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■ 不連続な読書日記 ■ No.97 (2002/02/03)
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□ ミシェル・ウエルベック『素粒子』
□ 河村次郎『脳と精神の哲学』
□ 岩田誠『見る脳・描く脳』
□ 岩田誠『脳と音楽』
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●301●ミシェル・ウエルベック『素粒子』(野崎歓訳,筑摩書房:2001.9/1998)
読み終えてから数日、何をどう書けばいいのか思いあぐねていた。まとまった感
想があるから書くのではなくて、感想文を書くから何かしら実質的なものとしてま
とまってくる、そんな事後印象を記録しても自分を欺くだけのこと。生々しい読書
体験がリアルに想起されるうちに、何を考え何を思いながらこの長編小説を読んだ
のかを書き残しておきたかった。それはたとえば、ロシア・コスミズムや本書とは何の関係もないピーター・ゲイ
の『快楽戦争』の名が浮かんできたこととか、ニーチェの仏訳者ピエール・クロソ
ウスキーの『生きた貨幣』は関係してくるのではないか、本書はスピノザの哲学が
下敷きになっているのではないかと思ったこと。あるいは、主人公の片割れミシェル・ジェルジンスキはどこかウィトゲンシュタ
インを思わせるとか、物語が1882年を起点としているのはニーチェがルー・ザロメ
に求婚したことやブロイアーの催眠療法と何か関係があるのかとか、母親譲りの遺
伝子を分かち持つ異父兄弟のブリュノとミシェルの生の軌跡の交錯はアインシュタ
イン・ポドルスキー・ローゼンの「想像上の実験」(19頁,135頁)と何か関係す
るのか、そしてそれは本書の書名の由来を明かしているのか、それともそれは二人
の会話の中に出てくる「単子[モナド]か……。」というミシェルのつぶやき(20
5頁)のうちに示されているのか、等々といった散漫な印象やくだらない思いつき。そんな断片的な(素粒子的な?)感想群をどうやって編集すればいいのか、それ
ともそれはそのままにしておいて時間の熟成を待つべきなのか、あるいは雲散霧消
するにまかせておけばいいのか。そうやって悶々と思いをめぐらせているうち到達
した結論は、この小説のテーマは現代において宗教と愛がいかにして可能か、要す
るに新しい結びつき(共同体)の可能性の問題であるという、いかにも事後印象的
なものだった。この「テーマ」に対して作者が与えた回答が人間の終焉、ではなくて人類の消滅
である。キリスト教の成立による第一次形而上学的変異、科学革命による第二次形
而上学的変異、そしてそれがもたらした「分離」と「物質主義」の時代を過去のも
のとする第三次形而上学的変異の到来。ジェルジンスキの業績によって、細胞は無
限の複製能力を与えられ、「どんなに進化した種であれ、すべての動物種はクロー
ン操作によって複製可能な、同一の、不死なる種として生まれ変わることができる
ようになった」(340頁)のである。《喜びとは強烈で深い感情であり、意識全体によって感じ取られる、胸躍るような
充実感である。それは陶酔や法悦、恍惚にもたとえうる。》(13頁)《彼のプロジェクトに対して浴びせられた最初の非難の一つは、人間のアイデンテ
ィティを作り上げる重大要素である男女の差異をなくしてしまうという点にあった。
これに対しハブゼジャックは、いかなるものであれこれまでの人類の特徴をまた繰
り返すことは問題にならない、そうではなく理性的な新しい種を創造しなければな
らないのであり、生殖方法としてのセクシュアリティの終焉は性的快楽の終わりを
意味しないどころか、まさにその逆なのだと返答した。ちょうど、胚形成の歳クラ
ウゼ小体の生成を引き起こす遺伝子コードのシーケンスが特定されたところだった。
人類の現状では、これらの小体はクリトリスおよび亀頭の表面に貧しく分布してい
るのみである。しかし将来、それを皮膚の全体にくまなく行き渡らせることがいく
らでも可能になるだろう──そうすれば、快感のエコノミーにおいて、エロチック
な新しい感覚、これまで想像もつかなかったような感覚がもたらされるに違いない
とハブゼジャックは主張したのだった。》(344頁)──田村隆一は最後の詩集で、「さよなら遺伝子と電子工学だけを残したままの
/人間の世紀末」と書いた。異父兄弟の陰鬱で苦悩に満ちた生と思索の軌跡を、ま
るで戯画化された「ケルズの書」のように絡ませ叙述することで二十世紀そのもの
を総括し、小説の「死後の生」(ベンヤミン)までをも完璧に描き切きったこの作
品は、はたして悪夢の予言なのか希望の告知なのか。●302●河村次郎『脳と精神の哲学──心身問題のアクチュアリティー』
