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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.96 (2002/01/26)
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 □ 中沢新一『人類最古の哲学』
 □ 中沢新一『森のバロック』
 □ 中沢新一『東方的』
 □ 中沢新一編『神々と妖精たち』
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来日したレヴィ=ストロースの講演を京都で聴いたことがあります。マスコミ関係
者を装って夜のレセプションにもぐりこみ、本人と親しく握手した覚えもあるので
すが、これは記憶違いかあるいは後になってでっちあげた妄想なのかもしれません。

肝心の講演は、大学で六年も「勉強」したフランス語がさっぱりで皆目理解できま
せんでした。ただレヴィ=ストロースの肉声に直に接するだけで嬉しくて、たしか
スサノオという言葉が再三出てきたことをいまでも鮮烈に思い出します。

中沢新一さんの新著は「カイエ・ソバージュ」シリーズ全五冊──「旧石器人類の
思考から一神教の成り立ちまで、「超越的なもの」について、およそ人類の考え得
たことの全領域を踏破してみることをめざして、神話からはじまってグローバリズ
ムの神学的構造にいたるまで、いたって野放図な足取りで思考が展開された」一連
の講義録──の一冊目「神話学入門」です。

このシリーズ名にせよ、本書で展開される人類最古の哲学(=神話)の論理の探求
にせよ、そこにレヴィ=ストロースへの「敬愛と憧憬」が込められ、『神話論理』
に結晶したその研究が「多いに活用」されていることは、著者自身がそう書いてい
るのだから間違いありません。
 

●297●中沢新一『人類最古の哲学 カイエ・ソバージュT』
                       (講談社選書メチエ:2002.1)

 本書の中心は第一章から第六章まで、かぐや姫(結婚したがらない娘)の物語に
出てくる子安貝をめぐる考察(南方熊楠『燕石考』)に始まり、神話的思考法と西
欧哲学的思考法との「ちょうつがい」の働きをしたピタゴラス派(この秘密結社に
は「ソラ豆を食べてはいけない」とか「燕が家の中に巣をかけてはいけない」とい
った掟があった)と神話に出てくる豆や燕がともに仲介機能をもった両義性的な存
在であることの論証をはさんで、「人類的分布をする神話」としてのシンデレラの
物語が「気の遠くなるような深い古代性と波乗りのように浮わついた資本主義の一
側面」をひとつに結びつけた「神話的思考の残骸」であったことを実証する「原シ
ンデレラ」の探求譚である。

 とりわけ、シャルル・ペロー(サンドリヨンまたは小さなガラスの靴)からグリ
ム兄弟(灰かぶり少女)、ポルトガル民話版(カマド猫)や熊楠(『西暦九世紀の
支那書に乗せたるシンデレラ物語』)が発見した中国のシンデレラ(葉限)、そし
てミクマク・インディアンが鋭い批判精神をもって創作した「パロディ」版のシン
デレラ物語(見えない人の話)へと遡行し、最後に、シンデレラが脱ぎ落とした片
方の靴の謎をめぐるレヴィ=ストロースの推定やギンズブルグの研究(『闇の歴史
』)やシンデレラ物語の異文「毛皮むすめ」を踏まえて、シンデレラとオイディプ
ス(=跛行者)との共通性(生と死の仲介者=シャーマン)を摘出して、神話的思
考法のエッセンスである「仲介機能」(著者はこれをヘーゲルの弁証法と関連づけ
ている)と「感覚の論理」(著者は言及していないが、レヴィ=ストロース後のフ
ランスのたとえばドゥルーズの思考と関連づけることができはしまいか)を実地に
示してみせるくだりは圧巻。

 この本編は確かに面白い。だけど私にとってもっと面白かったのがその前後、「
はじめに」と序章と終章で提示される八千年から一万年前の新石器革命を巨大な転
換点とする「人類の哲学史」の見取り図だ。

 認知論的考古学の研究によれば、現世人類(ホモサピエンス・サピエンス)以前
に地球上に暮らし、死後の世界の観念を持っていたネアンデルタール人の脳は、現
世人類よりずっと大きい容量(1600立方センチ、ちなみにクロマニヨン人は1350立
方センチ)を持ち、あたかもスイス・アーミー・ナイフのように、言語的認識、社
会的認識、動植物の世界に関する博物学的認識を行う部分などに特化されて発達し
ていた。

