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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.102 (2002/03/17)
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 □ 木田元『最終講義』
 □ 中島義道『時間論』
 □ 青山拓央『タイムトラベルの哲学』
 □ アミール・D・アクゼル『「無限」に魅入られた天才数学者たち』
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●314●木田元『最終講義』(作品社:2000.9)

 定年退職時の最終講義と最終講演──「最終講義『ハイデガーを読む』」(1999
年1月23日、於中央大学文学部)と「哲学と文学──エルンスト・マッハをめぐっ
て」(1999年2月25日、於中央大学人文科学研究所)の二編──が収められている。

 『存在と時間』を読みたい一心で東北大学に入学してから五十年、中央大学に就
職してから四十年、「この間なにをしてきたかと申しますと、その答えは実に簡単
で、終始ハイデガーを読みつづけてきたと言っていいかと思います」。このような
簡潔な言葉で総括できる人生は美しい。

●315●中島義道『時間論』(ちくま学芸文庫:2002.2)

 中島氏の時間論はたいがい読んできた。『「時間」を哲学する』(1996年)の鮮
烈さは今でもありありと想起できる(心身問題は現在と過去の関係の問題だという
指摘など、今や私の思考の基底となっている)。

 『純粋理性批判』を「時間論の書」と規定した『カントの時間論』(1987年、原
題『カントの時間構成の理論』)や『時間と自由』(1944年)もとても斬新だった
(実は後者はまだ読み切っておらず、現在も折にふれて読み続けているものなのだ
が、ある箇所で、「今となってはすでにない過去世界が現にあった」という構造こ
そがすべての哲学的議論の湧き出る源泉であり、すべての哲学的二元論──観念論
と実在論、合理論と経験論、形相と質料、デュナミスとエネルゲイア、普遍と個別、
主観と客観、現象と物自体、自発性と受容性、ノエシスとノエマ、認識と行為、自
由と必然など──は、究極的に現在と過去との二元論に起因するのではないかとい
う中島氏の「実感」が述べられていた)。

 それらの著書と比べて本書の「新しさ」がどこにあるのか、率直に言って私には
よく分からなかった。確かに、アウグスチヌスやフッサールやベルクソンの「現在
中心主義」に対する中島氏の「過去中心主義」(森岡正博氏の命名)はより鮮明に
打ち出されているし、何よりも、現在とまったく異なった過去固有のあり方を確認
した大森荘蔵の時間論に対する批判は徹底している。

 たとえば、大森氏は「カントが表象と呼ぶものは主として知覚表象であり、それ
から構成される実在とは事物の現実存在である」(『時間と自我』114頁)と語っ
ている。中島氏によれば、表象[Vorstellung]が主として知覚表象であることは
超越論的観念論のどこからも読み取ることはできないし、ましてそこから構成され
る実在が事物の現実存在であるわけではない。大森は「実在性」と「現実性」を混
同している。カントにおいて実在とは事物の実在、ひいては物理的世界の実在なの
であって、そこに〈いま・ここ〉からの知覚風景を重ね合わせるとき開かれる世界
が現実である(本書144頁)。

《表象とはそもそも過去的であり、言語命題の中にその実在が与えられているのだ。
すなわち、「表象」という言葉の重み(軽さ?)は想起される過去世界の重みに対
応している。(略)超越論的観念論における客観的統一世界のモデルは、純粋な概
念の世界でも知覚された世界でもなく、両者の中間としての表象としての過去世界
なのである。言いかえれば、過去世界は単なる概念と〈いま・ここ〉で知覚されて
いる世界との中間的なあり方をしている。》(145-146頁)

 それ以外にも、過去の行為に対する責任能力をめぐる議論やベルクソンの純粋持
続(時間以前のもの=私以前のもの)と自由をめぐる議論など、読むべき箇所があ
るにはあるのだが、それでも疑問は拭えない。あえて『時間論』と名づけるだけの
決定的な何かがここにあるのか。

 「時間について、厭になるほど考えてきた」と中島氏は本書のあとがきに書いて
いる。厭になるほど考えるにはそれなりの理由がある。それが中島氏の「哲学の問
題」だからだ。『「時間」を哲学する』では「「死ぬ」時としての未来」が最終章
「現在という謎」の直前に置かれていた。本書では「時間の限界としての現在」の
次に最終章「幻想としての未来」が置かれている。この逆転は何を意味しているの
か。「死ぬのが嫌だ!」(『「時間」を哲学する』あとがき)と「ぼくは死ぬ!」
(本書あとがき)の違いに、二つの〈いま・ここ〉における中島氏の「実感」の差
異が示されているのだろうか。

●316●青山拓央『タイムトラベルの哲学──「なぜ今だけが存在するのか」
               「過去の自分を殺せるか」』(講談社:2002.1)

