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■ 不連続な読書日記 ■ No.91 (2001/12/28)
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□ 茂木健一郎『心を生みだす脳のシステム』
□ 茂木健一郎『心が脳を感じるとき』
□ 茂木健一郎『生きて死ぬ私』
□ 計見一雄『脳と人間』
□ 澤口俊之『「私」は脳のどこにいるのか』
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●276●茂木健一郎『心を生みだす脳のシステム 「私」というミステリー』
(NHKブックス:2001.12)本書は実に手際よくかつ平易に脳科学の最前線の話題を読者に提供し、ブレイク
スルー前夜の理論構築現場に立ち会わせてくれる卓越した啓蒙書である。読者をし
て心と脳の関係をめぐるハード・プロブレム解明への挑戦心をかきたててやまない
優れた誘惑の書である。たぶん本書を熟読玩味し批判的に追思考するだけで、「私
が心を持つとはどういうことか」を解明する手掛かりが得られるのではないかとさ
え読者に思わせる(そう思うのは私だけか)迫力を持った本である。理性の悲観主
義、意志の楽観主義。これは確かトーマス・マンの言葉だと記憶しているが、本書
のあとがきを読んで、私は改めて茂木ファンであるとの自覚を強くした。超越論的という言葉が経験の条件にかかわるものを表現しているのだとすれば、
茂木氏がめざしているのは「超越論的脳科学」なのだろう。すなわち「私たちの体
験のリアリティを生み出す脳というシステムの成り立ちの本質」を解明し、「いか
にして、物質である脳から、クオリアに満ちた私たちの心が生まれるのか? いか
にして、ニューロンの活動から、何かを「志向する」心の状態が生まれ得るのか?
」という、結局解けないかもしれない「大問題」を解くこと。しかし「心と脳の問題を考えるということは、すなわち、主観と客観の関係を考
えるということである」と茂木氏が書くとき、この「大問題」がなぜか色褪せた哲
学的駄弁(問題感覚=哲学感覚を欠いた出来合の問題をめぐる堂々巡りの議論)の
対象に転落してしまう。茂木氏が本書で展開している議論が色褪せた哲学的駄弁と
同類だと言いたいのではない。それはむしろ逆で、ミラー・ニューロンの発見や両
眼視野闘争の実験、チンパンジーや自閉症における心の理論等々、最新の脳科学と
認知科学の知見を踏まえた茂木氏の議論は、それこそ真正かつ斬新でスリリングな
「来るべき形而上学」(ノヴァーリスの「新しい自然学」?)の前夜を予感させる
ものだ。(たとえば、本書を読みながら私は柄谷行人著『トランスクリティーク』第一部の
カント論との「同型性」をしきりに感じていた。脳科学のシステム論的転回とカン
トのコペルニクス的転回、あるいは茂木氏の著書の隠れたモティーフである「見る
ためには道徳がなければならない」という哲学者ジョン・ホージランドの主張とカ
ントの超越論的視点との関係、等々。)茂木氏が哲学者の議論に対して「ナイーヴ」なのが問題なのではない。哲学的手
垢にまみれた用語(表象、志向性、主観性、抽象、意識と無意識、感情と情動、空
間と時間など)の使用が問題なのでもない。真正の科学理論と真正の哲学的思考と
を接合する「共通のフォーマット」の不在こそが問題なのだと思う。共通フォーマ
ットを形成し脳科学の「システム論的転回」の実質をより積極的に示していくため
には、哲学者(たとえば「心身問題」とは現在と過去の関係の問題だという中島義
道氏)との対話による議論が必要なのだろう。養老孟司氏も推薦文で「著者といろ
いろ議論すれば面白いだろうと思わせる本である」と書いている。本書には他にもいろいろ興味深い指摘や示唆が盛り込まれているのだが、「古代
の人の心の化石など残っていない。残っているとすれば、レリーフのような芸術作
品が唯一の化石である」という指摘に関して一言。『白川静の世界』(別冊太陽)
所収の岡野玲子との対談で、白川静が「僕は古代におけるそういう世界[霊的な世
界]というものを、文字の形を通じて復元してみせておる訳です」と語っている。
「心身問題」の原型が「漢字」にあるなどと言いたいわけではないけれど、少なく
とも漢字は「心の化石」の一例だと思う。●277●茂木健一郎『心が脳を感じるとき』(講談社:1999)
