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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.95 (2002/01/20)
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 □ 柄谷行人『増補 漱石論集成』
 □ 夏目漱石『坊っちゃん』
 □ 夏目漱石『こころ』
 □ 夏目漱石『三四郎』
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年の初めに読んだ本、その三。小雨模様の元旦、四国旅行の最後に松山に立ち寄っ
て、小一時間ほど湯につかりお茶を啜った後で、どことなく「千と千尋」の舞台を
思わせる重要文化財・道後温泉本館の三階にある「坊ちゃんの間」を見学しました。

そういえば随分長い間漱石を読んでいないなあ、とふと思い当たると、どうにもこ
うにも堪えられなくなって、たまたま手近にあった漱石本を何冊か読み直して、な
んとか飢えを癒したのはよかったけれど、おかげで読みかけの『露伴随筆集』がは
たと止まってしまったのはなぜだろう。

今回再読したのは、新潮文庫で『坊っちゃん』『倫敦塔・幻影の盾』『文鳥・夢十
夜』の三冊、岩波文庫で『漱石文明論集』、関連本として柄谷行人著『増補 漱石
論集成』、それからついでに講談社学術文庫の高木卓著『露伴の俳話』。

読んだというより、『坊っちゃん』を除いていずれもほとんど「文」を眺めた程度
で、しかもそれだけでとりあえず充足してしまって、だからとりたてて記録するほ
どの感想はありません。『こころ』と『三四郎』は以前書いたものです。
 

●293●柄谷行人『増補 漱石論集成』(平凡社ライブラリー402:2001.8)

 第三文明社版に「詩と死──子規から漱石へ」「漱石のアレゴリー」の二編が加
えられた。その「アレゴリー」に次のくだりが出てくる。

《漱石の作品には、いわば「想像界」が象徴界の抑圧を経ないでそのまま出てきて
いるといってもよい。つまり、漱石の驚くべき豊かな語彙は、何かの対象やイメー
ジを喚起するのではなく、もともと言葉がそのようなものなしにあることを開示す
るかのように、乱発されるのである。》(370頁)

 それから「漱石とカント」という文章が面白かった。

《このようにF[認識的要素]とf[情緒的要素]ですべてを見ようとする漱石は、
科学・道徳・芸術を領域的に区別したカントと違っているように見える。しかし、
カントの「批判」は、それらが客観的な領域として分かたれているのではなく、そ
れぞれがある態度変更(超越論的な還元)によって出現するということにこそある。
たとえば、美的判断は「関心」を括弧に入れることによって可能であり、科学的認
識は道徳や感情を括弧に入れることによって可能である。(中略)しかし、漱石が
[『文学論』の裸体画について述べた箇所で]「除去」と呼ぶのは右に述べたよう
な括弧入れである。漱石は文学芸術の根拠を、道徳や科学的真理に対立するものと
してでなく、それらを意識的に括弧に入れる能力──これは歴史的に形成される「
習慣」である──に見いだしている。この意味で、漱石の「科学」はまさにカント
的批判の反復なのである。》(542頁)

 もう一つ引用しておくと、著者は講演「漱石の多様性」で、大岡昇平の指摘を踏
まえ、「漱石はたとえば『倫敦塔』を短編小説としてではなく「文」[エクリチュ
−ル]として書いた」、「漱石は「文」に、近代小説が排除しそれによって自己純
化していったものの可能性を見ていたのです」と語っている。

●294●夏目漱石『坊ちゃん』(新潮文庫)

 漱石の「文」はいつ読んでもどこか「神話的」ともいえそうな想像力を刺激する
ところがある。それはたぶん個人の内奥の無意識と呼ばれる領野に届いているから
などではなくて、何かもっと具体的で感覚的(物質的)なものと接触しているから
だと思う。

 たとえば『坊っちゃん』でも、狸、赤シャツ、野だ、うらなり、マドンナ、山嵐、
そして坊っちゃんという換喩や提喩や隠喩、それから名を思い出せないその他の比
喩形象を駆使したあだ名(記号)で表示されるアレゴリカルな登場人物たちが織り
なす神話的、というより民話的な世界の構造が気になってくる(とくにマドンナの
影の薄さ)。いずれにせよ、漱石で一生楽しめるだろう。

 追記。気になる関連本としては、河西善治著『「坊っちゃん」とシュタイナー 
隈本有尚とその時代』(ぱる出版)と小池滋著『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術
者になったか』(早川書房)。特に、漱石や子規に数学を教え、後にシュタイナー
思想の日本への紹介者となった隈本有尚(「山嵐」のモデルと目される)の評伝は
興味深い。そういえば、関川夏央・谷口ジローの『坊っちゃん』の時代シリーズ全
五巻も途中までしか読んでなかった。

 補遺。柄谷行人著『増補 漱石論集成』から、若干の抜き書き。

《漱石研究において欠落しているのは、ノースロップ・フライがいったような意味
でのジャンル論である。そのために、漱石の諸作品は、狭義の小説を中心に、それ
に到達すべき過程として読まれてしまう。たとえば、『*虚集』はロマンスとして、
『吾輩は猫である』はサタイアとして、『坊っちゃん』はピカレスクとして、『こ
ゝろ』は告白として書かれたとみるべきである。》(533頁)

《近代小説はベンヤミンがいったように、アレゴリーを否定する。アレゴリーとは、
世界に意味があることを前提し、かつあることが直ちに別のことを意味するという
ような世界である。それに対して、近代小説は、世界の意味を否定し、ただ特殊な
個物を通してのみ普遍的なものが象徴されるとみなすような世界である。したがっ
て、それはリアリスティックになる。あるいは、特殊個人的な事柄を書けば普遍に
つながるという私小説的信念となる。ここでは「文」は実体としての個物に従属す
る。漱石が反撥を感じていたのは、そういう構えであるといってよい。》(536頁)

