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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.98 (2002/02/17)
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 □ 木田元『マッハとニーチェ』
 □ J・デリダ他『ニーチェは、今日?』
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2月に入ってから俄然忙しくなって、三日に一度は完徹、半徹、徹夜擬きが続く日
々を過ごしていて、本を読もうにも活字がぶれたり重なったり、眼はしょぼしょぼ、
頭はジンジンで、とても集中できません。

こういう時には、フィクション系なら「官能小説」(山口椿超訳版「ガミアニ」と
か)、フィロソフィ系なら「ルクレチウス=スピノザ=ニーチェ=ドゥルーズ」の
流れに身をまかすに限ります。

個人的な覚書。椹木野衣氏の岡本太郎論(『中央公論』2002年3月号掲載)が面白
い。「ゲイジュツはバクハツだ」という言葉には、友人・バタイユの思考が反映し
ているのだそうだ。(ニーチェとバタイユ。ニーチェとドゥルーズ。この二つの系
譜の交錯するところを探索せよ。)
 

●305●木田元『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』(新書館:2002.2)

 この本を読み進めていくうち、三つの書物の読書体験がリアルタイムで重なって
きた。ひとつは坂部恵著『ヨーロッパ精神史入門』で、本書ともども斯界の先達の
目配りのきいた自在な語り口と絶妙な引用術に心地よく身を委ね、なにかしら豊饒
で未発の思考の種子が惜しげもなくちりばめられた「哲学の現場」を最高のガイド
つきで案内されているような穏やかな興奮を味わった。

 いま一つは、これは本書でも何度か言及されているのだが、トゥールミン/ジャ
ニクの『ウィトゲンシュタインノウィーン』。思い起こせば私はこの書物を読んで
マッハとウィトゲンシュタインにいたく心を惹かれ、それと同時に哲学的思考とい
うものが生身の肉体の生理や個人的履歴や家族史やアクチュアルな政治経済状況や
思考の系譜など諸々なレベルの異なる事柄の錯綜体として集団的に営まれるもので
あることを教えられた。『マッハとニーチェ』の面白さも、このような意味での「
思想史」的アプローチに拠るものにほかならないと思う。

 最後は、これもまた本書で再々その名が出てくる上山安敏氏の『フロイトとユン
グ』で、実はこの書物はかなり間隔をおいて断続的に読み進めていてまだ最後まで
達していないのだが、まさしくヨーロッパ「世紀転換期」の思想状況の奥深さを斬
新な切り口で見事に描いていると思う。もちろんこれは『マッハとニーチェ』にも
(より強く)言えることだ。

 それから、ニーチェの「遺された断想」とかヴァレリーの『カイエ』とかベンヤ
ミンの『パサージュ論』(本書ではその名は出てこないけれどノヴァーリスの断章
も)といった私が愛してやまない断片的文章の切れ切れの印象が間歇的に浮かんで
きたことも記録しておこう。いずれにせよ一冊の本の内奥には万巻の書物の息遣い
がリアルタイムで渦巻いている。

 ──「マッハとニーチェを二つの焦点にして世紀転換期の思想史を粗描してみよ
う」というのが本書の狙いで、この着想そのもの、そしてマッハやニーチェが織り
なす思想圏がどれほどの射程と深遠をもっているかについては実際に読んで確認(
ついで驚嘆)していただくしかないのだが、私自身がとりわけ興味深く読んだのは
「ムージルとマッハ/ニーチェ」の章(第十五回)で、たとえばそこに出てきたム
ージルの「可能性感覚」と「本質直観」(フッサール)や「ゲシュタルト」との関
係をめぐる議論はスリリングだった。

 かくしてこの本は私の書棚の限られたスペースに指定席が割り振られる常備本の
一つになった。

●306●J・デリダ/G・ドゥルーズ/J=F・リオタール/P・クロソウスキー
   『ニーチェは、今日?』(林好雄他訳,ちくま学芸文庫:2002.1)