この著書で茂木氏は、従来の「クオリア一元論」ともいうべき立場から、生々し
く鮮明な質感を伴う「クオリア」と抽象的な感覚(ここに◯◯がある、私が◯◯へ
向かう等々)を伴う「ポインタ=志向性」の二つの基本概念によって、つまり私た
ちの心の中の表象の二大要素の関係を問うことによって、心脳問題のハード・プロ
ブレムに挑む立場へと態度を変更している。この書物はよくできた作品で、初学者、門外漢にもとりつきやすく、親切かつス
リリングな叙述でもって読者を心脳問題の深みへと案内してくれる、まさに理系的
センスと文系的センスが融合した好著だと思う。たとえば、相互作用同時性の原理によって物理的時間の経過が心理的時間の中で
は「一瞬に潰れて」いるように、「属性の結び付け」というハード・プロブレムの
解決のためにはその空間版、すなわち「相互作用が空間的に離れた点の間で伝わる
時に、その空間的距離が「一点に潰れて」ゼロになるようなプロセス」を支える数
学的な理論が必要だといった議論など、とてつもない起爆力をもった思考実験のま
さに現場に立ち合っているような興奮を覚えさせられる。もっともこれはほんの一例にすぎず、興味を惹かれた箇所を拾いはじめたら最後、
全編まるごと引用しなければならない。ここでは、一気に読了してしばらく経った
いまもなおとりわけ印象に残っているいくつかの話題のうち、神経生理学における
「反応選択性のドグマ」をめぐる議論のほんのさわりを紹介する。巻末の「用語解説」によると、反応選択性とは「あるニューロンの活動、ないし
はあるニューロン群の活動パターンが、ある特定の特徴に対してのみ選択的に生じ
るという考え方」のことで、茂木氏によれば、それ自体は事実関係を主張するもの
であるにすぎない。しかし、ある特定の特徴(たとえば「薔薇の花」の光学的刺激)に反応選択性を
もつニューロン(群)が発火することこそが、その結果として私たちの心に特定の
表象(「薔薇の花」の表象)を生じさせるのだという主張は、単なる事実関係以上
の主張を含んでいる。茂木氏は、このような考え方を「反応選択性のドグマ」と名
づけ批判している。茂木氏の議論の要点は、反応選択性とは、「外界」と「脳内過程」(ニューロン
の発火の世界)との対応関係を記述する概念であるにすぎず、「脳内過程」とこれ
に随伴する脳内現象である「心の中に生ずる表象」との対応関係を決定する法則と
は全く関係がないということだ。それでは、ニューロンの発火パターンと私たちの心の中の表象(クオリアや志向
性)との間に成り立つ対応関係とは何か。ここで茂木氏が注意を促しているのは、
この「対応関係」というメタファーを超えない限り、心脳問題のハード・プロブレ
ムは解けないということである。茂木氏はここで、哲学者ダヴィッドソンの「重生起」(supervenience)の概念
に注目している。そこには、対応関係ではとらえられないいくつかのニュアンスが
あるからだ。──第一に、重生起は二つの属性を独立した集合として措定するので
はなく、それらが「ぴったりと寄り添った」ものとしてあること示す。第二に、重
生起には時間が明示的に含まれている。そして第三に、重生起には「因果性」の概
念が本質的に取り込まれている。《おそらく、真の革命は、物質という概念と心的表象という概念が対立的なもので
はなく、一つの何らかの概念に融合された時に起こるのだろう。私は、そのような
革命の際に本質的な役割を果たすのが「因果性」の概念だと思っている。》●278●茂木健一郎『生きて死ぬ私』(徳間書房:1998)
これまでに刊行された茂木氏単独の著書の中で、私はこのエッセイ集がいちばん
「深い」と思った。──副題は「脳科学者が見つめた《人間存在》のミステリー」。
養老孟司氏の推薦のことばに、「ここに書かれているような世界像が、来世紀には
一般の常識となるに違いない。…そこにはもはや理科も文科もない。茂木氏の描く
世界の姿は、いってみれば未来の世界像といってよいであろう」とある。この書物は、シュレーデインガーの“mein Leben, meine Weltansicht”を思わ
せる一種の自叙伝の試みなのではないか、と私はにらんでいる。茂木氏自身の回想
や生活体験が記されているからだけではない。プルーストが「心情の間歇」で叙述
した「復帰する自我」のように、あるいはかの高名なマドレーヌが「重生起」(?)
