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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.100 (2002/03/03)
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 □ 三浦雅士『青春の終焉』
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木田元さんの『マッハとニーチェ』を読んで以来、どの本を読んでも、そこで叙述
された問題圏のうちに回収されてしまうように思えてきて、しだいに息苦しくなっ
てきました。そこで、少し目先を変えて、気になりながらこれまで読めなかった本
で気晴らしをしようとまず手にした『青春の終焉』が、これまた「世紀転換期思想
史」にぴったり重なってしまうものだから、もう腹を据えるしかありません。

それにしても評判通りの面白さで、一気に三時間、完全にはまってしまいました。
お定まりの青春の問題系、たとえば父と子の相克や家族制度の桎梏といったいわゆ
る「私小説」の題材にほとんど言及せず、日本近代文学というローカルな領域を一
気に広々とした問題圏のうちに引きずり出す手腕は実に水際立っていて、これもま
たひとつの創作落語、高級講談の類だと感じ入ったしだいです。

本書を読んで、読みかけのままだったチェホフ全集を思い出したことと、久しぶり
に太宰治を読み直したくなったこと、それから、やはりベンヤミンが現在とらわれ
ている問題圏の中心にいたのだと再確認したこと、この三点を個人的な覚えとして
書いておきます。
 

●309●三浦雅士『青春の終焉』(講談社:2001.9)

 著者は一九六○年代における「青春の終焉」を三つの視点、というより枠組みを
交錯させながら叙述している。以下、その雰囲気を漂わせる若干の素材を標本とし
て蒐集し、箇条書き風に列記しておこう。(本書が持つ広がりと深さと強度に照ら
してみると、ほとんど廃墟としか形容のしようがない有様だが。)

 第一の枠組み、日本近代文学。──たとえば、夏目漱石が小説作品に描いた三角
関係を小林秀雄は実生活で演じた。近代における三角関係の特徴は、恋愛における
敗者がその強い自己意識ゆえに勝者になることにあった。つまり「三角関係が強い
自己意識を生むというより、逆に強い自己意識が三角関係を引き寄せるとでもいう
ほかない事態」(39頁)がそこに出来していた。

 その小林秀雄が、太宰治とともに「戦後日本の青春の内実を決定した」(120頁)
のである。武田泰淳や三島由紀夫、安部公房といった「そろって自己言及のパラド
ックスにこだわっていた」(218頁)作家たちが先鋭な仕事をしていた「一九六○年
代の日本においては、小林秀雄と太宰治が青春の典型として仰がれていた」(438頁
)。というのも「自殺未遂の経験は、この二人が根源的であることを立証していた」
からである。

 第二の枠組み、十九世紀日本文学。──夏目漱石と小林秀雄と太宰治は「落語家
」であった。(小林秀雄については、残された講演テープを聴けば了解できるだろ
う。)その落語が職業として成立したのが十八世紀末のこと。そもそも「文学の歴
史は、口語と文語の対立と融合の歴史」(212頁)にほかならないのだが、「十八
世紀にいたって、ほんらいは文語の世界に属していたものが続々と口語の世界に侵
入してきたという事態」(228頁)が生じ、「口語と文語の往還が日常茶飯となり、
創作落語にほとんど無限の素材を提供することになった」のが十九世紀、滝沢馬琴
の時代である。

 著者は「青春という主題が霞のように立ちこめたのがまさに十九世紀初頭、管見
によれば、ほかならぬ馬琴の読本の周辺からであり、さらに、それが明確な主題に
転ずるのは、馬琴を暗誦するまでに熟読した世代が真っ正面から文学なるものに取
り組む十九世紀末において」(239頁)であったと指摘している。結果的に漱石に
よって主導されることになる二十世紀日本文学はまさに青春の文学というほかない
ものであったのだが、「青春という視点に立っていえば、日本文学は、十九世紀か
ら二十世紀にかけて、馬琴の色濃い影に覆われていた、漱石さえも例外ではなかっ
た」(240頁)というのだ。

 小林秀雄は「故郷を失つた文学」(1933年)で、文壇文学は青春を失った青年の
文学に堕したが、大衆文学はそうではない、そこにこそ青春を失っていない青年の
文学があると書いた(328頁、ただし著者による読解)。吉川英治が(おそらく『
ウィルヘルム・マイスターの修業時代』を強く意識しながら)『宮本武蔵』を朝日
新聞に連載し始めたのが、『八犬伝』からほぼ一世紀を経た一九三五年のことであ
った。

 第三の枠組み、近代ヨーロッパ。──小林秀雄のドストエフスキー論、とりわけ
最後の評論「『白痴』についてU」は、柳田国男に通底する近代文学批判の色彩を
帯びている。著者はそのことをミハイル・バフチンの仕事に関連づけ(カーニヴァ
ルも革命も「青春」の系である)、さらにレヴィ=ストロースの『野生の思考』(
1962年)と同じ認識が『ドストエフスキイの生活』の序文「歴史について」に示さ
れていると指摘している。