 本書には、1972年夏、ノルマンジー地方の小村で10日間にわたって催されたコロ
ックでの四人の発表記録が詳細な訳注と解説(本文の5倍の分量を割いたものもあ
る!)付きで収録されている。

 実験者=誘惑者=創造者としての未来の哲学者をめぐるクロソウスキーの「悪循
環」(林好雄訳)。調整された回帰としての資本のメタモルフォーズについて語る
リオタールの「回帰と資本についてのノート」(本間邦雄訳)。現代的文化の曙を
なす「三位一体」のうちマルクスやフロイトは違う「反‐文化の曙」としてのニー
チェの「外の思考」を流れるような文体で綴るドゥルーズの「ノマドの思考」(本
間邦雄訳)。尖鋭筆鋒(文体)とシュミラークルと女性(「女性の本質は存在しな
いのです」)の問題に関するデリダの長編論考「尖鋭筆鋒の問題 Eperons, Les st
yles de Nietzsche」(森本和夫訳)。

 私の力量ではとても咀嚼しきれない(とりわけデリダ)過剰なまでに尖鋭な思考
の鉱脈がここにはある。そのそもそもの源流がニーチェにあるのだとすれば、読ま
ずにすますことはできまい。そういうわけで、私はいま『権力への意志』(悪名高
いフェルスター編集版)の謎めいた断章群にとりつかれている。

 「二十一世紀は、おそらくニーチェの世紀になる」。訳者あとがきで林好雄氏は
そう書いている。このとても目配りのきいた文章を先に読み、そこで言及されてい
た事柄のうちとりわけバタイユの「普遍的経済」の概念に注目しながら四人のエク
スポゼを読み進めていったのだが、早々と道に迷ってしまった。

 だから気のきいた要約をほどこして本書を「統括態」で示すことなどできない。
ここでは印象に残った(というより、仮面とか懐妊とか当面の私の関心を引く語彙
が出てきた)文章を二つだけ抜き書きしておく。一つは訳者解説で紹介されていた
ドゥルーズの発言、いま一つはデリダの発表から。(これは蛇足だけれど、二十一
世紀がニーチェの時代であるとしたら、それはミシェル・ウエルベックが『素粒子』
で叙述した第三次形而上学革命後の世界をさしているのかもしれないと私は思う。)

《クロソウスキー氏の講演が私には非常にすばらしいものだと思われましたので、
おそらく、永遠回帰一般については、私たちはもはや議論すべきではないでしょう。
クロソウスキー氏は、神の死、永遠回帰、力への意志というニーチェの三つのテー
マを、まったく新しいやり方で結びつけることを可能にしたのです。
 まず第一は、神の死です。神は自我[モワ]の同一性の唯一の保証であり、唯一
の実体的基盤だと、氏が語ったからです。神が死ぬと同時に、自我は散り散りにな
って、解体するのです。第二には、解体した〈自我〉は、循環の系列的法則に従っ
て、また、四散しながら自我が投影する諸々の仮面に応じて、あらゆる役割とあら
ゆる人物像とを受け入れるのだと、氏は言われました。最後に、氏は、厳密に言っ
て、その二つのものがどのようにして〈永遠回帰〉を構成するのかと、自問されま
した。氏はそれに、ニーチェ的であると同時にクロソウスキー氏個人のものである
解釈によって答えられたのですが、その解釈は、強度の量とみなされる力と、強度
の感情としての力への意志とに基づいたものです。》(95-96頁)

《ニーチェという人は、いたるところで検証できることですが、懐妊の思想家であ
ります。彼は、女性においてばかりではなく、男性においても、それを賞讃してい
るのです。そして、彼は涙もろい人であり、身ごもった女性が自分の子供について
話すように自分の思想について話すこともあったのですから、私としては、自分の
腹の上に涙を流す彼を想像することがよくあります。》(258頁)

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