させた記憶の大伽藍のように、不可逆的な連続量としての物理的時間を超えて一点
に「潰れた」複数の「今」(複素数の世界を介して「連続」する離散的な数として
の心的時間?)もしくは「驚く我=感じる我」がそこに息づいているからだ。たとえば「まえがき」で紹介されている、人生の大きな転機となった一連の体験。
──ガタンゴトンという電車の音が突然生々しい質感を伴って心の中に迫ってきた
こと(この体験は『脳とクオリア』でも述べられていた)。イギリス郊外の牧場の
広大な風景を眺めていて、突然、それは私の頭蓋骨の中の出来事にすぎないのだと
いう思いが沸き上がってきたこと(この体験は『心が脳を感じるとき』でも述べら
れている)。これらの体験を通じて、人生の豊かさそのものであるクオリアを含め、人間の心
の中に生じるあらゆる表象はニューロンの発火によって引き起こされる現象に過ぎ
ないこと、つまり「人間の心は、脳内現象に過ぎない」という命題が、自分の中で
大きな意味をもつようになった、と茂木氏は述べている。そして、ここで大切なの
は「知る」ことよりも「感じる」ことである──「本当に大切なことは、…[上の]
命題がいかに驚くべきものか、そして、それが、私たちの生き方、ものの見方に、
いかに深い影響を与えるものであるかということを、「感じる」ことだ」──と続
けているのだ。そのような驚きや感覚や体験がそこにあるかぎり、茂木氏が本書で叙述している
すべての事柄(たとえば、死生観や時間論、科学や芸術のこと、人間の魂や神の沈
黙の問題、そして究極の哲学や存在革命のこと、等々)は、心の中に「問題」とし
て立ち上がるたびにその都度、何度でも最初から再び考え始められるべき問題、つ
まり紛れもない「哲学の問題」の提示であり、それに対する茂木氏自身の思索のプ
ロセスの記録(自叙伝)にほかならない、と私は了解している。●279●計見一雄『脳と人間』(三五館:1999)
養老孟司氏が「この国で初めて、輸入品でない精神病理学が出た」と、澤口俊之
氏が「精神医学と脳科学をこれほどうまく融合している書は本邦初ではないだろう
か」と、それぞれ絶賛している。確かに、「意図のセンター」(前頭連合野のワーキング・メモリー)と「リンビ
ックシステム」(記憶と情動を司る辺縁系:ギリシャ語のリンボ=辺境に由来する
名)にかかわる「精神病理学的な記録」から「精神の生理学」へ、そして井筒俊彦
をはじめ「東洋思想から見た意識の構造」にまで及ぶ叙述は、臨床家的現実感覚に
裏うちされて、読ませる。──以下、実践的知見と理論的勉強ノートが混在した本書からの若干の抜き書き。
《こころは、内臓だ…。感情は内臓感覚である。》
《過去・現在・未来に関する意識が現在を構成するのだが、そのうち過去と過去に
由来する現在は聴覚的意識が、未来と未来におよぶ現在は視覚的意識が優位に働い
て構成している模様である。》《精神の病、魂の病、心の病気という捉え方の全部とは言えぬまでも、少なからず
間違ってたのではないか? ヒトが時間の中で生きていくための、機能のどこが具
合悪くなってるのかと問題設定すると、運動という答えが出てくるのだ。脳は認識
のセンター、思考の源でもあるけれど、主には運動器官であると私は思っている。
思考も運動、認識も運動的契機を含んだ活動の産物ではないだろうか。》《言語アラヤ識は豊穰である。絢爛たる意味のエネルギー・フィールドでもある。
/そういう豊穰さやエネルギーは、結局のところリンビックシステムまたは言語ア
ラヤ識が肉体とつながっていることによる。それと切り離されたワーキング・メモ
リー[予測・計画・実行を司る「戦争用」の脳]は生物としては無意味である。(
略)/[前頭連合野が壊れると]その結果、バラバラの意味表象、無秩序なエネル
ギーの奔流にさらわれてしまう。その時、我々精神科医がなんとか回復させようと
してまず手をつけるのが、肉体の自律性である…。寝ること、食べること、排泄す
ること、それから適正に動くことである。肉体が先、脳の回復は後からついてくる。
当てになるのは、からだである。/私は東洋に回帰なんかしないが、臨床には回帰
