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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.104 (2002/03/30)
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 □ 細川亮一『形而上学者ウィトゲンシュタイン』
 □ 永井均『ウィトゲンシュタイン入門』
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ラッセル宛の手紙で「マッハの文体にむかつく」と書いたウィトゲンシュタインは、
手稿『哲学的考察』に「マッハが思考実験と呼ぶものは、もとよりなんら実験では
ない。それは結局は文法的考察である」と記しています。木田元氏は『マッハとニ
ーチェ』の第十一回「ウィトゲンシュタイン/ウィーン学団/ケルゼン」で、この
ことに関して次のように書いていました。

《ウィトゲンシュタインの後期思想において中心的役割を果たす〈文法的考察〉や、
結局はその具体的遂行である〈言語ゲーム理論〉がマッハの〈現象学〉につながる
ものであることは明らかであろう。(中略)

ウィトゲンシュタインがここで、このマッハの現象学をモデルに〈文法的考察〉を
構想しているのだとしたら、ここで彼は驚くべき思考の転換を遂行していることに
なる。なんといっても、『論考』における〈語りうるもの〉と〈語りえないもの〉
の区別、そして〈語りうるもの〉をすべて一義的に語りつくす理想言語の構想は、
自然主義的な相対主義をはっきりと越え出た超越論的立場に立ってのみ可能だった
はずだからである。それを、彼はここでもう一度「ザラザラした大地」に立とうと
していることになる。後期のウィトゲンシュタインの〈自然史〉への固執も、〈生
活形式[レーベンスフォルム]〉という概念も、マッハの現象学の思想動機を受け
継ぐものなのであろう。(中略)

それにしても、マッハに「むかついて」いたウィトゲンシュタインが、なぜマッハ
への回帰を果たしたのであろうか。いったん自然や生を離脱し、純粋な〈論理空間〉
に遊んだウィトゲンシュタインが、なぜ〈自然史〉に、〈生活形式〉に回帰したの
であろうか。ウィトゲンシュタインのこの思考の転回は、やはりマッハの現象学か
ら出発しながら、一度は生を遮断し、〈純粋論理学〉や〈超越論的現象学〉の領域
に遊んだフッサールが、晩年ふたたび〈生活世界[レーベンスヴェルト]〉に立ち
還った思考の転回とよく似ている。なぜこの二人の思想家が似たような思想の軌跡
を描いたのか、これは改めてよく考えてみなければならない問題である。》(224-
226頁)

この部分は、とても刺激的で面白かった『マッハとニーチェ』の数少ない(かどう
か、実は私にはよく分からない)瑕瑾の一つだと思います。ただ、それを自分の言
葉でちゃんと説明できないので、最近読んだ本、再読した本でもって代用します。
 

●322●細川亮一『形而上学者ウィトゲンシュタイン
               ──論理・独我論・倫理』(筑摩書房:2002.1)

 著者は序章で「この書名は挑発的と思われるだろう」と書いている。そんなこと
に挑発される人が世の中にそう多くいるとはそもそも思わないけれど、一度でも『
論考』や『草稿』をちゃんと目にしたことがある人ならばそこで論じられていたの
が明らかに倫理や神をめぐる事柄であり、ウィトゲンシュタインの「問題」が徹底
して形而上学的であったことなど当然知っているはずだと思う。

 語り得ないものについては沈黙しなければならない。この究極の言葉を書き記し
たその後の生の軌跡を知っている人なら、ウィトゲンシュタインがいかに宗教的な
人間であったかを理解できるはずだ。たとえばトゥールミン/ジャニクの『ウィト
ゲンシュタインのウィーン』(とりわけ第六章「『論考』再考」)などを読めば、
状況証拠はいくらでも挙がっている。

 しかしまあここまでなら誰にでも言えることだ。『論考』がアリストテレス形而
上学の二つの基本的性格(「自然学を超えること」と「存在論─神学の二重性」)
やプラトン以来の「永遠性(無時間性)と時間」という問題圏に属し、カントが『
純粋理性批判』で示した本来的な形而上学のテーマ(意志の自由、魂の不死性、神
の現存在)を扱った形而上学の書であり、したがって反時代的な書であることを(
そしてまた「治癒へ至る処方箋」あるいはレシピ集であることを?)テキストに即
して執拗かつ緻密に論証し、「形而上学者ウィトゲンシュタイン」の実質を(反プ
ラトニストにして反独我論者、反無神論者としてのウィトゲンシュタインを)余す
ところなく叙述し尽くすことは、それはそれで読者を「挑発」する凄い力業だと思
う。

 各章各節の冒頭に見取図を示し、それぞれの末尾で回顧と展望を加え、さらに序
章と終章を設けて全体を二度総括するといったまことに懇切な本づくり、煩瑣をい
とわぬ引用と議論の反復、章節項名の適切さなど、これで索引が充実していればパ
ーフェクトな書物になったことだろう。

 読み終えて、ウィトゲンシュタインという名が指し示す「空虚な充填感」とでも
形容するしかない高密度の生感覚(哲学感覚)の感触が後を引きそうな予感に襲わ
れている。今後『論理哲学論考』を読む際、この書物が示している到達点を無視す
ることは許されないだろう。

 補遺。本書で印象的だったこと。著者によれば、カントとハイデガー、ウィトゲ
ンシュタインにおいて「超越論的」は「超越的」「形而上学的」と同義であって「
経験の可能性の条件の探求」の意味ではない。「がある」(実在・偶然性・倫理に
かかわる)と「である」(本質・必然性・論理にかかわる)という、ライプニッツ
の問い──「なぜ何もないのではなく、むしろ或るものが存在するのか」と「なぜ
物がそのように実在し、別様ではないのか」──に由来する存在論の二つの問いの
区分も汎用力がある。

