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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.103 (2002/03/24)
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 □ 土屋恵一郎『処世術は世阿弥に学べ!』
 □ 土屋恵一郎『能』
 □ 多田富雄『脳の中の能舞台』
 □ マーク・ポスター『情報様式論』
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●318●土屋恵一郎『処世術は世阿弥に学べ!』(岩波アクティブ新書:2002.2)

 力強い本である。それは何も命令形で終わる書名の最後に付された記号のせいで
はない。一流の武芸者が立合でみせる気合いのようなものが叙述のそこかしこから
立ちあがってくる。《世阿弥の時代、能は一つの勝負ごとであった。…世阿弥の時
代には、能は、「立合」という形式でその芸を競った。…実にきびしい世界であっ
た。》(18頁)

 能の舞台はひとつの戦場であり、戦場には「いま」しかない。そこは人気や景気
といった不安定なものに満ちた世界であり、役者はもう一つの不安定で変化してい
くもの、つまり身体ともむきあっている。戦場には戦略が必要である。世阿弥がい
う「初心」とは、試練の時に臨んでこれを乗り越えていった戦略にほかならない。

 以下、著者は「時節感当」「男時・女時」「秘すれば花」「離見の見」「衆人愛
敬」等々と、世阿弥が残した言葉がもつ戦略性を説き明かしていく。これが第一章
「世阿弥の人生戦略」で、続く第二章が「世阿弥の創造性」、第三章が「人生のシ
ステム 世阿弥の人生論」(人間の人生を七歳頃から初めて七段階に分けた『花伝
書』第一章「年来稽古条々」の現代版)。

 私はこれらのうち第二章が一番面白かった。たとえば著者は世阿弥の能の最大の
発見は「旅」であったという。世阿弥の能は、旅の僧がこの世の「境」を超えて異
なる世界と出会う「旅行演劇」であり「ロードムービー」であったというのだ。

《世阿弥が発見したのは、このよく知られた物語[『源氏物語』『伊勢物語』『平
家物語』など]を、現実に舞台に登場させるための「仕掛け」である。「旅」とい
う仕掛けである。それを発見した時、能は、世界のどこにもない作品の生産力をも
つこと[ママ]なった。…人々は、自分ができない旅の体験を、この舞台の上の旅
の僧をとおして、実現することができる。舞台は、観客自身の夢のカプセルとなる。
…ここに能の魅力はあった。映画も当然ない時代に、世阿弥とその周辺の能の作者
は、この「旅」という方法を発見することで、今日の映画に通じる「夢」のカプセ
ルに能はなったのだ。》(79-80頁)

 世阿弥にとって、「夢」は過去の物語をよみがえらせるためのメディアであった。
世阿弥は「夢の編集機能」に注目し、能の舞台を、自由に物語が変化する場面にす
ることができたのである。なんという、天才。

《「夢」というカプセルをひらけば、そこに世界がひらけていた。確かにそれは革
命的な発見であった。能の研究者は、こうした世阿弥のスタイルを「複式夢幻能」
ともいっているが、現実と夢のなかの物語とを、あわせ鏡のようにして見せたこの
スタイルこそ、世界の演劇にかつてなく、現代の前衛演劇において可能となった、
きわめて革新的なスタイルであったのだ。》(89頁)

 ──ほんのさわりだけ抜き出した。小冊子ながら、著者が叙述する「情報カプセ
ル」としての能、情報編集者としての世阿弥の創造性(オリジナルを作らない創造
性、人々の「物語」についての記憶のなかにオリジナルを求めていく創造性)はと
てつもない広がりをもっている。不思議な人が書いた不思議な本。

●319●土屋恵一郎『能 現代の芸術のために』(岩波現代文庫:2001.3)

 新曜社版(1989年)が刊行された直後に読んだ記憶があって、その時も随分夢中
になっていたような気がするのだが、このたび一字一句反芻し、熟読玩味しながら
読み返してみてあらためて驚嘆させられた。文庫版あとがきに、渡辺保氏から「君
はこれ以上の文章はもう書けない」と評されたことが紹介されている。著者にとっ
ての「まことの花」が密封された奇跡的な書物であるということなのだろう。