 三万数千年前、上部旧石器時代と呼ばれる時代、洞窟で暮らしていた現世人類の
先祖が巨大な氷河群を前にしてサバイバルのために脳内ニューロンの接合様式を変
化させることに成功した。「哲学的思考の最初の火花が人間の脳の中に発した」の
である。

《脳の中に異なる認識領域をつないで、自在に流動していくニューロン・ネットワ
ークが形成されるようになってはじめて、それまで異なる認識領域に蓄積されてき
たたくさんの知識が、神話に組織立てられるようになったのではないでしょうか。
哲学的思考というものの最初の火花が、そのとき瞬きだすのです。ネアンデルター
ル人たちは死の現実を記号化することができましたが、現世人類たちはそれを「意
味」にまで組織化することができたと言えるでしょう。》(12-13頁)

 この後、人類はミシェル・ウエルベック(『素粒子』)がいう二つの形而上学革
命(形而上学的変異)を経験した。第一次のそれはキリスト教の登場、第二次のそ
れは科学革命。すなわち神話(野生の科学、もしくは野生のエチカ)から宗教へ、
宗教から科学へ。そして、ウエルベックによれば、第三次形而上学的変異はあらゆ
る個人が同一の遺伝子コードを持つ新種=人間の似姿=「神」の創造をもたらす。

《私たちはこういう過渡的な時代を生きている。第三次の「形而上学革命」はまだ
先のことだ。そういう時代を生きる知性に与えられた課題は、洗礼者ヨハネのよう
に、魂におけるヨルダン川のほとりに立って、きたるべきその革命がどのような構
造を持つことになるかを、できるだけ正確に見通しておくことであろう。宗教は科
学(野生の思考と呼ばれる科学)を抑圧することによって、人類の精神に新しい地
平を開いた。その宗教を否定して、今日の科学は地上のヘゲモニーを獲得した。そ
うなると、第三次の「形而上学革命」がどのような構造を持つものになるか、およ
その見通しを持つことができる。それは、今日の科学に限界づけをもたらしている
諸条件(生命科学の機械論的凡庸さ、分子生物学と熱力学の結合の不十分さ、量子
力学的世界観の生活と思考の全領域への拡がりを阻んでいる西欧型資本主義の影響
力など)を否定して、一神教の開いた地平を科学的思考によって変革することによ
ってもたらされるであろう。》(3頁)

 「カイエ・ソバージュ」シリーズの完結が待たれる。

●298●中沢新一『森のバロック』(せりか書房:1992.10)

 『人類最古の哲学』で、熊楠が整理した「燕石」の7つの要素の意味については
『森のバロック』を見よとあったので、さっそく眺めてみた。収められた文章のほ
とんどは初出の河出文庫版『南方熊楠コレクション』全五巻の長文解説で読んでい
たし、本書が刊行されたときにもあらためて通読して、なんだか後知恵で熊楠の怪
物性を称揚していてずるいと重ねて思った記憶がある。

 燕石は措いて、ここでは書名の由来に関する記述(ジル・ドゥルーズの『襞──
ライプニッツとバロック哲学』に準拠した、例によって結局何も語ってはいない記
述)と、そのすぐ後に出てくる興味深い記述を引用しておく。

《南方マンダラは、生命システムの外部(それは、ここでは「物界」と呼ばれてい
る)の力を、「事」という小さな小窓をとおして、マンダラの内部に、導き入れる。
そして、その力は、マンダラの内部で運動している「縁の論理」によって、屈折さ
せられ、折り畳み込まれて、マンダラの内部深くへと侵入をはたし、それを無限の
複雑をもった生きた構造として、つくりあげていく。「事」は、南方マンダラにと
っての「モナドの窓」であり、それを内部に導き、襞につくりかえていく「縁の論
理」こそが、象徴行為の土台をつくっていく。記号論の前提は、こうして、「バロ
ック様式」をもって構想された南方マンダラにおいては、転倒されてしまうのであ
る。/このような意味において、南方マンダラは、バロック様式をもった自然哲学
のモデルなのである。それは、体系の内部に真の中心をもとめない哲学だ。その内
部には本質すらない、と考えられている。そこでは、哲学の仕事の核心は、マンダ
ラにとりいれられる現実界の力を調整することと、マンダラの内部に襞を増やして
いく「縁の論理」を探る探求のうちにこそある、と考えられているのだ。熊楠は、
民俗学であれ、生物学であれ、自分の研究領域で、このような態度を、一貫してみ
せた。本質をもとめない。起源をもとめない。原型をもとめない。熊楠は、徹底し
てバロック的な思考を、実践してみせたのである。》(419-420頁)