●295●夏目漱石『こころ』(新潮文庫)

 高校の時以来、数十年ぶりに再読した。(中学生の頃にも読書感想文を書いた記
憶があるから、たぶん再々読。)こうした再読の楽しみのためこそ、若いうちにた
くさんの本を読んで感動を蓄えておくべきだった。ずいぶんと月並みだけれど、ほ
んとうにそう思った。

 それにしても、この作品の構成はかなりいびつだ。こんな初歩的な問題はその筋
の人々の手でもって論じつくされているに違いないと思うが、「上 先生と私」「
中 両親と私」「下 先生と遺書」の三部構成はどう考えてみても一つにはまとま
らない。もともと漱石は『心』という総題のもと短編をいくつか書くつもりだった
らしくて、確かに「上」「中」「下」はそれぞれ独立の作品として読んだ方がむし
ろ味わいがある。

 しかし、ここで考えてみたいのは、それらがまとまって一つの作品世界をかたち
づくっているとした場合に見えてくるもののことだ。その際、注目すべきは、一つ
は手紙=遺書というフィクショナルなものとリアルなものを架橋する文学的(神話
的?)装置の機能だと思うし、いま一つは『こころ』全篇に出てくる複数の死──
Kと先生の自殺や「私」の父の死、明治天皇の死(「明治の精神」の死)や乃木大
将の殉死、等々(あるいは身体の死と精神の死?)──がもつ機能である。これら
の装置や道具建てを使って、そして『こころ』というタイトルのもと、漱石はいか
なる種類の「実験」を試みたのか。

 この「問題」は今後の宿題にとっておこう。

●296●夏目漱石『三四郎』(新潮文庫)

 『三四郎』は興味尽きない作品です。広田先生の夢に出てきた「画」と「詩」を
めぐる会話ひとつとってみても「パーセプション」と「コンセプション」の関係に
準えて、あるいは小説の最後に出てくる文字通りの「画」とそのタイトル(「森の
女」とマタイ伝由来の「迷羊(ストレイシープ)」)をめぐっていくらでも妄想を
たくましくすることができそうです。

 そもそも題名からしてあれこれ深読みが許されるのではないかと(半ば本気で)
私は思いを巡らせています。たとえばここに出てくる「三」と「四」は中沢新一氏
が『バルセロナ、秘数3』で述べた西欧思想史の二つの流れ、すなわちプラトン、
デカルト、ニュートン、アインシュタインなどの「3の信棒者(トリニタリアン)
」とピタゴラスやカント、ゲーテ、ショーペンハウアーといった「4の信棒者(ク
ォータナリアン)」との「ねじれ」た関係を反映しているのではないか。

(そして、富士山をめぐる広田先生の議論や三四郎を取り巻く三つの世界、野々宮
君の「光の圧力測定実験」等々の数々のエピソードは、都市と自然、西洋と東洋の
関係、物理的リアリティと身体の関係といった問題群を示唆していたのではないか
?)

《トリニタリアン的思考は「否定」の機能を(+、−)の対立として、考えようと
する。つまり対立を、極性―対立(polar opposites)としてとらえ、論理表現化
しようとするのだ。これにたいしてクォータナリアン的思考は、論理における否定
の機能を相補的対立(complementary opposites)と考える。運動量(p)と位置
(q)のふたつを同時に確定することができないように、おたがいが相手を内包し
ながら否定しあっているような関係である。

 「否定」の機能(これは最終的には、言語の象徴機能の問題である)には、はっ
きりとふたつのタイプが存在して、思想におけるふたつの流れをつくりだしてきた
のだ。古典科学やその方法をバックアップしたデカルト的合理論は、その表現のな
かに(+、−)タイプの対立だけを認めようとした。これにたいして、量子力学は
別のタイプの「量子論理」にしたがって、物理的リアリティを表現しようとしてき
た。(略)

 量子論理(Quantum Logic)は、通常の(+、−)論理に比較すると、おそろ
しく複雑な構造をもっている。これは量子論理が、アリストテレス的論理学の因果
律(Causality)にしたがうことなく、たがいに内包しあう否定機能にもとづく「
縁」の関係にあるリアリティを論理化しようとこころみていることに関係がある。
その意味でも、これは東方的な超論理学(中観仏教、聖グレゴリオ・パラマスによ
って大成されたギリシャ正教神学、イスラムの天使学など)と、深い内在的関係を
もっているのである。》

 明快な図式化はかえって物事の精妙な実相を見えなくする危険を伴いますが、中
沢氏の議論は少なくとも漱石が考えていた科学と文学の問題を解くための有効な切
り口になるものだと思います。

 ついでに付言すると、これは鎌田東二氏の『身体の宇宙誌』で仕入れた知識です
が、出口王仁三郎は「ひ」(一、日、火、霊)が増殖・成長して「ふ」(二、増、
殖)となり「み」(三、身)となり「実」をみのらせて「よ」(四、世、節)を形
成すると語ったそうです。

 そうすると『三四郎』の「三」は「身」に「四」は「世」に通ずることになりそ
うですし、さらに悪乗りを重ねるならば「三」は「産」に「四」は「死」に通じ、
いずれも「父母未生以前本来の面目」の問題(『門』)あるいは「生命記憶」の問
題につながる?

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