言えるのか。芸術を解し、芸術活動を営むロボットを作ることは
可能か。こうした問題を「ウィトゲンシュタイン的に、一種のゲームの中で芸術を
とらえ、人間のさまざまな行動の中でどのような役割を果たしているか、という問
題として考える」標題論文などは、それでも結構いけていたと思うが。

●328●竹内薫+SANAMI『シュレディンガーの哲学する猫』(徳間書店:1998.12)

 小林秀雄の「理論物理学的思考」がとりあげられていたので購入し、ハイデガー
と小林、大森荘蔵、廣末渉、そしてウィトゲンシュタインの章を拾い読みして、こ
の本のどこが「快挙」(筒井康隆評)なのか理解できずに放置していた。

 ところが、連休の暇つぶしに全体を通読してかなり印象が変わった。竹内執筆分
とSANAMI執筆分をそれぞれ哲学ジャーナリズム(あるいは哲学者やその著書との出
会いをめぐる私小説的ノンフィクション)とSF的哲学日記として独立させ加筆す
ると結構面白いものになると思う。

●329●野矢茂樹『無限論の教室』(講談社新書:1998.9)

 某日、暇つぶしに読み始めたらついつい引き込まれてしまった。形式(というよ
り作品構成の趣向)と内容がうまくかみあっていて面白い。もうひとひねりすれば、
保坂和志の「思考小説」のポリフォニー版になる。ふとそんなことを思った。──
以下、印象に残った話題を思いつくままに列記。

 まず、可能無限の立場(有限主義)がこれほどに面白いものだとは、本書を読む
までうかつにも考えたことがなかった。(そういえばたしか、「実無限」対「可能
無限」はウィトゲンシュタインに「哲学」を再起動させた問題だった。)──背理
法もそうだけれど対角線論法は「時間」をはらんでいる、というか遡及効(今村仁
司氏がいうバックワード・エフェクト)をもった論法だ。ところがトートロジーに
よる証明では時間が生じない。(有限と無限の質的差異を接続するものとしての時
間=生命=意識?)──実在しないけれどリアルなもの(実無限の立場に立つ数学
者にとって)としての無限。(本書の隠し味として、意識の問題と無限集合論の議
論との関係が見え隠れしている。)

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