《つまり、ミッシェル・フーコーの表現を借りれば、南方熊楠は「ゲイ的な」生命
様式に深い関心をもっていたのである。陰陽二性による生殖は、可変的な可能性の
うちの、有力なひとつにすぎない。自然は、こう言ってよければ「おかまを掘る」
ことによっても子供をつくるし、また処女懐胎によっても、子供を産むことができ
るのだ。多くの場合、処女懐胎的な生殖は、この世に怪物をつくりだす。人間の世
界は、そのことを恐れているから、キリストを十字架につけたし、怪物は処分して
きた。しかし、南方熊楠の関心は、まさにこれらの怪物に、これらの処女懐胎や「
ゲイ的様式」によって、この世に送り出されてくるものたちにこそ、注がれたので
ある。》(424頁)

 この後の記述は、補論として収められた「ヘリオガバルス論理学」の注に出てく
る「粘菌的、マンダラ的、半陰陽的、全体論的なこの論理学にかりに名をあたえる
ならば、熊楠も好んだローマのふたなりの皇帝の名を冠して、「ヘリオガバルス論
理学」とでも、名づけるのが、いいかもしれない」という記述に関連している。

 そして何よりも、「はじめに」出てくる「私はこの本で、南方熊楠の背後に忍び
寄り、処女懐胎の方法によって、彼の思想に新しい子供、日本人の未来に属する思
想の子供を、つくりだそうとした」とか「『森のバロック』は、ひとつの思想史の
試みである。私はこれを、天使の方法、唯物論の技法、ゲイの様式によって、実現
しようとした。熊楠の思想に、父親はいない。またその後継者もいない。その彼の
思想から、私たちは未来に生きるはずの、怪物的な子供をこの世に送り出そうとし
た」といった記述と呼応しているし、著者自身が注をつけ引用しているように、ジ
ル・ドゥルーズの次の発言と響きあっている。

 少し長くなるけれど、ほぼ全文を抜き書きしておこう。(もしかしたらミシェル
・ウエルベックの『素粒子』とも内密なつながりがあるかもしれないので。処女懐
胎=単性生殖=クローンと形而上学革命。ヘリオガバルス論理学と野生の思考。)

《私の世代は、哲学史によって虐殺されたにひとしい最後の世代だといえる。哲学
史というものが哲学における抑圧の機能をはたしているのは明らかだ。はっきり言
って、あれは哲学におけるオイディプスだ。(中略)私も長いあいだ哲学史をやっ
てきたし、特定の書き手について、たくさん本を読んだものだ。しかし、あの手こ
の手でその埋め合わせをしたんだよ。まず、哲学史の合理的伝統にあらがうような
書き手が好きだったということがある(それがルクレティウスやヒューム、スピノ
ザやニーチェだったわけだが、彼らのあいだには、私からみて内密なつながりがあ
る。そのつながりは、おおよそ次のようなもので成り立っている。つまり否定的な
ものに向けられた批判、悦びの鍛錬、内面性にたいする憎悪、そして諸力と諸力相
互の連関にあらわれた外在性、あるいは権力の告発……)。なによりも嫌いだった
のはヘーゲル哲学と弁証法だった。カント論はちょっと違うね。あの本はけっこう
気に入ってるんだ。わざわざ敵について書いた本だからね。敵はどんなふうに機能
しているのか、理性の法廷とか能力の節度ある使用法、私たちに立法者の資格を与
えるだけになおさら偽善に満ちたものになる服従など、敵の歯車はどのようにかみ
あっているのか、そこのところを明らかにしようと思ったわけだ。しかし、もっと
はっきりしているのは、私が当時の状況を切り抜けるにあたって、哲学史とは「お
かまを掘る」ようなものだ、というか、これも結局は同じことになるけれども、処
女懐胎のようなものだ、と考えていたということだ。私は哲学者に背後から近づい
て、子供をこしらえてやる。その子供はたしかに哲学者の子供にはちがいないけれ
ども、それに加えてどこかしら怪物的な面をもっている。とまあ、そんなふうに考
えてみたわけだ。(中略)私を窮地から救ってくれたのはずっと後になってから読
んだニーチェだった。ニーチェを他の哲学者と同列にあつかうのは不可能だ。他人
の背中に子供をこしらえるところに、まさにニーチェの面目があるわけだからね。
ニーチェを読んでいると、よこしまなことがしたくなってくる(これはマルクスに
もフロイトにもできなかったことだ。この点ではふたりともニーチェに遠くおよば
ない)。そのよこしまな気持ちというのは、ひとりひとりの人間がみずからの名に
おいてごく単純なことを述べ、情動や強度、体験や実験によって語りたくなるとい
うことだ。ところが、みずからの名において何かを述べるというのは、とても不思
議なことなんだ。なぜなら、自分は一個の自我だ、人格だ、主体だ、そう思いこん
だところで、けっしてみずからの名において語ることにはならないからだ。ひとり
の個人が真の固有名を獲得するのは、けしてみずからの名において語ることにはな
らないからだ。ひとりの個人が真の固有名を獲得するのは、けわしい脱人格化の修
練を終えて、個人をつきぬけるさまざまな多様体と、個人をくまなく横断する強度
群に向けて自分を開いたときにかぎられるからだ。そうした強度の多様体を瞬間的
に把握したところにあらわれる名前は、哲学史がおこなう脱人格化の対極にある。
それは愛による脱人格化であって、服従による脱人格化ではない。》(『記号と事
件』,宮林寛訳,河出書房新社,13-16頁)