 それからウィトゲンシュタインとハイデガーの関係をめぐる議論がとても刺激的
だったし、『論理哲学論考』と『存在と時間』をちゃんと読むためにはアリストテ
レスを避けて通るわけにはいかないことも実感させられた。(かくして私はいま細
川氏の『ハイデガー入門』と山口義久氏の『アリストテレス入門』を眺めている。)

●323●永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書:1995.1)

 細川亮一氏の『形而上学者ウィトゲンシュタイン』を読みながら、これはひょっ
とすると永井氏の『入門』を批判しているのではないかと思われる箇所がいくつか
あった。もっともそれほど熱心にウィトゲンシュタイン関連本を読み込んできたわ
けではないし、永井氏の本に書いてあったことの印象や記憶もかなり薄れているの
で、気のせいかもしれない、大したことではなかろうとやり過ごしていたのだけれ
ど、しばらく経ってどうにも気になって仕方なくなったので思い切って再読してみ
た。

(なぜ「思い切る」必要があったのかというと、永井氏の本のほとんどが私の反復
本であるなかで、『ウィトゲンシュタイン入門』と『これがニーチェだ』の二冊に
だけはイマイチ再読の意欲が湧かなかったからだ。永井均ほど「哲学入門書」が似
合う哲学者は他にいないと同時に、永井均ほど「哲学者入門書」が似つかわしくな
い哲学者はいない。)

 細川氏は、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で「Die Logik ist trans-
zendental」「Die Ethik ist transzendental」と書き記すとき、そこに出てくる
「トランスツェンデンタール」(超越論的)は「超越的」や「形而上学的」と同義
であって、すなわち『論考』は論理(本質・必然性にかかわる「である」をめぐる
)と倫理(実在・偶然性にかかわる「がある」をめぐる)という二つの「トランス
ツェンデンタール」なものに関する形而上学の書であると書いていた。そして『論
考』に出てくる独我論は、というより反独我論は「論理」の側に(世界の条件=本
質に)属していると。

 一方、永井氏によると「トランスツェンデンタール」には「先験的」(経験的な
事実に先立ち、世界と言語の形式を示すもの:「語りえないもの1」)と「超越論
的」(世界を超越し世界の外にあるもの:「語りえないもの2」)の二つの訳語が
あるのだが、ウィトゲンシュタインにとって「論理は先験的である」が「倫理は超
越論的である」。そして『論考』の独我論はこの両者を、つまり論理と倫理という
二種類の語りえぬものをつなぐ役割を担わされている。

《第一の先験的な語りえぬものと、第二の超越的な語りえぬものとは、…[「哲学
的自我」とか「形而上学的主体」とかいわれているもの]…の存在を媒介にして、
いわば神秘的に結合されているのである。そのことがこの「哲学的自我」を超越論
的(先験的)主観[素材としての世界に形式=形相=意味を賦与することによって
世界を意味的に構成する主観]と混同させることになった。

 この点に関連して、その後の思想展開を、あらかじめ少々図式的に要約しておこ
う。前期、中期、後期を通して、ウィトゲンシュタインは、倫理、宗教、形而上学、
独我論、といった超越的な語りえぬものについての直観をほとんど変えなかった。
どのように語りえないか、その位置づけ方に変化があっただけである。しかし、世
界の形式である先験的な語りえぬものについての見解は、前期、中期、後期を通じ
て、大きく変化・進展した。ウィトゲンシュタイン哲学の展開過程とは、実のとこ
ろは、もっぱらこの部分の進展なのである。「論理」「文法」「生(活)」にそれ
ぞれ「形式」という語を付与したもの──論理形式、文法形式、生活形式──が、
それぞれの時期の語りえぬものを示している。》(27-28頁)

 『論考』における独我論(あるいは反独我論)をどう位置づけるかが『形而上学
者ウィトゲンシュタイン』と『ウィトゲンシュタイン入門』の二つの世界の相貌の
違いを規定している。少なくとも『論考』の読解に関しては、アリストテレスやカ
ントやハイデガーとの接続を意識した細川氏の著書の方がコクがあって斬新で刺激
的だったのだが、永井氏の独我論(そして他者)をめぐる議論にはやはり棄てがた
い魅力がある。

《「私」とは、世界に意味を賦与する主体[超越論的=先験的主体]ではなく、世
界をこの世界として存在させている世界の実質そのものなのである。それが『論考
』的独我論の真意であり、だからこそ、それは、形式上は純粋な実在論とぴったり
と重なるのである。

 それゆえ、他者とは、自分とは別の意味賦与を行なう別の主体のことではなく、
この世界とは別の限界[細川氏によると、ウィトゲンシュタインの言う「限界」と
は「本質」のこと]を持った別の世界のことでなければならない。なぜなら、限界
が異なる世界は別の世界だからである。自我と形式の、主体と意味の、この分裂と
逆接の感覚こそが、ウィトゲンシュタイン哲学の──前期後期を通じて変わらぬ─
─強烈な現代性である。少なくとも私自身は、ドイツ観念論や現象学の主格的で半
生的な自我理解にまったくリアリティを感じないのに対し、ウィトゲンシュタイン
には、ほとんど肉感的といえるほどのリアリティを感じるのである。》(82頁)

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