 巻頭の対談「この本を読むにあたって」で永井均氏が語っているように、三部構
成の本書のうち「哲学的な意味」で圧倒的に面白いのは第V部「誰が時間を語るの
か」だ。

 著者はそこで、アキレスと亀のパラドックスが孕んでいる「すごい問題」(これ
も永井氏の言葉だ)──「無限の時間軸を所与のものとして扱う態度」への批判と
「この時間軸が語っているのは、誰にとっての時間なのか?」「その時間軸はいか
なる同一性を根拠に据えているのか」という問いがそこから出てくる──を起点に
して、「視点」の同一性に立ったカントの時間論(それは「私」の「視点」と一体
化した世界の同一性を基盤としている)の枠組みから、「対象」の同一性(それは
固有名詞の使用というかたちでわれわれの言語に溶け込んでいる)に基づいて構成
される時間軸を分離し、さらに心脳問題との関係や主観成立以前の根源的な時間の
流れについて言及し──《時間の流れの問題は、たとえ脳を作っている物質の固有
性が完璧に数量化されたとしても、別の次元の問題として残されると思う。なぜな
ら物質の数量化は、経験可能な世界内部の問題だけど、この時間の流れってやつは、
僕らの経験可能な世界に一切姿を現さないんだから。でも僕の直観としては、時間
の流れが経験不可能だからといって、これを無視するのは危険だと思う。──「波
形」が本当の「波」になることの、理由が明らかにならないからだね。》(216-217
頁)──、そして、時制の客観性と事物の同一性の二つの概念を不可分一体のもの
として自らの内に取り込んだ言語をめぐる終章の議論へとつないでいく。

 ここには全ての哲学がそこから「始まる哲学」(これも永井氏の言葉だ)の可能
性が凝縮されていると思う。もちろん第T部での「なぜ今だけが存在するのか」を
めぐる議論や経験の「現実性」と個人の経験を超えた客観的な「実在性」の区別、
ウィトゲンシュタイン=永井の「語り得ぬ現在」への言及もスリリングだったし、
第U部での時間モデル(実在性と可能性、単線モデルと分岐モデルの組み合わせに
よる)をめぐる議論も魅力的だった。

 それでも、あえて(?)副題に取り上げなかった第三の問い「誰が時間を語るの
か」(青山氏にとっての究極の哲学の問題だと思う)に真っ向から取り組んだ第V
部の迫力には及ばない。そこから何か新しい歴史哲学のようなものが始まるのかど
うか、それは誰にも分からない。

 ──数式がほとんど出てこないことが一般向けの数学や物理学の本のウリにされ
ることがあるが、高名な哲学者の名前やその思索をめぐるくだくだしい紹介がほと
んど出てこない哲学の本こそ真正の哲学書だ。本書を読み終えて、改めてそう思う。
(一言断っておくと、すべての哲学の本は一般向けに書かれている。というより、
自らの哲学の問題とそれをめぐる思索を「われわれの言語」を使って公にした人の
ことを哲学者と呼ぶのだ。ついでに書いておくと、哲学者の名前とは「哲学の問題
」の異称である。)

●317●アミール・D・アクゼル『「無限」に魅入られた天才数学者たち』
                      (青木薫訳,早川書房:2002.2)

 数学の本はいつ読んでも、どんな内容でも楽しめる。まして、思想史や精神史と
いったいわゆる人文系の問題と関連づけられた本であれば、たちまちのうちに魅入
られ陶酔できる。本書は優れた「数学ノンフィクション」の書き手によって著され
た無限をめぐる人間の精神史であり、ゲオルク・カントールやクルト・ゲーデルと
いった希代の数学者(神に狂った数学者)に関する第一級の物語である。十分堪能
し充足したので、もう何も言うことはない。

 ──本書を読んだのは、十八世紀末から十九世紀初頭にかけてのヨーロッパ精神
史をめぐる書物(木田元『マッハとニーチェ』『最終講義』、上山安敏『神話と科
学』『フロイトとユング』、生松敬三『二十世紀思想渉猟』、フェルマン『現象学
と表現主義』)や時間をめぐる書物(中島義道『時間論』『時間と自由』、青山拓
央『タイムトラベルの哲学』)、それから能関係の書物(土屋恵一郎『処世術は世
阿弥に学べ!』『能』、多田富雄『脳の中の能舞台』)を同時進行的に読み進めて
いたときのことだった。それは気分転換にたまたま選んだ新刊書だったのだが、読
み終えて、この四つのジャンルにはある不思議な関係があると気づかされた。

 まずカントールの生年は一八四五年で没年は一九一八年、まさに「世紀転換期思
想史」(木田元)の一角を担う「思想家」の資格がある。それどころか、たとえば
マッハ由来のゲシュタルトの観念、歴史の古層や精神の深層(無意識)といった観
念は無限集合論と何やら関連がありそうだし、そもそも「数学の本質は、その自由
性にある」と語ったカントールの数学自体が「抽象」や「純粋」を標榜する時代の
精神に叶うものだったのではないか(これは仮説的思いつき)。

 次に、これがもっとも面白い関係だと思うのだが、無限集合論と時間論はとても
相性がよい。というより、カントールのテーマは時間生成論そのものだったのでは
ないか。(この仮説的思いつきについては、選択公理と意識の関係などとともに、
今後の「研究」の種としてあたためておこう。とりあえず竹内外史『集合とはなに
か』の再読から始めるか。)

 それから最後の能と無限集合論の関係については、夢幻=無限や、夢(情報)の
カプセルと集合の関係といった、これもまた表層的な思いつきでしかない。いずれ
にせよ、これら四つのジャンルに通底するのが歴史という観念であることは、どう
やら間違いがないように思う。

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