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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.92 (2001/12/28)
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 □ 真木悠介『自我の起源』
 □ ダニエル・デネット『心はどこにあるのか』
 □ ジョン・L・キャスティ『ケンブリッジ・クインテット』
 □ 高橋昌一郎『ゲーデルの哲学』
 □ ヴァルター・ブルケルト『人はなぜ神を創りだすのか』
 □ J・ヒルマン『世界に宿る魂』
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●281●真木悠介『自我の起源』(岩波書店:1993)

 全体の完成には少なくとも15年は要するとされる「自我の比較社会学」五部作の
第一部で、「動物社会における個体と個体間関係」の骨組みが示されたもの。
 
 全体構想では、以下、原始共同体と文明諸社会における個我と個我間関係、次い
で近代社会と現代社会における自我と自我間関係へと議論が進むことになっていて、
本書での生物社会学的な水準における自我の探求は、重層的に規定された自我とい
う現象の一つの基底的な位相を明確にしておこうとするものにすぎない、と著者は
述べている。
 
 それでは、本書で明確にされた生物社会学的な水準における自我とはいったいど
ういう現象であったのか。一言で強引にくくってしまうならば、それは性において
典型的に表現される「個体の自己裂開的な構造」にほかならない。

 以下、私が本書でもっとも刺激を受けた(というより、上述の「自己裂開構造」
を別にすれば唯一刺激を受けた)箇所を抜き書きしておきます。

《多くの生物種は蝶たちのように,二つかそれ以上のまったく異なった「自己」の
形態をライフ・サイクルの内に経過する.人間がそのような生物種から進化したも
のでなかったことは,われわれの「自己意識」の形成とその絶対化ということを,
少なくとも容易で単純なものとしている.人間が変態生物であったとしても,自己
意識の形成に絶対的な不都合はなかっただろうが,「自己意識」のたしかさとその
形態は,原理的にいっそう複雑な問題をはらんでいたにちがいない.それがつくり
あげる文明や社会のかたちも,法的,倫理的な「責任」の帰属,友情や恋愛や結婚
や親子関係の形態,記憶や好悪の連続性と「自己」という感覚や意識,「魂」と肉
体に関する宗教的,哲学的な諸観念,等に関して,相当に複雑なかつもう少し開か
れた想像力に導いていたかもしれない「問題」を抱くシステムを発達させていたは
ずである.》

●282●ダニエル・デネット『心はどこにあるのか』
                      (土屋俊訳,草思社:1996/1997)

 ポール・ヴァレリーはかつて「心の仕事は未来を築くことである」といった(そ
うだ)が、デネットはこれを受けて、「心とは、基本的には、予感するものであり、
期待を生成するものである」と書いている。

 心の問題をめぐる著者の基本的立場については、今後、時間をかけて見定めるこ
ととして、ここでは、興味深く読んだ第4章「心の進化論」から、「生物の三つの
型」について、それぞれの遺伝子と環境との関係を示した図に付された解説文を転
記しておく。(これらは、いろいろと「応用」することができる汎用性の高い概念
だと思う。)

◎「ダーウィン型生物」:「生化学的構造が異なる」表現型がある→一つの表現型
が選択される→選択された遺伝子型が増殖する。

◎ダーウィン型生物の一部「スキナー型生物」:いろいろな反応を「盲目的に」試
行する→「強化」によって一つに選択される→次の場合には、その生物の最初の行
動は強化された反応になる。

◎「ポパー型生物」:ポパー型生物は、行為の選択肢を事前に検討する内部的選択
環境を持つ→最初から、ポパー型生物は洞察的に(偶然に頼るよりは安全に)行動
する。[ポパー型生物は「脳の内部環境で事前選択をする能力」をもつ。]

◎「グレゴリー型生物」:グレゴリー型生物は(文化的)環境から[他者が考案し、
改良し、変形させた]心的道具を持ち込む。これらの道具は、生成とテストを改良
する。

●283●ジョン・L・キャスティ『ケンブリッジ・クインテット』
                  (藤原正彦・美子訳,新潮社:1998/1998)

 C.P.スノウとアラン・チューリングとJ.B.S.ホールデインとエルヴィン・
シュレーデインガーとルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの架空の座談会。刺
激と魅力と趣向に富んだ書物。とりわけ印象に残ったのは、シュレーデインガーの
いくつかの「発言」と後日談の締めくくりに出てくる(究極の?)文章。

《機械に人間のように考えさせるというのは、ロボットにサッカーをさせることに
似ている、と多くの人が感じている。それは可能かもしれない。でも何のために。
馬にダンスをさせるようなものだ。この半世紀の研究によって明らかになってきた
のは、機械には機械の、人間には人間の知性があるということ、そしてそれらは当
面、仲良く共存するということである。この二つは袂を分かちながら、それぞれの
進歩をとげていくであろう。もし今日チューリングが生きていたら、このような形
で彼の夢が実現されたのを見て、苦い勝利と思うのではないだろうか。》