●299●中沢新一『東方的』(せりか書房:1991.3)

 数多い中沢本のなかでも好きなものの一つで、時折読み返しては刺激を受けたり、
いまひとつ乗れなかったりしている。今回は「高次元ミナカタ物質」と「脳とマン
ダラ」と「エコソフィアとしてのシャーマニズム」を読んだ。「脳とマンダラ」で
は、西洋のポリフォニーと東洋のマンダラを比較するなかでペンローズのツイスタ
ー理論まで出てきた。「ポストモダン科学」(ニューサイエンスはポストモダン科
学のひとつのローカルな現象である、と著者は言う)という言葉も出てくる。

《彼らは、理論はリアリティを再現するのではなく、むしろそれを創造するものな
のだ、と語りました。これはもっと言うと、理論とは数学の言葉にほかならないわ
けですから、言葉がリアリティを創造し、発明する働きにたよって、物質の世界の
探求をおこなうことが、フィジックス(自然学)の本来の意味なのだ、ということ
にもなるかと思います。言葉によって表象するのではなく、言葉によって創造し、
発明すること。このことを意識したのが、ポストモダン科学なのです。》(159頁)

《芸術は(バッハのポリフォニー音楽のように)、3D知覚をおこなっている脳の
中に、4Dパターンを認識する領域を開き、それによって高次元の内蔵秩序を音と
して体験させようとします。つまり、音楽は脳の中に高次元を開く、と言ってもい
いかも知れません。(中略)マンダラは、無限多様体としての宇宙の本質を表現し
ようとするモデルです。それと同時に、マンダラは脳の活動である知性が、そのプ
ライマルな状態において、高次元性をそなえたものであることを、しめそうとして
います。つまり、マンダラは芸術がそれをおこなおうとしてきたように、知性の前
に、高次元な実在を開こうとしているのです。》(166-167頁)

●300●東洋文庫ふしぎの国9『神々と妖精たち』(中沢新一編,平凡社:1990.4)

 『デルスウ・ウザーラ』や『オルドス口碑集』、『今昔物語集』や『甲子夜話』
など『東洋文庫』に収められた二十数冊の古典から縦横に抜き出された断片を「山
・森の精霊たち」「水・海の精霊たち」「シャーマン・仙術・呪術」「超越へ」の
四章に整理した可憐な書物。──コピーライター・中沢新一がここにいる。

《極東の島国に生まれた僕たちは、中国とインドとペルシャを極にしてできた巨大
な文化宇宙の周辺部にいることで、逆にその宇宙をまるごとつかめる立場にいる。
『東洋文庫』は僕にとって、銀河宇宙の隅っこから宇宙の全体をのぞくために発明
された、すばらしい望遠鏡なのだ。》

《ぼくたちの世界から妖精と小さな神々が消え去っていくことは、人間の生の領域
から「リアル」が消え去っていくことと、同じ意味を持っている。妖精たちの実在
を知覚する能力をもつことによって、その人間は自分たちの知覚の構造を限界づけ
ているものの外に出ることができる。しかも「小さいものたち」「マイナーなもの
たち」の存在を意識しつづけることによって、ぼくたちには国家や人間という観念
や貨幣や近代社会のエシックスから、真の脱出が可能になっていくだろう。現代を
生きる「野生の知識人」となっていくこと。ぼくたちは妖精や神々の記憶を失って
はいけない。だから、ここにこの本がある。》

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