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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.9 (2000/10/13)
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数年前、松岡正剛監修の『増補 情報の歴史』(NTT出版)で、「九世紀のエリウゲ
ナ主義から十九世紀の観念論まで、西欧哲学の大半はオリゲネスの遺産の修正史に
すぎなかった。」(西暦200年代)という注記を見つけて以来、古代ヘレニズムから
十七世紀(スピノザやライプニッツ)へ到る西欧古代・中世の神学思想に惹かれ続
けています。

ところで、その後フリードリッヒ・ヘーア著『ヨーロッパ精神史』(小山宙也・小
西邦雄訳,二玄社)を読んでいて、上記の出典が判明しました。以下に該当箇所を
抜き書きしておきます。──それにしても、やはり引用文献はきっちりと明示して
おくべきだと思うのですが、あの浩瀚な『情報の歴史』でそれをやったら、さぞか
し煩瑣極まりないことでしょう。(ついでに書いておくと、いま気になっているの
は、西暦900年代年表の欄外にある「アラビア貨幣経済が、今日の経済感覚の源流
である。」という注記です。)

《マイスター・エックハルトとスピノザは、オリゲネスの近くにいる。バロックの
陶酔、そして数学、ことに幾何学を手段として、神のうちに確実性に到達しようと
いう彼の試みは、オリゲネスの切望したことを再生させるものである。(略)東方
教会の指導的な神学者は、何らかの意味でオリゲネス主義者である。アリウス主義、
ペラギウス主義は、オリゲネス主義に基づいている。西方においては、九世紀のエ
リウゲナの精神主義から、一九世紀の観念論者まで、この人物の遺産の一部にすぎ
ないのである。》

というわけで、今号から数回、西欧古代・中世哲学特集(?)を組むことにします。
予定は4回ですが、これだけは始めてみなければどうなるか分かりません。そもそ
もが無謀な試みです。オリゲネス以前の、たとえばフィロン、ストア派等々への関
心が私のなかで高まっているし、もっと遡るならば、そもそもの発端は、ギリシア
的霊性・神秘的伝統を引き継いだ一人の神秘家としてのプラトン(シモーヌ・ヴェ
ーユ『ギリシアの泉』)に行き着くのですが、このあたりのことは今後の課題にと
っておくことにして、ここではオリゲネスから始めます。

なお、今回の書物については、いずれも私のHPでやや立ち入って取り上げたこと
があります。下記の文章も、そこからの抜粋です。(これはまったくの蛇足ですが、
グレッグ・ベアの『女王天使』(酒井昭伸訳,ハヤカワ文庫)第二部で確か二回、
オリゲネスの文章が引用されています。)
☆「オリゲネスの遺産:オリゲネス,プロティノス周辺」
     [http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/ESSAY/TETUGAKU/16.html]
 

●15●有賀鐡太郎『オリゲネス研究』(全國書房/創文社版著作集第一巻)

 著者は冒頭「神学的解釈学」の立場からオリゲネスを研究することが本書の目的
であると宣言し、「オリゲネスの基督者的人格の在り方」を明らかにすることが本
研究の目的であると述べている。著者はまず、信ずる者の立場に立つことを非科学
的であると排斥した近代的な自由神学の論述するキリスト教本質論が、特定の人間
文化の制約と前提との下につくられた歴史像にすぎず、「せいぜい基督教の外面的
特質を捉へ得たに過ぎなかった」ことへの不満を表明する。その一方で、聖書を単
なる歴史資料と見るのではなく、その文字の背後に神の言を聴きとることを提唱し
たカール・バルトの解釈学的神学が、信ずる者の立場に立った点において正しいも
のであったにもかかわらず、「其が超自然主義である限り於て、其は教理主義的旧
神学への逆転の傾向を強く示してゐる」と批判したあと、次のように書いている。
《如何に信ずる者の立場に立つも人間は人間であり、理性は理性である限りに於て、
神の言を直接にその探究の対象とすることは出来ない。其は漸く「信ずる人間」を
直接の対象とし得るのみである。即ち、神の言自体ではなく、神の言を体験する人
間を直接には理解し得るのみである。固より其が神の言の体験である限り、その体
験を検討することによつて神の言の実存的性格を能ふ限りに於て把握し得るのであ
るが、体験の研究を飛び超えて直ちに其の超越的なるものの認識に向ふことは人間
には許されてゐない。》

 著者がいう神学的解釈学とは、その著作等において表現された「信ずる人間」の
人格自体のあり方を「共感的理解」の方法によって、すなわち人格が人格を以心伝
心的に直観することによって突き止めることにほかならない。それでは、人間の人
格とは何か。人格を理解するとはどのような営みなのか。《惟ふに人間の人格は文
化及び歴史と関はりを有つことは勿論であるが、それは又測り知れぬ深淵の上に立
ち、また無限に高い天を仰ぐ存在である。エペソ書[パウロ]の表現を用ひるなら
「廣さ・長さ・深さ・高さ」の四つの次元を持つ存在である。文化的歴史的関はり
の面即ち人間の廣さと長さとは合理的に理解し得るのであるが、その人がその足下
に横はる底知れぬ深みに、又その仰ぐところの測り知れぬ高みに如何なる関はりを
有つてゐるかは他人の観察の網目から逃れ易い面である。けれども人間の在り方は
その凡ての次元について計られなければ真に理解されたとは云へない。殊にオリゲ
ネスの如き宗教的人格に於ては然りである。》

