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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.94 (2002/01/14)
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 □ 別冊太陽『白川静の世界』
 □ 白川静『文字遊心』
 □ 石川九楊『二重言語国家・日本』
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年の初めに読んだ本、その二。昨年末以来とりつかれている心脳問題への補助線を
引くため、古代人の「心の化石」(茂木健一郎)ともいうべき漢字をめぐる書物を
読みました。書き初めならぬ、読み初め。

続けて、寺田透編『露伴随筆集(下) 言語篇』(岩波文庫)を読みたかったのです
が、今回もまた「未読の愛読書」のままで終わってしまった。どういうわけか私に
とって幸田露伴と対をなす夏目漱石の文章を読みたくなってしまったから。
 

●290●別冊太陽『白川静の世界 漢字のものがたり』(平凡社:2001.12)

 文字文化研究所主催の白川静連続講演会「文字講話」の第一回(1999年3月14日)
を京都で聴いたことがある。壇上にすっくと立った「字聖」(当時八十九歳)は、
一時間半に及ぶ講演の間、張りのある力強い声で淀みなく、そして最後には熱っぽ
く、漢字以前の「図象」への思いと古代王朝成立過程で図象が果たした重要な役割
の解明へ向けた学問的情熱を語り続けた。そこには確かに古代世界が現在し、文字
が生まれ出づる臨界点のエネルギーがわきたっていた。私はメモも取れず、ただそ
の言葉に圧倒されていた。

(文字と霊性、装飾と霊性、舞踏と霊性。さらに、詩や音楽や建築などを加えて、
これらをひっくるめて考えてみるならば、「表現と霊性」とでもいうべき大きなテ
ーマが浮かび上がってくる。その出発点というか個人的関心の源泉が「文字以前」
の世界にあったのだということを、講演を聴いてあらためて確認した。)

 それからちょうど一月後、「孤高の学者・白川静」をテーマとしたNHK教育の
『文字の宇宙』(1999年4月14日放映)を観た。「漢字は単なる記号ではない」と、
文字誕生以前の古代人の意識のはたらきを「図象」や漢字(甲骨文・金文)の形の
うちに読み取らんとする白川静の鬼気迫る、しかし泰然として自在な狂狷の徒ぶり
が深く心に刻まれ、とりわけ「音」と「器」の字の成り立ちをめぐる話題が印象深
かった。

 いずれも著書に詳しく記されている事柄なのだが、本人の肉声と筆跡でもって語
られると、文字生成の現場がそこに出現(再現ではない)しているかと思わせる、
ときめくような臨場感がたちこめるのだった。白川文字学の方法論である「トレー
ス」(字形をなぞることで古代人の意識を活握する)の現場を映像で確認できたこ
とが、何よりの収穫だった。

 ──許慎の『説文解字』で「告」は「牛」と「口」に分解され、牛が何事かを訴
えるため人に口をすり寄せている形であるとされる。しかし白川静は、甲骨文や金
文の字形との比較から、上部は小さな木の枝であり下部はそれに繋げられた祝詞を
入れる器の形(「日」の横三本のうち最上部を省略した形に似たもので、「サイ」
と読む。以下「*」と表記)であるとする。つまり、告げるとは神に告げ訴えるこ
とであるというのだ。

 ここから、たとえば「可」は「*」を木の枝で呵しながら祈りの実現を神に要求
する意であり、これを上下に重ね、さらに口を開けて立つ人の形を配すれば「歌」
となる。また「言」は「辛」(入墨に用いる針の形)と「*」から成り、我が誓い
・祈りに虚偽あらば神の罰(入墨の刑)を受けんとの自己詛盟(うけひ)を示すも
の。

 そして人の「うけひ」に対する神の応答、つまり「*」の中への神の「おとなひ」
「おとづれ」を示すしるしが「日」(のたまわく)で、ここから「音」の字が生成
する。神意をたずねること、すなわち「問」(家の門の前に置かれた「*」を示す)
への神の応答が「闇」であり、闇こそ神の住む世界である。ちなみに「器」の字は、
出陣に際して(その鳴き声が悪霊をはらう力をもつとされた)犬を供犠に供する儀
礼をかたどった字形であるとのこと(器には犠牲獣の血と断末魔の声が封じ込めら
れている?)。

《神にはことばはない。ただそれとなき音ずれによって、その気配が察せられるの
みである。神意はその音ずれによって推し測るほかはない。これを推し測ることを
意という。推測の意はのちに億・臆を用いるが、意がもと推測の意であり、億・臆
はそれから分化した字である。言・音・意はもと一系の字であり、その音声の上で
も関係がある。もし単語家族というものを考えるとすれば、このように形・声・義
において一貫する関係にあるものを求めて、その群語構成を試みることができよう。
》(『漢字百話』)

 ──「大き過ぎる」人・白川静の「フィールド・ワーク」を試みた本書もまた「
*」[サイ]をめぐる物語から始まり、梅原猛との二度にわたる対談(いずれ単行
本としてまとめられるという)や岡野玲子との対談を収録している。この本は私に
とっての宝物となった。