(萌書房:2001.10)序文「心身問題と臨床神経哲学」を読み始めたとたん不安になった。《「精神」
は、ここでは魂とか心とか意識あるいは主観、さらには生命といったものを総括し
たものと受け取ってもらってかまわない。》いきなりこんな乱暴な断りをされても
困ってしまうのだが、これはこれで何かしらポジティブな主張が予告されていると
読めないでもないのでいいとしよう。《生命がこの地球上に誕生してから約三八億年。この間の生物進化の過程を経て、
ヒトは万物の霊長として、この地上に君臨するに至った。》私はだいたいこの手の
「見てきたような」文章が出てくる本は即座に棄却することにしている。まして「意識は「開放系のスーパーシステム」としての脳から「創発」する生物
学的現象」であり「この脳の機能としての心的プロセス(意識の主観的特質)を捉
えるためには、情報‐神経生物学と非線形力学の共同研究が必要である。しかも、
それに鍛錬された一人称の現象学的既述[ママ]が加味されねばならない」(169
頁)とし、「心身二言[ママ]論」(177頁)や主観・客観二元論の克服を標榜す
る哲学書の冒頭でこんな文章に出くわすと、なんだ著者は結局自然科学が叙述する
「客観世界」の実在を素朴かつ盲目的に信じこんでいるだけじゃないか、それとも
著者の脳は「生命がこの地球上に誕生してから約三八億年」とか「生命進化の過程」
云々にリアリティを感じるほど自然科学しているのかなどと揶揄したくなる。哲学者はもっと経験科学を勉強しなくちゃだめだ、脳哲学(神経哲学)をアクチ
ュアルな次元で志すなら認知科学や情報理論、臨床医学と臨床心理学を究める必要
がある、と著者自らの率先行動を踏まえて主張される本書でこんなテレビ番組のナ
レーションのような文章を読まされると、かなり先行きが不安になる。それでも我慢して最後まで読んだのは二千四百円が惜しかったからではなくて、
テーマが魅力的だったこと(だからこそ内容をよく確かめもせずに購入したのだ)
と、よく「できる」学生がゼミ提出レポート向けに丁寧に参考書籍を読み込み几帳
面に整理要約したといった趣のある生硬で決して上手とはいえないけれど真面目な
文章に好感がもてた(ただしチャーマーズや茂木健一郎等々の研究を扱った第5章
「意識のハード・プロブレム」は、本書の中核的部分をなすにもかかわらず単に表
面的で怠惰な言葉の引用羅列に終わっている)し、これだけしっかり勉強している
(第5章は別)のだからきっと最後にこれらを踏まえた自説が滔々と主張されるに
違いないとの期待ゆえだった。この期待は裏切られた。たしかに著者は最終章で、反‐唯脳論的かつ反‐無脳論
的な「有機的‐システム論的統合体論」──「脳は他の脳との情報交換による「社
会的相互作用」を繰り返しながら、生成(物活)する、高度の可塑性を有する「主
体の志向性の器官」であり、それはまた「身体」に有機統合されたものである」、
つまり「「脳」と「身体」と社会的「心」、この三者は切っても切り離せないもの
として、一つの「有機体」のうちで統合されている」──を提示しているし、「万
物のアルケーは「情報」ないし「宇宙の情報構造」である、というのが本書におけ
る筆者の暫定的見解である」(184頁)とも述べている。しかしそれは参考文献からの断片的引用の積み重ねがもたらすイメージにたよっ
た自説開陳、というかほのめかしにすぎない。著者は、脳哲学(神経哲学)とは「
神経科学の哲学的基盤を鑑定するものであり、その中心論点は心脳問題にある」、
そして「心脳問題は「意識の主観的特質」としての「経験」と「クオリア」の問題
に収斂する」と書いている。その意味がほんとうにわかっているのか。正確に言う
と、著者はほんとうに「心身二元論」を超克したいと思っているのだろうか。そう
だとしたらなぜそう思うのだろう。心脳問題はなぜ解明されなければならないと考
えているのだろうか。著者自身の「哲学の問題」は何なのか、それは著者にとってどのようなアクチュ
アリティを持っているのか。それが読後の根本疑問だ。●303●岩田誠『見る脳・描く脳』(東京大学出版会)
ホモ・ロケンス(喋る人)ならぬホモ・ピクトル(描くヒト)をめぐって、著者
はまず、なぜヒトだけが自発的に描くようになったのかと問いをたてる。「これは、
ヒトのみが喋ることができる、ということと同じほど不思議であり、かつ重大な意
味をもつ問題である」。《西洋絵画における絵画を作成するアルゴリズムにあたる描画法は、心象絵画の描
画法から始まり、ついで網膜絵画から脳の絵画へと進化してきた。脳の絵画の最初
の段階は、視覚認知にかかわるモジュール性を意識した絵画であったが、やがてそ
こから視覚的記憶や文脈的再構築のプロセスにかかわる描画法が生まれ、そして視
覚情報以外の感覚情報を取り込んだ描画法へと発展してくる。このような歴史的展
開を見ると、網膜絵画以後の描画法の進化が、網膜に始まる視覚情報の流れをほぼ