 著者がいう人格の四次元をオリゲネスにあてはめるならば、ヘレニズム後期のア
レクサンドリアで知識階級に属するギリシア人の子として生まれた文化的環境が「
廣さ」(横)に、グノーシス主義が隆盛を極め、ネオ・プラトニムズへと展開しつ
つあったギリシア的哲学思想と初期キリスト教思想の巨大な潮流が渦巻いていた思
想史的状況が「長さ」(縦)に相当するのだろう。キリスト者としてのオリゲネス
の「深さ」と「高さ」については、著者自身が次のように述べている。《彼は「祈
祷論」なる書を著してゐる。又「殉教のすゝめ」を書いてゐる。前者に於ては彼が
神に対して如何なる関はりを有つてゐたか、即ち祈りの問題について如何なる態度
を採り見解を抱いたかを示してゐる。後者に於ては基督者の現実の闘ひ即ち罪と悪
の勢力との闘ひに於て如何なる見解と態度を示したかをよく物語つてゐる。惟ふに
基督者としての存在は此の二つの次元について最も明かに決定せられる。基督者は
神を仰ぐ存在であることは無論だが、また悪の現実を、その底知れぬ深みを認識し
て之と実践的に戦ふ存在である。彼の神が思想上の観念ではなく、祈りの対象たる
生ける神である如く、彼の悪魔も亦単に思想的に解決し得らるべき悪の問題として
在るのではなく、現実に戦はるべき力として体験されるのである。固よりその何れ
の認識も聖書の或はむしろキリストの媒介に因つて得られたものであるところに、
その基督者的性格が決定せられる筈である。》

 こうして本書は、第一章「祈祷の問題」で祈りの人・オリゲネスを、第二章「殉
教者の道」で神への愛としての殉教を説き悪魔的現実と戦う神の戦士・オリゲネス
を叙述し、第三章「文化の問題」で学問(特に哲学)に対するオリゲネスの態度を
考究し、第四章「神と摂理」でその神論と人間論を、第五章「完全への進程」で完
全性への進程としてのオリゲネスの救済論を論述し、そしてキリスト者・オリゲネ
スの人格のあり方を総括する「結論」へと至る探究の旅を開始する。

●16●井筒俊彦『神秘哲学』(中央公論社版著作集第一巻)

 著者二十歳代後半から三十歳代前半にかけての作品。これはほとんど散文詩とい
っていい華麗な美文で、歌うように叙述されたギリシャ的神秘主義へのオマージュ
である。知的緊張と抒情的高揚のみなぎるその特異な文体は、もちろん著者本来の
詩魂のなせる業ではあるのだろうが、なによりも本書が扱う題材に、すなわちギリ
シア的形而上学的思惟の根源に伏在する密儀宗教的な神秘主義的実在体験そのもの
に由来するものだ。このあたりの経緯は、次の文章に如実に表現されているように
思う。《イオニアの自然学に始まりアレキサンドリアの新プラトン主義に至るギリ
シャ形而上学形成の根基には常に超越的「一者」体験の深淵が存在している。この
神秘主義的体験は個人的人間の意識現象ではなく、知性の極限に於いて知性が知性
自らをも超えた絶空のうちに、忽然として顕現する絶対的超越者の自覚なのである。
人がもしこのギリシア的神秘体験を識得しようと欲するなら、先ず自ら経験界の彼
岸に翻転し、自然神秘主義の主体とならなければならぬ。「似たものは似たものに
よって、等しいものは等しいものによってのみ」認知されるという考え方は、たん
にプラトン認識論の原則であるのみならず、古い昔からギリシア人のあいだにひろ
く行われていた特徴ある思想であるが、この原則は背後に一種の超越的直観を予想
するとき、はじめて最も充実した意味を発揮する。》
 著者の基本的な命題は、ミレトス学派からプラトン、アリストテレス、そしてプ
ロティノスへと至るギリシャ哲学は、ソクラテス以前期の神秘主義的・超越的体験
(パトス)を思想的に再現し形而上学的思索(ロゴス)として展開した「神秘哲学」
であるというものなのだが、このギリシャ的神秘主義の何たるかを叙述するに際し
ては、その文体そのものがおのずから叙述対象と「似たもの」になるほかはない、
ということなのだろう。

 本書は、第一部「自然神秘主義とギリシア」でギリシア思想のパトス面を、第二
部「神秘主義のギリシア哲学的展開」でそのロゴス面を扱っており、著者の文体も
題材に即して微妙に変化している。とりわけ最終章は、それ以前の叙述のスタイル
とは趣を変えてプロティノスの著作からの多くの引用で構成されている。おそらく
言語化不能の対象を語る窮極の表現(ロゴス)をそこに見出したからなのだろう。
――ギリシャ精神の綜合者としてのプロティノス、プロティノスの霊魂観、プロテ
ィノスと東方思潮、プロティノスの存在論体系と宇宙的観照主義、プロティノス哲
学の秘教的性格(知性の密儀宗教)、以下、「一者」「流出」「神への思慕」とプ
ロティノスの存在論体系をめぐって井筒氏の叙述と引用は続く。《神を観ようとす
る人は先ず自ら神の如くならねばならない。》この窮極の言葉をつきつけられると、
ともに神を観た二人の人物が時代と場所を異にして相対峙し格闘する緊迫したドラ
マを単なる知的好奇心で追いかけることなど虚しくなってしまう。

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