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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.101 (2002/03/09)
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 □ F.フェルマン『現象学と表現主義』
 □ 上山安敏『神話と科学』
 □ 山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』
 □ マックス・ヴェーバー『古代ユダヤ教』
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木田元さんの『マッハとニーチェ』の「種本」二冊と、以前読んだ関連本二冊。
 

●310●F.フェルマン『現象学と表現主義』
                  (木田元訳,岩波現代選書:1984.9/1982)

 実に鮮やかな書物だ。──訳者あとがきに、著者自身による本書の要約が訳出さ
れている。簡にして要を得た内容紹介なので、抜き書きしておく。

《この学際的な研究において私は、一九一三年の『イデーン』において盛期に達す
るエドムント・フッサールの現象学の観念論と、文学上の表現主義とを共通の思考
形態[Denkform]に帰一させようと試みる。それは、第一次世界大戦直前の精神史
的‐社会史的問題状況への応答としての、この時代の現実性の概念を造形した〈脱
現実化的現実化〉[entwirklichende Realisierung]という弁証法的思考形態であ
る。フッサールの現象学的還元の理論は、この現実性の概念の哲学的方法論への翻
訳にほかならない。これを証示するために私は、フッサールの思考をもっと広義の
表現主義的作家たち──フーゴー・フォン・ホフマンスタール、ロベルト・ムージ
ル、カジミール・エートシュミット、ヴィルヘルム・ヴォリンガー、マックス・ピ
カート、カール・バルトら──の思考と結びつけている構造上の親縁性を跡づける。
最後に私の思考形態分析は、現象学を最終的に二十世紀のもう一つの大きな精神的
運動、つまりジークムント・フロイトの精神分析に近づけることになった還元思想
の変容を追跡する。》

 ここに出てくる「広義の表現主義的作家たち」をめぐる議論がとりわけ新鮮かつ
斬新で、目が覚める思いがした。

●311●上山安敏『神話と科学 ヨーロッパ知識社会 世紀末〜20世紀』
                      (岩波現代文庫:2001.10/1984)

 巻末の解説「『神話と科学』のたまらない魅力」で木田元氏が、入り組み錯綜し
た共時的な事態を継時的でリニアな文章に載せて一気に語ろうとする「上山さんの
不思議な文体」について、時にもどかしげに痙攣したり息せききってつっかえたり
するように思われるが「読みなれてくると、この文体がまた上山さんの本のたまら
ない魅力の一つになってくる」と書いている。きわめて適切な評言だと思う。

 実際、上山氏の文体はどこか夢を思わせるところがある。夢の表層を剥ぎその深
部を発掘してみると、そこにはカリスマ・ゲオルゲと職業人・ウェーバーとの直接
の交流や、オットー・グロースとエルゼ・リヒトホーフェンとウェーバーをめぐる
エロスの饗宴、スイスのアスコナ・コロニーやバーゼルでの知識人の錯綜した関係
等々が目も眩むようなパノラマを織りなしている。

 上山氏は考古学者の手捌きでもって、こうした太古(アルケ)と近代(モデルネ)
が交錯する夢の時代の細部を明かしていくのである。すべてが終わり夢から醒めて
みると、そこには著者自身の「あとがき」があたかも墓碑銘のように残されている。

《一八八○年代から一九一○年代にかけての時代は原人間[ウアメンシェ]、心[
ゼーレ]、人間の深層知を探測した時代である。それは神話による人間の原始の観
念層を発掘した時代でもある。それはたんなる自然への回帰ではなく、批判的な専
門科学によって忘却され、無意識に抑圧されてしまった人間の心の発見である。(
中略──この間、ニーチェとバハオーフェン、フロイトとユングに言及)

 ギリシャ以来のミュートスとロゴスの対立は、この一八八○年代から一九一○年
代の世紀末を挟んだ時代の精神状況では、自然科学と批判的実証主義が神学をも含
めた全学問領域を席巻する状況になればなるほど、神話の世界への帰還、人間の原
基を求めようとする知の動きは感性の復権となってあらわれる。そこではイメージ、
想像力、象徴による解読がなされる。人間の深層に宿る基層を通して太古の人間と
現代人とが交感し合うものを求める。これはたんなるロマン主義ではなく、自然科
学を触媒にしている。(中略──この間、批判的歴史主義に立脚したウェーバーの
社会科学と、神秘主義と感性に流れ神話文学に取り組んだモデルネの文学者に言及)

 概念とイメージ、明証性と直観、客観性と主観性、分析と内からの観照という科
学を分かつこのミュートスとロゴスの対立は、固定されるものではない。歴史的・
社会的事象に分析的解明を行ない、脱呪術化と合理化を学問的に認めたウェーバー
は行為論に主観的動機を入れこみ、類型的把握の道具概念にたった理念型もイメー
ジ性を孕んでいた。心のいを心因性からとらまえた精神分析の内部でも、無意識を
幼児期の外傷に求めて、無意識の最終的な分析による解明を信じたフロイトと、無
意識を系統発生的にたどり、個人を超越した集合無意識が「生きられた生」であっ
て、「かのように[アルス・オプ]」以上の科学的分析を認めないユングとの間に
は決定的な違いが見られる。いずれにしても今日われわれの直面している問題であ
ろう。》(384-387頁)