せざるを得ない。西と東のパラダイム変換にも、似たような肉体性が共通の基盤と
して必要になるだろうという気がする。具体的にはどういうことなのか、まだ分か
らない。》●280●澤口俊之『「私」は脳のどこにいるのか』(筑摩書房:1997)
本書は、「人類の悲願ともいえる「自我の謎」」の科学的な解明をテーマとして、
著者自身の研究成果も含めた脳科学の最新の知見をもとに「自我の脳内メカニズム」
をめぐる「推測」を提示した書物である。澤口氏によると、大脳新皮質は「コラム」と呼ばれる基本的な構造・機能のまと
まり(一個のコラムは数万個のニューロンを含む。「皮質円柱構造」とも)を単位
とする階層システム=多重フレーム構造をもち、この多重フレームのダイナミクス
によって多重な心・意識が生起する。自己意識と自己制御という二つのはたらきか
らなる自我にしても、「自我フレーム」ともいうべきもののダイナミクスによって
つくられるはずで、その中心的かつ基本的な構造は前頭連合野の「自我コラム」群
である。《自我はもちろん、ほかの心や意識と同様に、単一の「分割不能の心・意識」では
ない。「自分自身」そのものがさまざまな側面を持つように、自我も多数の要素的
自我(小さな自我)から成っている。そして、たとえば視覚物体の認知が視覚物体
の「アルファベット」を処理する機能コラムの協調的なはたらきによって形成され
るように、自我の「アルファベット」を再現する多数の「自我コラム」のダイナミ
クス(内部での情報処理・動作や相互作用、自己組織的な変容)によって、まとま
ったはたらきとしての自我がつくられるはずだ。こうした「自我コラム」は、前頭
連合野の46野を中心にしつつ、9野や10野、あるいは47野などにおいて、「自我マ
ップ・システム」ともいうべき特殊な階層的システム=「自我フレーム」を形成し
ていると考えられる。そして、自我の脳内メカニズムとは、こうした自我フレーム
のダイナミクスにほかならないのである。》さわりの部分だけを引用しても、澤口氏の「スペキュレーション」がもつ迫真性
を伝えることはできないし、もとよりそれは私の任でもない。いずれにせよ、『幼
児教育と脳』も含めて、澤口氏が提示する議論には、「心は脳内現象である」とい
う「驚き」あるいは「実感」に、科学の言葉で肉薄する現時点での極限が、きわめ
てわかりやすくかつ説得力をもって示されているように思う。しかし、それでもやはり「So what ? 」という問いは残る。その意味で、私が
本書で最も心を惹かれたのは、実はエピローグに記された次の言葉だった。それは
、心の問題を説きながら「心は脳の活動である」という観点を欠いた哲学者や思想
家への苛立ちと、「自我は前頭連合野のコラム群のダイナミックな動作・プロセス
である」という自説の正しさを述べたあとに続く文章である。《「これを言ったらおしまい」かもしれないが、「So what ?(だからなんなの?)
」という言葉が頭から離れない。「自分自身を知りたい」という問いに、これで答
えられたという気持ちにはとうていなれないのだ。/「自我の謎」というのは、こ
うした「明確」な話ではすまないのではないか。あの若き日に私をとらえた「自分
とはなんなのか?」という問いは、何か深い底に吸い込まれるような気持ちととも
にあったはずだ。(略)「自我の謎」とは、私にとって、まさに「暗い朝」とか「
屠場の昼下がり」のような心象風景とともにあった。あるいは、「自分自身を考え
ている自分を考えている自分を考えている自分を……」といった螺旋状の眩暈のよ
うな感覚とともに──。(略)「世界は深い、昼が考えたよりも深い」という言葉
がまったくそのとおりであることは十分にわかっているが、なお、自我の脳科学的
探究の未来が明るいことを私は信じている。なぜならばそれは、私の「夢」である
のだし、あえていえば「使命」だとも思っているからだ。》こういう「告白」をするためにこそ、人は脳科学を生業とするのかもしれない。
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