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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.99 (2002/02/24)
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 □ ジル・ドゥルーズ『ニーチェ』
 □ 渡辺哲夫『知覚の呪縛』
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今回とりあげた二冊の本に共通するもの、というより通底するものを三題噺風にま
とめると、仮面とカフカと無意識。もう少し詳しく書くと、仮面と鏡と皮膚、カフ
カと法と言語、他者と歴史と内臓(身体内空間)になります。

このことはそのうち、時間的余裕をみつけてちゃんと整理しておきたいと思ってい
るのですが、時間的余裕ができたときには、いったい何を考えていたのか自分でも
分からなくなるにきまっているので、ここで二つだけ、備忘録がわりの抜き書きと
個人的な覚書を残しておきます。

◎ジャン−ルイ・ベドゥアン著『仮面の民俗学』(斎藤正二訳,白水社)
《ここで、仮面が現在にいたるまで生きている例を一つあげますと、これはわたく
しの仮説でしかないのですが、年ごとに田圃に立てられる案山子は、もとは仮面で
はなかったかと想像されるのです。(略)…仮面といっても、狩猟民の作る木製な
いしは籐製の仮面ではなくて、水稲耕作民の作る藁製の仮面ではなかったか、と想
像します。藁製の仮面は、かならずしも、人間の顔かたちを具える必要はなかった。
藁を一と束括れば、そこに祖霊がやってくる、と信ぜられた。(略)どうやら、藁
というものは、地上に翳すだけで、祖霊の憑りしろとなりえたらしいのです。藁に
宿る精霊は、農耕民にとっては穀霊にも相当したでしょうが、船でやってくる祖霊
は、…仮面をかぶり、しかも、その仮面は、藁をかぶっただけの単純なものだった、
と想像されるのです。(略)『古事記』[引用者註:上巻、大国主神神裔の条]に
見えたクエビコ[引用者註:案山子のこと]は、この意味の藁仮面の起源を説明し
たものではないでしょうか。 》(「訳者追い書き」142-3頁)

◎ジル・ドゥルーズ『差異と反復』(財津理訳,河出書房新社)
《なぜなら、可能的〈ポッシブル〉なものは、実在的〈レエル〉なものに対立し、
したがって可能的なもののプロセスは、「実在化〈レアリザシオン〉[実現]」で
あって、反対に、潜在的〈ヴィルチュエル〉なものは、実在的なものに対立せず、
それ自体ですでに、まったき実在性を所有しているからである。潜在的なもののプ
ロセスは、現実化〈アクチュアリザシオン〉なのである。》(318-319頁)

ここでたとえば、アクチュエルなものを知覚世界に、潜在的なものを非知覚=想起
世界に置きかえた上で、可能的なもの(アクチュエルだがレエルでないもの)を知
覚世界における「物自体」(他者)と考えてみる。そして潜在的なもののうちにレ
エルでないもの(可能的なもの)を想定し、これを「過去自体」(歴史)と、そし
て潜在的でレエルなものを「内臓」と考えてみる。
 

●307●ジル・ドゥルーズ『ニーチェ』(湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫:1998.5)

 たぶんいつか無性にニーチェを読みたくなる時が訪れるという予感、いや確信が
あった。そういう時のためにあらかじめ用意しておいた呪文がある。「ニーチェを
読むなら、まずこの本を読め」。

 ドゥルーズによる簡潔きわまりないニーチェの生涯の要約──「ニーチェにおい
ては、一切がマスクである」「両手や両耳、そして双眸が、ニーチェの身体のうち
で美しい箇所であった」。

 ドゥルーズ自身の思考の流れに寄り添い縒りあいながら叙述されるニーチェの哲
学のエッセンス──「ニーチェは哲学にアフォリズムと詩という二つの表現手段を
組みこんでいる」「このテクスト[『漂泊者とその影』の「囚人たち」と題される
物語]は、不思議にカフカと共鳴し合うものを示している」(そういえば『ニーチ
ェは、今日?』に収められた「ノマドの思考」でも、ドゥルーズはカフカの「万里
の長城」に言及していた)「力の、力との関係は、「意志」と呼ばれる。……ニー
チェの語るところでは、〈力〉への意志はなにであれ欲しがったり、手に入れるこ
とに存するのではなく、むしろ作り出すことに、そして与えることに存するのであ
る。〈力〉への意志というときの〈力〉とは、意志が欲するものではなくて、意志
のうちで欲しているもの(ディオニュソスその人)なのである」「歓びは、哲学す
るための唯一の動機として出現する。……既にルクレチウスは、またスピノザは、
この点に関して決定的な著述を行なっている。ニーチェ以前に彼らは哲学を、肯定
する〈力〉として、瞞着に対する実践的な戦いとして、否定的なものの放逐として
構想しているのである」「ニーチェは諸々のイデーを「劇に仕立てる」思想家であ
る」「〈永遠回帰〉は〈反復〉である。だが、それは選り分ける〈反復〉であり、
救う〈反復〉なのである。解き放ち、選り分ける反復という驚くべき秘密なのであ
る」。