 一九三○年代にはじまった「青春の大衆化」という世界史的底流の上にもたらさ
れたマルクス主義の勃興やプロレタリア文学の隆盛に抗して、ドストエフスキーの
文学の核心に潜むマルクス主義批判を分析しようとしたのだが、そう身構えた瞬間
に戦争とともに敵は消失し、小林秀雄は「ただ、自己言及のパラドックスのなかに
世界の謎を静観する思想へと着地していった」(421頁)。

《ドストエフスキーは、資本主義社会を分析するその鋭い刃を、自分自身に、また
自分自身の党派に向けたマルクスである。その傲慢、その悪意、その策謀を、自分
自身に向けたマルクスである。急進的かつ根源的であることにおいて、マルクスと
ドストエフスキーは、まさにひとつの対にほかならなかった。(略)青春の終焉と
は、マルクスとドストエフスキーが対になっているこのような構図そのものの終焉
である。》(428-429頁)

 マルクスとドストエフスキーが対になっているような構図、すなわち青春とは「
十八世紀が発明した観念」(442頁)であり、「資本主義の勃興、市民社会の勃興
とともに生じた集団概念」(445頁)である。進歩=成長の思想とロマン主義(天
才的個人への憧憬)の合体、「郷愁」と「教養」の発明、過激であること=急進的
かつ根源的であること、自己意識の迷宮・私という逆説へのこだわり等々によって
定義される精神史的概念であり、西欧と日本の二○○年に及ぶ時代(「失うものは
何もない」という意識が意味を持ったひとつの時代=過渡期であることを意識する
時代)を画する概念である。

 そもそも、時代を区分すること自体が青春=近代の特徴なのであって、実際、ル
ネサンスやバロックはそれぞれ十九世紀と二十世紀に確立した時代概念にすぎず(
476頁)、さらにはヘレニズムやヘブライズムでさえ「その数世紀のあいだに生ま
れた泡のような流行にすぎない」(484頁)のである。

 小林秀雄と太宰治を(実朝を介して)並記した吉本隆明とともに、青春は終わっ
た(120頁)。吉本隆明と同様、急進と根源という青春の主題を真正面から扱った
大江健三郎の『万延元年のフットボール』は、やがて鷹四(行動する急進派)の延
長上に村上龍の小説のほとんどの主人公を、蜜三郎(傍観する知識人)の延長上に
村上春樹の小説のほとんどの主人公を、そして鷹四と蜜三郎の物語を浮かべる森と
窪地の神話の延長上に中上健次の小説の真の主人公ともいうべき路地の神話を位置
づけることになるだろう(454頁)。

 著者は、青春の終焉は教養の終焉でもあったと書いている(306頁)。《教養の
時代の終わりは、少なくとも日本においては、明確な日付を持っている。一九七○
年十月二十日である。ミシェル・フーコーの『知の考古学』の邦訳が刊行された日
だ。》(375頁)

 教養の終焉とは、成長(ビルドゥンクス・ロマン)の終わりでもある。十九世紀
の馬琴に匹敵する影響を二十世紀の日本に与えたのは、漱石でも吉川英治でもなく、
成長しない少年を造形し性の未分化を描いた手塚治虫のバロック的な作品(少女漫
画の起源)であったと著者はいう。──かくして青春の終焉とともにすべての観念
は考古学の対象、つまり瓦礫、廃墟と化す。

《論理としての青春はいまや完全に雲散霧消した。バロック的なものが漫然と空白
を埋めているにせよ、青春という倫理をもたらした歴史哲学的な認識、すなわち身
も蓋もない言い方をすれば進歩の思想もまた、雲散霧消したのである。いや、いま
や歴史哲学的な認識への飢えさえも存在しないほどだ。バロックもたんなる意匠に
すぎない。ベンヤミンのメランコリーは、その雲散霧消すなわち廃墟への、苦い予
感によってもたらされたものとしか思われない。》(482頁)

 本書は一種の世代論ともいうべき構えのもとで書かれている。実際、著者は登場
する文学者や思想家の年齢差を克明に、いや執拗に記している。「歴史哲学的な認
識」が雲散霧消した後に残るのは年齢差しかないと言わんばかりに。

 それでは性差はどうか。性差はもともと青春のテーマ(性欲、男性の?)から除
外されていた。(ベンヤミンは1931年3月6日付の日記に「真の愛が私を私の愛した
女性と似た存在にかえていく」と書いている。そして「私の生涯における三つの大
きな恋愛体験」についてこう書き記している。「私は三人の異なった女性を人生に
おいて相知った。そしてそれによって三人の異なった男性を私の中に知ったのであ
る」。)

 青春の次は子供か。(子供は考古学者ではない。子供は解剖する。)あるいは幼
年期か。(フロイトの深層心理? それともユングやバハオーフェンの神話の古層
?)あるいは天使か。(ピエール・クロソフスキーのベンヤン評、「天使の魂。実
際、彼は天使のごとき人物だった」。またショーレムの『わが友ベンヤミン』によ
れば、ベンヤミンとごく親しかったある女性は彼のことを「肉体がない」と評した
という。)

 青春の終焉によって廃墟と化した未来には、単性生殖する超人がひかえている?

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