 本書に続く『フロイトとユング』『魔女とキリスト教』が読みかけのまま書棚に
積まれている。こうして、夢はさらなる夢へと接続されていく。

●312●山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』(岩波新書)

 著者は本書で、10年にも及ぶ神経症との闘いの中にあった中期のヴェーバーが、
進化論的な枠組みに基づく前期の「歴史的個性認識」の歴史学から、循環論的・運
命論的な枠組みに基づく後期の「社会学的理念型的構成」の社会学へと転身を図る
きっかけとなったのは、古代史の再発見、とりわけ「ホメロス時代の古代ギリシア
を一つの比較規準として設定し、歴史の経過をそこからの退化として描き出す手法
」をニーチェから継承したことにあったと指摘している。

 ここでいわれる古代史の再発見とは、古代オリエント世界において、軍事貴族=
戦士市民層が没落し、王権と祭司階級との結合による神政政治型の帝国、すなわち
ライトゥルギー(対国家奉仕義務)原理に基づく官僚制国家が築かれたのに対して、
古代ギリシア世界が、ペルシャ戦役の勝利を通してライトゥルギー国家への道をい
ったんは克服し、軍事貴族=戦士市民層による世俗型のポリス的都市国家を実現し
たこと、そしてポリス世界が衰弱してヘレニズム時代あるいは中期以降のローマの
ように帝国化し、ついにはライトゥルギー原理による普遍的統合が完成されるに至
ったという、「時間とともに進化していく歴史というイメージではなく、内部にド
ラマを孕んだ巨大な循環のイメージ」に彩られた古代史の認識にほかならない。

 この永劫回帰の時間概念にも比すべき歴史認識が、ヴェーバーが生きた時代(そ
れはまた私たちが生を営む時代でもある)の趨勢に重ね合わせられていることはい
うまでもない。また、このような視点からヴェーバーを再読するならば、晩年の大
作『古代ユダヤ教』も、従来の通説のように、非合理的な呪術からの脱却による合
理的な宗教倫理の確立といった伝統的祭司層と革新的予言者たちとの対抗関係の観
点から読まれるべきではなく、むしろ武装自弁の自由農民層や騎士=戦士と予言者
との対抗関係、あるいは責任倫理(英雄倫理)と心情倫理(平均倫理)との対立の
観点から読まれるべきものとなる。

 いまその若干の例をあげたように、この書物はまさに「ヴェーバー像を大胆に書
き換える画期的な書物」(朝日新聞[1997.6.22]紙上での桜井哲夫氏の評言)で
あって、ニーチェとヴェーバー、さらにはニーチェを介してのフーコーとヴェーバ
ーの関係(知の考古学と意識の考古学)など、数え上げるときりがない創見と刺激
とヒントに満ちている。

●313●マックス・ヴェーバー『古代ユダヤ教』(内田芳明訳,岩波文庫)

 私はこの本を物語として読んだ。あるいは壮大な歴史ノンフィクションとして読
んだ。けっして血湧き肉踊る文章ではないし、ときとして細部に分け入り脱出不能
な隘路に陥ることが多々あったのだが、それでも全巻を通読して、何か途方もない
規模と容量をもった精神のマトリクスのようなものが浮上していく様をリアルに体
験した。(ただ、それをここで的確に表現できないのが悔しい。)

 もとより、この浩瀚かつ緻密、重厚にして広大な射程をもった書物を数語でもっ
て要約してみせたり、そのエッセンスを摘出したり、ましてや学問的に評価したり
することなど私の技量をはるかに超えた所業でしかないのであって、だからここで
はただ一点だけ、古代ユダヤ人は「聴覚の民」とでも規定すべき特質をもっていた
のではないかという、本書を読みながらふと心をよぎった妄想めいた感想をメモし
ておくにとどめよう。

《…予言者のばあい…視覚的体験の意義よりも聴覚的体験の意義の方がはるかにい
ちじるしく、かつ特徴的な仕方で、まさっているのである。予言者は何かある声を
聞く。それは彼に語りかけ、彼になにか語るべき、場合によってはなにかなすべき、
命令だとか指図だとかを与える声であったり、あるいは、…予言者が欲しようと欲
しないとにかかわらず一つの声がかれの口を通じて語られるのである。このような
耳で聞く体験が幻を見る体験に優越するということは、…偶然ではなかった。それ
はまず第一に神の不可視性という伝来の思想と関連していた。》

 付記。小岸昭氏の『離散するユダヤ人』に次の文章がある。

《ユードゥアルト・フックスによれば、少なくとも千年間は砂漠の中に暮らしてい
たというユダヤ人は、その「研ぎすまされた聴覚」によって、迫り来る危険をいち
早く察知する能力を身につけていた。…こうして砂漠の経験は、忍び寄る危険の察
知能力ばかりでなく、あらゆる状況の変化への同化能力を彼らの中に発達させた。
…それだけにとどまらずユダヤ人は、すべてを明るい光の下に見るという、砂漠で
培ったもうひとつの能力、すなわち文学的・哲学的な思考や経済活動などの分野で
発揮される、そのずばぬけた抽象能力を携えて、世界各地に離散して行ったのであ
る。》

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