 ニーチェ的世界の主要登場人物辞典──鷲=蛇、驢馬=駱駝、蜘蛛、アリアドネ、
道化、キリスト、ディオニュソス、高位の人間たち、ツァラトゥストラ=ライオン。
六つの章に分割収録された三十四の文章からなる「ニーチェ選集」──「哲学者と
はなにか?」「哲人ディオニュソス」「諸々の力と〈力〉への意志」「ニヒリズム
から価値転換へ」「永遠回帰」「狂気について」。

 最後に訳者による長編の(同じちくま学芸文庫から出ている『ヒューム』での合
田正人氏の解説「ドゥルーズによるヒューム」ほどではないが)論考「ドゥルーズ
とニーチェ」──「ニーチェはヘラクレイトス的な世界観や思想を徹底化する。…
…しかしニーチェが一切は純粋に生成していると考えるとき、それはなにかの始源
から発して生成しているのではない。オリジン(始源=起点となる本来的同一性)
は、いつも欠けている。……あるものと思われているなにかは、最初から〈それ自
身〉としての同一性を欠いている。もともと自己同一性が欠けており、いわば自己
自身の片割れ、断片のようになっている(ちょうそシンボル、記号[シーニュ]の
ギリシア語源である Sumbolon,Semeion が「分割されているもの、割り符のよう
につねにその半分を欠いているもの」であるのと同じように)。/別様に言えば、
もともと仮象的であり、初めから自己自身を模擬している、最初からパロディ的な
のであり、自己自身のシミュラークルとなっているのである。こうして純粋に生成
するということは、いつも自己との差異をなすこと、自己(としての同一性)を絶
えずかわして差異化することである」。

 この本を読み終えて、二冊の書物──『ニーチェと哲学』(ドゥルーズ)と『反
復論』(湯浅博雄)──が書棚の潜在領域からアクチュアルな領域へと移行しつつ
あるのを予感、いや確信している。

●308●渡辺哲夫『知覚の呪縛 病理学的考察』(ちくま学芸文庫:2002.2/1986)

 精神病理学者として、分裂病者Sの主治医として、著者は没落したSの世界を理
解しようとする。そこは「ワラ地球」(Sが「入れられた」世界──知覚世界)と
「オトチ」(お土地=本当のモトの地球・オヤグニ[親国]=原物・起源の世界─
─非知覚的想起世界)という「瓜二つ」の世界に二重化されていた。

 「オトチに戻りたい、オトチに帰りたい、オトチに変えたい」とSの欲望が向か
う対象──「知覚の“外部”に、現在の“外部”に、歴史の“外部”に、知覚界の
“模擬物”として“非知覚”的に、ものものしい“存在”強度とはかない固有性を
もって、知覚界を解体せしめ、欲望対象の残骸の如き姿でもって現われるアモルフ
な、擬似現在的な現象」──を著者は、大森(荘蔵)哲学のキーワードを借りて「
実体的思い」と名づける。

 知覚は常に実体的(vivid physical)で現在形の経験であり、思い(非知覚的経
験=想起)は常に非実体的で過去形の経験である。だから「実体的思い」とは矛盾
した概念なのであって、「常に必ず知覚現場の実体性と交錯し合い、遂には知覚の
実体性を浸蝕し破壊してしまう。要するに知覚から自然な実体性を剥奪しこれを「
ワラ」にしてしまう」のである。

 著者は次に「S・ワラ・オトチ」の三項の意味内容をカフカの短編「掟の門前」
の構図を利用してトポロジカルに眺める。オトチは掟・法のように原初的に抑圧さ
れた始源=起源などではない。「非知覚的な既知性をおびた実体的思いという模擬
物として、Sの世界に現前し続ける」オトチは、「「掟」のような絶対的不可知性
や神秘性をおびることなく露骨な強度で現前する」。

 ワラがオトチの模擬物であるのと同様に、オトチはワラの模擬物でしかない。オ
トチ=原物・実物=起源・始源と呼びうるものなどないのだ。「オリジンのない世
界、隠れ続ける限りにおいてその存在を告知するオリジンが欠落してしまった世界、
…模擬物同士が相互に二重化しているだけの世界、これがSの世界なのである」。

 そこでは他人は分割され消去され「死人」化され、他所は「死所」化されている。
途方もない破壊衝動の産物としてのオトチ。「実体的思い」とは「死の欲動」にほ
かならない。そして他人・他所が消去されたところでは「私は今・ここにいる」と
いう「他ならざる経験」は不可能である。他人という「鏡」を介して、つまり他人
の欲望に曝されることで、肉体はまとまったゲシュタルトになり得るのであって、
自我は誰の欲望対象にもなり得ない。