忠実に追う形で発展してきたことに驚かされる。網膜にはじまり、視覚関連皮質に
よってモジュール別に処理された視覚情報は、視覚的な記憶に関連する側頭葉内側
部皮質に送られ、また前頭連合野の働きによって文脈的に処理される。そしてまた、
これには体性感覚野から由来する触角や運動覚の情報が加わってくることによって、
ヒトは外界を認識していくわけであるが、描画法の進化がこの外界の認識にかかわ
る神経回路の道筋と平行しているのは、たんなる偶然というだけでは片づけられな
いように思われる。絵画表現の方法を追求する直感が、画家たちをしてこのような
道筋を辿らせたのは、視覚を通じて外界を認識するというプロセスを考えていく上
での当然の結果だったのであろうか?》《描画法の歴史的展開をたどると、新しい描画法を築き、これを実践していった画
家たちは、その後長い年月を経て、神経科学の研究者たちがやっと探し当てること
になる視覚生理学の原理を直観的に予感し、その原理をキャンパス上にはっきりと
示していたことに驚かされる。網膜における光受容性の特徴を、あれほどまでに的
確に再現したレンブラントの時代は、デカルトの時代と重なっている。デカルトに
とって、見るということは、眼球を通った光が松果体に達することであり、網膜の
光感受特性に思いを馳せることは想像だにできなかった。これと同様に、一九世紀
から今世紀初頭にかけ、多くの独創的な画家たちが脳の絵画を形造っていたころ、
脳における視覚情報処理過程がモジュール構造を有するということは、科学者たち
には夢想だにできるものではなかった。まして、視覚的記憶の文脈構造や、視覚と
体性感覚の結合などという問題に、神経科学の研究者たちが本格的に乗出してきた
のはたかだか、ここ一〇年ほどのことである。このような事実を目の前にすると、
見ること、描くことというヒトのもっともヒトらしい特性を追い求めるにおいて、
画家たちはつねに神経科学者たちに先んじていたことを実感する。》この文章を読んで鼻白んだり寂しがったり、はては怒り出す人がまだまだ多いか
もしれない。かけがえのない(と思っている)事柄の実質を自然科学の言葉で言い
当てられた時によくある痙攣的反応。文学や芸術や人間精神を「私物化」するこう
した輩というより心性を根絶し蒙昧を払うためにも、本書に続く業績の多からんこ
とを願う。●304●岩田誠『脳と音楽』(メディカルレビュー社:2001.5)
石川九楊氏は『二重言語国家・日本』で、「西欧声中心言語からもたらされる文
化の中核をなす表現は、声→発声と深い関わりをもつ音楽だが、書字中心言語から
もたらされる文化の中核をなす表現は、書である」(70頁)と書いている。また「声中心言語の西欧文化は、たとえば木を見ることによって木の声、その本
質を聞く文化である。対して、書字中心言語の東アジアでは、たとえば木の声を聞
く以上に、木の姿いわば文字を見る文化である」(79頁)、あるいは「物の形を描
き、色彩を用いるという点では西欧の絵画も東アジアの絵画も同じである。だが、
西欧の絵画は音楽の変種であり、東アジアの絵画は書の変種であるというように、
その構造はまったく異なっている」(82頁)とも。岩田誠氏は本書で、西欧の天才音楽家の脳の形態的特徴から説きおこし、ラヴェ
ルの病(失語症)とガーシュインの病(脳腫瘍)とシューマンの病(幻聴)の話題
を織りまぜながら、失語症と失音楽(音楽能力の障害)、音楽する脳や幻聴を生み
出す脳や創造する脳について語る。『見る脳、描く脳』ほどの刺激はなかったけれ
ど、たとえば次の記述など、石川氏がいう「表出」と「表現」の区別(吉本隆明が
『言語にとって美とはなにか』で「文字の成立によってほんとうの意味で、表出は
意識の表出と表現とに分離する」と書いたことを踏まえている)と絡ませて考える
ならば、結構面白いと思う。《言語機能が比較的個人差の少ない万人共通の神経機構の基盤によって実現されて
いるのに対し、音楽能力には個人差が大きく、音楽を実現している脳機構にはかな
りの個人差があると考えられる。それゆえ、音楽能力と言葉の能力との相互関係に
も個人差が大きいであろう。したがって、音楽と言葉の関係を一律に論ずることは
できない。しかし一方、失語症の罹患した多くの患者において音楽能力が良好に保
たれ、しかもそれが高度な芸術活動につながる場合さえあるという事実は、ヒトの
高次大脳機能において音楽能力というものが言葉の能力に十分匹敵できるほどの根
源的なコミュニケーション能力の一つであることを示している。ヒトは言葉を失っ
てもコミュニケーションの手段をすべて奪われるわけではない。》(112-113頁)〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
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