 シュレーデインガーの「発言」を一つだけ記録しておく。

《「あなた[チューリング]はさきほどゲーデルの定理、すなわち数に関する命題
で、論理的には正しいとも誤りとも決定できないものがある、とおっしゃいました。
でもわれわれ人間には、その命題が正しいとわかるのです。それらが正しいと証明
できないだけのことなのです。このことは、人間の精神は知ることができるが、機
械には知ることのできない事柄が存在するということではないですか」》

 付記。本書でのヴィトゲンシュタインの役回りにやや不満が残ったので、ミハイ
ル・バフチーンの兄ニコライと銃殺刑を免れたジェイムズ・コノリーと『ユリシー
ズ』の主人公レオポルド・ブルームとヴィトゲンシュタインの「想像上の会話」を
描いたテリー・イーグルトン著『聖人と学者の国』(鈴木聡訳,平凡社)を「口直
し」に再読しておこう。

●284●高橋昌一郎『ゲーデルの哲学』(講談社現代新書:1999)

 「不完全性定理と神の証明」という副題に興味を覚えて読んでみた。著者による
と、ゲーデルの「神の存在論的証明」(1970年)は次のように単純化できるという。

《神性Gは、肯定的性質である。ゲーデルの様相論理体系においては、任意の肯定
的性質Pに対して、Pを持つ対象が少なくとも一つ存在する可能性が導かれる。し
たがって、神性Gを所有する対象xが少なくとも一つ存在する可能性がある。この
結果に定理2[略]を適用すると、Gを所有する対象xが、少なくとも一つ必然的
に存在する。さらに、定理1[略]と定義2[略]により、その対象xは、Gを唯
一持つ対象である。ゆえに、唯一の神が存在する。》

 ──しかし、それが無矛盾であったとしても「So what?」。むしろ面白かったの
は、第3章「不完全性定理の哲学的帰結」で述べられているゲーデルの「数学的実
在論」の方だった。

 付記。高橋氏が本書第3章で紹介しているゲーデルのギブス講演(1951年)やカ
ルナップ記念論文集に投稿する予定だった哲学的論文は、ロドリゲス−コンスエグ
ラ編『ゲーデル未刊哲学論稿』(好田順治訳,青土社)に掲載されている。(本箱
で眠ったまま。いつか読まねば。)

●285●ヴァルター・ブルケルト『人はなぜ神を創りだすのか』
                 (松浦俊輔訳,青土社:原著1996/訳書1998)

 これは一種の「学説カタログ本」とでもいうべき、優れた啓蒙書だと思う。たと
えば、本書の「結論」で、著者は情報処理技術と宗教の関係をめぐる三段階説を提
示している。
 
 まず、約四万年前(?)の言語の発明は共通の精神世界と超自然的世界を生み出
し、「目に見えない力とのコミュニケーション」という宗教の伝統を、つまり生物
学と文化の雑種としての原始宗教をもたらし、次いで、約五千年前の文字の発明は
聖典をもつ世界宗教を誕生させた。

 そして、現代のコンピュータ化された電子ネットワークの発明は、自然とネット
ワークの間をつなぐ宗教の機能停止をもたらすかもしれない。(ちなみに、ミシェ
ル・セールは『五感』で、文字の到来、印刷術の到来、そして現代と、記憶は三度
にわたって解放されたと書いていた。)

 ――本書の「帯」に印刷されていたコピーがよく出来ていたと思うので、記録し
ておこう。

《宗教──聖なるものを巡る想像力の基底に潜む人類の生物学的記憶。進化論や精
神分析の知見を駆使し、「捕食者への恐怖」が「崇高なるものへの畏怖」へと転じ
るプロセスに、宗教的人間(ホミネス・レリギオシ)の誕生を探り出す自然神学の
最前線。》

●286●J・ヒルマン『世界に宿る魂──思考する心臓[こころ]』
                    (濱野清志訳,人文書院:1993/1999)

 訳者のあとがきによれば、著者ヒルマンは、ユングとアンリ・コルバンを思想的
源流として、個人の分析にとどまらず、この世界そのものを視野に入れたこころの
問題を考えていこうとする自らの方向性を「元型的心理学」の名称で呼んでいると
のこと。

 本書には、エラノス会議ほかでおこなわれた講演をもとに、「心臓の意識」
(the Thought of the Heart)と「世界のたましい[アニマ・ムンディ]──世界
へのたましいの回帰」(the Soul of the World)の二論文が収められている。

 私は本書の任意の文章を抜き書きしながら、しばし陶酔の時を味わった。以下は、
そのほんの数例。

《想像的(imaginal)なるものを回復しようとするなら、私たちはまずその器官で
ある心臓すなわちこころと、それに見合った哲学を復活させなければなりません。》

《美的感覚的反応の意味するところは、この世界にたいする動物的感覚というもの
により近いのです。この感覚とは、表面に現れた事物の手がかり、すなわちその音、
におい、輪郭などを嗅ぎ分けること、自分の心臓[こころ]の反応に語りかけ、ま
た心臓[こころ]の反応を通して語ること、私たちの身の回りにひしめく事物の外
観、ことば、音調[トーン]、しぐさに反応することなのです。/事物意識
(thing-consciousness)は自己意識(self-consciousness)の概念を主観主義の
拘束を乗り越えて展開させる可能性をもっています。》

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