 しかしSにとってその自我と肉体は端的に同じもの、すなわち「肉体自我」(他
者)と化している。こうしてSの実体的思い=死の欲動は彼女自身の肉体自我に向
かう。皮膚粘膜や体性諸感覚はすべてワラ(反‐有機物)化し、皮膚粘膜につつま
れた肉体の内部空間は崩壊していくのである。そこにはもはやSなる主体はない。
Sの語る言葉はすべて「呪文」(他者の言葉)でしかない。

 「世界没落、瓜二つの世界の実現、知覚の呪縛、“非‐生命化”され、“非‐有
機化”された知覚、分割され消去され“死所”性をおびるまでに破壊された他人、
寸断され簒奪され続ける肉体自我、実体的思いと化した欲望・欲動の常軌を逸した
破壊性」。この「死の欲動」が露呈し「主[あるじ]S」が排除された世界との「
人間的交流」をめざして、著者はテオリア的に観ることから「治療」へと向けた一
歩を踏みだす。

 それは、著者自身のメタモルフォーゼに賭けることである。「私は呪縛された者
である。Sの前に立つ限り、私は非実体化された「ワラ人間」、非生命化された「
ヒトカタ」に過ぎない。…私は禁止された者である。Sは「実人間」としての私が
「オトチ」にいると確信している。…その実物の私は絶対的に非知覚的であらねば
ならぬ、という意味で、Sの前に出頭することを禁止されている者なのである」。
呪縛され禁止された「私」が、そしてSを「分裂病者」と名づけた立法者である「
私」が、Sにとって「真の絶対的な他人」へと変身していくことに賭けた、その感
動的ともいえる「交流」の記録が本書である。

 学術論文にして虚構世界の地形図(あるいは小説的構成の原型)を叙述し尽くし
た芸術作品として、希有な力を湛えた書物。この本を読み終えて、四冊の書物──
『「名づけ」の精神史』(市村弘正)と『知の構築とその呪縛』(大森荘蔵)、そ
れから『「あいだ」の空間』(トーマス・H・オグデン)と『仮面の人間学』(小
見山実)──が書棚の潜在領域からアクチュアルな領域へと移行しつつあるのを予
感、いや確信している。

 ──ニーチェの遺された断章やニーチェの思考をめぐるいくつかの論考と同時並
行的に本書を読み進めていって、驚くべき(と私には思えた)平行関係に気づかさ
れた。たとえばジル・ドゥルーズは次のように書いている。

《迷宮あるいは耳。迷宮はニーチェにしばしば現われるイメージである。それはま
ず無意識を、自己を、指示する。アニマだけがわれわれを無意識と和解させ、無意
識を探すための導きの糸をわれわれに与えることができる。次に、迷宮は永遠回帰
そのものを指示する。迷宮は循環的であって、行きどまりの道ではなく、同一の地
点に、また、現在、過去、未来の同一の瞬間にわれわれを導く道である。だがより
根本的に言えば、永遠回帰を構成するものの観点からみると、迷宮は生成であり、
生成の肯定である。ところで、存在は生成に由来し、生成そのものによって自己を
肯定する。そのかぎり、生成の肯定は別の肯定(アリアドネの糸)の対象である。
アリアドネがテセウスのところに足繁く通ったあいだは、迷宮は逆の意味にとられ
ていた。それはましな価値に開放され、糸は否定と怨恨の糸、道徳の糸であった。
だが、ディオニュソスは彼の秘密をアリアドネに教える。真の迷宮はディオニュソ
ス自身であり、真の糸は肯定の糸である。「私はおまえの迷路なのだ。」ディオニ
ュソスは迷路にして雄牛、生成にして存在であるが、その肯定そのものが肯定され
る場合にのみ存在であるような生成である。ディオニュソスはアリアドネにたんに
耳を傾けることだけでなく、肯定を肯定することを要求する。「おまえの耳は小さ
い。私の耳と同じだ。その耳で私の細心の言葉を聞くがよい。」》(足立和浩訳『
ニーチェと哲学』269頁,国文社)

 何よりも著者はSの言葉に耳を傾ける者、聴く者であった。「Sの言葉に一○年
間も耳を傾け、Sとの人間的交流を求めてきた」者であった。(本書文庫化の立役
者、田口ランディは巻末の「解説」で「「聴く」とは「聴くこと」によって否応も
なく変容した自己のありようから言葉を紡ぎだす行為であり、そのとき私という自
我はいったん消去される」と書いている。)

 Sは観られる・見られる対象から聴かれる対象へ、そして触れられる対象へと変
容するアリアドネであり、著者は観る・見る主体から聴く主体へ、仮面(ワラ)を
被った哲学者から生理学者・医者としての哲学者へ、そして創造者・立法者として
の哲学者へと変身するディオニュソス=ニーチェである。

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