 構造主義以後の思想を媒介として世阿弥の身体論と演劇論をとらえることによっ
て、能を祭儀的、共同体的、芸能史的な文脈から解き放ち、「時間と空間のうちで
その時々の変化のなかを生きている能の身体的で触感的な場所」を示したかった、
そこに「自由の空間」があると思ったからだ。同じく文庫版あとがきで著者はその
ように述べ、この考え方の政治思想の表現として『正義論/自由論』や『ポストモ
ダンの政治と宗教』を書いたと明かしている。迂闊だった。十数年前の私には、世
阿弥の能が政治思想の問題に、そして歴史の問題に深くかかわっていることなど読
みとれなかった。

《連歌と能に見られる、物語の外と内を往還する精神は、中世の精神をもう一度新
鮮な眼で見る手掛かりになっている。そこには、物語られてしまった時代の後に、
歴史に対して自由にかかわろうとする、ひらかれた歴史感覚がある。ヨーロッパの
ドラマが、こうした物語の内と外とを往還する、自由なドラマ感覚をもつためには、
二十世紀を待たなければならなかった。能を中世の芸能としてではなく、現在のテ
キストとして読む必要があるのは、そのなかに我々自身の歴史感覚が生きているか
らである。》(136頁)

《たしかに、寺院の庭に舞台をつくることは、寺院と結びついてきた信仰芸能集団
としての能の歴史を示している。しかし、河原に舞台をつくり、屋敷のなかに舞台
をつくる時、そこには、儀礼をささえる象徴もなければ、コスモスもない。人が集
まる場所でしかない。しかも、仮設の舞台には、歴史というものは本来ありえない。
つくっては壊すものである。その場所の記憶はつねに壊され、あたらしい空間の記
憶へと変換されていくのである。だから、それは記憶とは言えないものである。次
々とつくっては壊される場所の差異の経験である。その積み重ねられた差異の経験
が、能役者の身体をささえている。どんな場所であろうとも、そこで観客の「機」
を掴んでしまう能力である。「都市」の感覚能力である。》(168頁)

 ──この世には、ただ引用するしかない書物というものが存在する。

●320●多田富雄『脳の中の能舞台』(新潮社:2001.4)

 村上龍が奥村康との対談「ウイルスと文学」(『存在の耐えがたきサルサ』)で
次のように語っている。

《奥村先生の師にあたる多田富雄先生の書かれた『免疫の意味論』ですが、僕は初
めてあの本を読んだとき、初心者に免疫のおおまかな仕組みを分からせるには素晴
らしい本だと思いました。ただやっぱり、多田富雄先生は流行の知的アカデミズム
にも非常に詳しく、おまけに能なんかやられて日本的だから「自己とは何か?」な
んて余計なことまで言われています。『分子細胞生物学』などをまめに読んだ後だ
と、その部分が余計に思えてしまいました。免疫はスーパーシステムかどうかなん
て、どうでもいいことだと僕は思うんですけれど……。》

《僕は、免疫系から、個あるいは社会的な人間を見て何が「自己」で何が「非自己」
かを議論すること自体には意味はないと思っています。
 免疫学的にも哲学的にも大事なことは、外部から侵入した異物、たとえばウイル
スにリンパ球が応ずるときに、ウイルスそのものは識別できなくて「自己」とウイ
ルスの複合体に対してだけ反応する、というところだと思います。そこがすごく面
白い。他者と出会うとはなにか、という問題にもつながってくる。要するに、他者
とか、自己とか、また外部とか主体性とかいうのは、「発生する」ものなんですね。
前提的に存在して、自分は自分で、自己以外のものは他者だ、と自動的に固定して
いるものではない。
 恋愛を考えても、恋する相手の中に自分を発見したり、自分のことを好きになっ
てくれる相手を好きになったりする。この場合他者性はどこかで「発生」している
んです。
 そういうことを、免疫細胞はプラグマティックに、合理的に見分けている。だか
ら免疫系が優れたシステムだというのは、当たり前だと僕は思います。それを仰々
しく人間や社会にあてはめて、「自己」と「非自己」はこんなにも曖昧だと言われ
ても、困るんですよね。》