●291●白川静『文字遊心』(平凡社ライブラリー:1996.11)

(話題その一)
 一般に聖は俗と対立するものとされているが、「狂字論」によれば、中国の古い
文献に聖と対峙する語を狂とする用例があるそうだ。そこでは理性的に思惟するも
のが聖、それを失うもの(非理性)が狂とされており、両者は相関的な関係にある。

 白川氏はこのことを踏まえて、中国の知識社会の伝統のなかで狂気の世界は折々
に火山のようなはげしい爆発をみせたが、「それは、狂気が理性に内在し、その理
性を自己疎外的に支えるごときものとしての狂に、すなわち自らを精神史的な意味
を荷なう狂にまで高めることによって起るのである」とし、さらにフーコーの『狂
気の歴史』の表現を借りて、聖と狂とは一つの円環の上にあると書いている。

(話題その二)
 「文字と説文字」や「漢字の思考」によれば、古代において文字が生まれるため
には二つの条件が必要であった。一つは文字が奉仕すべき強大な王権の確立。いま
一つはそれを支える聖職者集団の存在で、文字はこの集団の中から生まれた。たと
えばヒエログリフは死者(冥界)や神との交通の手段(宗教的な秘儀性の表現媒体)
として、楔形文字はより実際的な統治の手段(神殿経済における伝票、法典公布の
手段)として、それぞれ古代の神権政治を支えた。

 この最初の文字はいずれも表意文字だったのだが、中国を例外として、それが表
音文字(アルファベット)へと推移していったのはなぜか。《それは文字が成立し
た神話的な世界を、その古代王朝がどこまで持続することができたか、という問題
です。古代王朝が滅びて、代って他の民族が支配し、他の民族のことばが入ってき
たりして、文字はその表記のために転用され、アルファベットになってしまう。カ
ナのように音だけを表すものになってしまう。》(「漢字の思考」)

●292●石川九楊『二重言語国家・日本』(NHKブックス:1999.5)

 本書が出版された当時、ざっと概読(というか、素読に近い斜め読みを)して、
これは端倪すべからざる本格的な奇書であると驚嘆した記憶がある。豊饒な香料を
たっぷりと含んだ湯気がしゅんしゅんと立ち上ってきて、再現不可能な、つまり目
に見えず記録不可能な文化史的事件の現場が次々と解凍されていく、とでも形容す
ればいいか。

 改めて再読、精読して、書家・石川九楊の未生の「天」(それを「超越性」と呼
んでもいいだろう)へ向かってつきすすむ、荒々しいまでの創見と不羈奔放な論の
感触(石川語である「声帯蝕」や「筆蝕」になぞらえて、脳内ニューロンと言語が
接触し摩擦する界面での力動と痕跡を表現する「論蝕」とでも造語するか)に圧倒
された。

 要約整理して先へ進むことを許さない、というか読み終えたばかりでそのための
膂力が損なわれている。ここではほんの「触り」の一節を抜き書きして、体力と気
力の恢復を待つことにしよう。(他日、山城むつみ著『文学のプログラム』や信原
幸弘著『考える脳・考えない脳』、もしかしたら関係するかもしれない中沢新一著
『人類最古の哲学』などとも読み合わせの上、本書のエッセンスを抽出すべし。)

《かくて、二重言語・日本語は正負両面にわたって、「日は昇り、月は傾き、花は
散り、雪は降りつつ、水は流れる」とでも総括される文化を再生産しつづけている。
比喩的に言えばこれらの、「花鳥風月」「雪月花」の思想は、二重言語・日本語が
不断に再生する生理であり、世界に特異ではありえても、超克すべき課題は多く、
決して誇るべきものではありえない。

 人間の意識は言葉を発する現場に形成される。意識と言葉とどちらが先かなどは
決められない。むしろ同時と呼ぶ方が正しい。むろん言葉以前に、何かもやもやし
た「さわり」や「しこり」のような前意識はある。だが、それが意識として自覚さ
れるのは、言葉に転じるその瞬間においてである。脳が思考するのではなく、声帯
が空気を摩擦し、筆尖が神と摩擦している現場、声帯蝕と筆蝕の現場に、意識も言
葉も生じる。言葉、その語彙と文体とは、或る時代の人々に先立つ先例として、ひ
とつの宇宙をつくり上げている。文化的伝統なるものは、言葉の宇宙の別名にすぎ
ない。世界の言語は、どの言葉であっても構造自体には何の変わりもない。だが、
政治的語彙と文体の緻密な言語、生活上の語彙と文体の豊富な言語など、それぞれ
に特色がある。その言語の特色が、その言語を用いる人々の文化と文化的価値観を
形成している。日本語の二重言語の性格が、これらの日本文化の特徴なるものを生
み出す。言葉を日々刻々、再生産することを通じて、日本文化の特質は再生産され
る。

 そうであるなら、日本語のどこにこれらを再生産する構造が眠っているかを考察
することも、またその原因が、漢語と和語の二重性の分裂と統一の中にあるとする
ことも、あながち、無理な説とも言えないのではないだろうか。》(181-182頁)

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