 『免疫の意味論』はたしかに素晴らしい本だったけれど、どこか違和感が残った。
それは『生命の意味論』を読んでますます高じていった。村上龍の発言はこの違和
感に一つの表現を与えていると思う。(別の文脈でこの発言を読むと、他者や外部
が「発生」する場、プラグマティックな作用の場としての能舞台といったアイデア
が浮かんでくるのだけれど、これは余計なことだろう。)

 本書は最初から最後まで能についてだけ書かれた書物だから、この種の座りの悪
さは覚えなかったが、その分読み手の思考に障るところがなくて、悪く言えば平板。
ただ、茶の「独座観念」になぞらえて能のもう一つの愉しみを語る「脳の中の能舞
台」とか、異なる時空を自由にワープする能の空白の舞台をパソコンの灰色の画面
に喩える「サイバースペースとしての能舞台」などは、土屋恵一郎氏の議論に通じ
るところがあって面白い。

●321●マーク・ポスター『情報様式論』
                (室井尚・吉岡洋訳,岩波現代文庫:2001.10)

 伝統的な批判的社会理論(「理性的で自律的な主体の意志の道具」として言語を
とらえる行為中心的な理論)をポスト構造主義(「それ自身を回帰的に指示し、指
示性を崩壊させ、それによって主体に働きかけ、それを主体の方向を見失わせるよ
うな新しい仕方で構成するい言語構造をめぐる理論的テクスト)によって再構築し、
電子メディアによるコミュニケーションのうちに自己指示的な言語のメカニズムが
広がる現代の社会空間の新しい特性を、すなわち新しい主体の布置を理解するため
の理論的条件を探求すること。

 これが本書の目的で、たとえば「ボードリヤールとテレビCM」の章では、およ
そ次のような議論が展開される。──テレビCMは視聴者を非合理な仕方で操作す
る。こうしたネガティブな断定を行うとき、批判者(たとえばアルチュセール)は
意識化のレベルで「言説の基礎となる自律的で合理的なエゴ」を擁護している。

 これに対して、言語理論に根ざした、つまり情報様式(電子メディアによって導
入された、文脈を欠落させたモノローグ的で自己指示的なコミュニケーション)の
概念を踏まえた新しいモデル(たとえばボードリヤール)によると、テレビCMは
「かつて資本主義的な生産様式や家父長制や自民族中心主義と結びついていたよう
なタイプの主体」を解体し、言説の受動的な対象(メッセージの発話内的な力を受
け入れる視聴者=消費者)であると同時に言説の主体(浮遊するシニフィアンをシ
ニフィエである製品に結合することによってCMの意味を創造する主体=神)へと
二重化する。

《テレビCMの中で作られている言語は、主体が自分自身の主体性を構成された構
造とみなし、自分自身を自己構成者の共同体の成員としてみなすようにし、そのよ
うに促すのである。それは(ヴィデオ・デッキや衛星を通じて)場所と時間を異に
する非同時的な共同体であり、そして、メッセージの主体/客体として自分を構成
するという仕方でのみテレビCMの自己指示的な会話に参加する個人からなる、無
言の共同体なのである。》(148頁)

 以下、「フーコーとデータベース」「デリダと電子的エクリチュール」「リオタ
ールコンピュータ科学」と議論は続くも、駆け足で一気読みしたため印象は散漫。

 本書は、能をめぐる土屋恵一郎氏の議論(情報カプセルとしての能や世阿弥の身
体論・テクスト論・演劇論など)との理論的交響を期待して読んだ。その意味では、
大澤真幸氏が「解説 現代的転回を検出する橋頭堡」で「フーコーとデータベース」
を敷衍して、パノプティコン型の監視が現実性の水準で構成されたときにもたらさ
れるのが、同一性を有する主体ではなくむしろ主体の分解・解離であると論じてい
ること──《われわれがここに見ているのは、ある機制が、あまりにもスムーズに
作動する場合には、かえって逆効果であって、いくぶんぎこちなく作動している間
だけ所期の結果をもたらしうる、という逆説である。》──の方が興味深い。

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