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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.89 (2001/12/24)
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 □ 鎌田東二『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』
 □ 中山元『新しい戦争?』
 □ 渡辺茂『ヒト型脳とハト型脳』
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ブルカニロ博士(物語作者)のテレパシー実験によってジョバンニ(作中人物)は
菩薩道へと教導される。そこに、物語世界(現実世界)の外部(霊的世界)から「
その人」(ほんたうの作者?)があらわれて、ジョバンニに「魂」(孤独のクオリ
ア?)をふきこむ。

ジョバンニは被教導者から求道者=孤独者=単独者へと変換され、それと同時に「
銀河鉄道の夜」の属する次元がフィクショナルなものからリアルなものへと変換さ
れる。それはいま・この時において、完結しない推敲過程(認知と行為の絶え間な
い反復、すなわち生そのもの?)を生きている。いわば「死後の生」を。

──こうして宮沢賢治と初期ロマン主義における芸術批評の概念、とりわけベンヤ
ミンによるノヴァーリスの読解(「実験の本質は、観察されるもののうちに自己意
識と自己認識を呼び起こすことにある」云々)がつながり、さらに、いわゆる「心
脳問題」と錯綜した関係をとり結んでいく(?)。
 

●268●鎌田東二『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』(岩波現代文庫:2001.12)

 「銀河鉄道の夜」には四種類の草稿がある。そのすべてに出てくるのが「蠍の火
」のエピソードだ。いたちに追われ井戸に落ちて溺れ死にそうになった蠍が「どう
かこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい」と祈り、
夜の闇に燃える「まっ赤なうつくしい火」になる。著者はこれを法華思想と密接に
つながる「久遠(永遠)=本仏=一乗に身を投じる菩薩道の喩え」と解釈している
(20頁)。

 ここに出てくる法華一乗思想、すなわち法華の信仰だけが真の悟りに至る唯一の
道であるとする「法華原理主義的なラジカリズム」(120頁)は、第三次稿で加わ
った「神学論争」によって深い陰翳を帯びる。タイタニック号で溺れ死んだキリス
ト教徒の青年に向かってジョバンニは「たったひとりのほんたうのほんたうの神さ
ま」の話をするが、議論はすれ違ったままで終わるのである。

 この神学論争は第四次稿にも引き継がれるが、決定的な違いは「セロのやうな声
」をもつ二人の人物が第四次稿で削除されたことだ。二人の人物とは「考を伝へる
実験」(テレパシー)でジョバンニに語りかける教導者たるブルカニロ博士(現実
存在)と、「みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、
けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。そ
れからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかない
だらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考と
うその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じや
うになる」と語りジョバンニに瞑想(「こゝろもちをしづかにする」こと)という
実験を教える求道者たる「その人」(霊的存在)である。(この「セロのやうな声
」をもつ二人の人物の区別と物語にしめるその意味を見定める第3章は本書の白眉
だと思う。)

 およそ七年余に及ぶ宮沢賢治の推敲につぐ推敲の軌跡を丹念に腑分けして著者が
得た結論は次のようなものだ。

《その変化は、一言で言えば、教導者に導かれる者から、単独者の旅人となるジョ
バンニの孤独と、「みんなの幸福」を希求するその果てしない不可能性の探求への
企投の深遠さ、距離である。別の平たい言い方をすれば、依存体質から自立への変
化。水平軸から垂直軸への屹立。自己超越と自己受容。あるいは、自己の使命を自
己自身で引き受ける覚悟。
 いいかえると、それは自分が自分自身の教導者となるプロセスである。それは、
ある意味で、教師、あるいはシャーマン、あるいは菩薩の誕生でもある。あえてと
ても大げさな言い方をすれば、『銀河鉄道の夜』は、世界教師・宇宙シャーマン・
銀河菩薩の誕生のイニシエーション的な物語である。そしてそれは、表向きはもち
ろんジョバンニの「銀河鉄道の夜」の幻想的な旅の物語であり、死と再生、絶望と
深い気づきと覚悟の物語でもあるが、より本質的には菩薩の悲願=大悲の現世であ
る。それは、断念と悲と願とを抱えて生きる道行きである。》(94-95頁)

 こうして著者の筆は「銀河鉄道の夜」の推敲過程と「鳥シャーマン」宮沢賢治の
思索・生の軌跡という二つの「不可能性の探求への企投」(それらはいずれも未だ
完結していない)をだぶらせていく。

《第四次稿の最後で、ブルカニロ博士や「その人」の姿が消え、「お父さん」が帰
ってくるらしいことは『銀河鉄道の夜』という作品にどのような変化をもたらした
か。その大きな変更はどのような意図によるのか。それによってどのような作品世
界の転換が引き起こされたのか。
 その答えは、ジョバンニが現実の中に、ある静かで強い意志と覚悟を持って、「
たったひとり」で還ってきたという構図を際立たせることになったということであ
る。これまでの物語構造はいわば“起承転結”の定型的な落ち着きを持っていた。
それが第四次稿では、“起・承・転・転”と、どこまでも転じ、流転していく構造
になっている。、銀河鉄道の夜の旅は終わっていない。旅は「どこまでも」「どこ
まででも」つづくことが暗示される。その不可能性の探求への企投が際立つ。》
(136頁)

●269●中山元『新しい戦争? 9.11テロ事件と思想』(冬弓舎:2002.1)

 哲学は単独者の不換言語で綴られ、思想は植民地の言語で紡がれ、文学は帝国の
周縁で複数言語の間に育まれる。これは誰の言葉でもないし、本書とはなんの関係
もない。

 「9.11」以後おびただしい量の論考がインターネット上に掲載された。「今回
のテロほど、グローバルに情報を伝達するインターネットが、思考の道具としても
貴重なものであることを、はっきりと示した事件はなかったといってもよいだろう
」(124-125頁)と著者は書いている。そのほとんどがインターネットで集められ
た文章を手際よく整理して、著者は本書で「9.11テロ事件があらわにしたさまざ
まな問題を考えるために役立つ」五つの視座を取り上げた。

 すなわち、これはテロなのか新しい戦争なのか、文明の衝突か、宗教の衝突か、
それは私たちに「現実の覚醒」をもたらしたのか、そして「9.11」以後反グロー
バリズムはいかにして可能か。私はとりわけ第四の視座が重要だと思う。

 メディアなしではテロは意味を失うのだが、それではメディアが流し続ける映像
はリアリティを伝達しているのか恐怖と憤慨と復讐の念をかきたてているだけなの
か。グローバリゼーションが進み世界がアメリカ化している現状にあって、はたし
てアメリカは「世界」の現実をきちんと認識できているのか(テロはアメリカ市民
に「覚醒」をもたらしたのか)。ツインタワーの崩壊という「映画(ヴァーチャル
・リアリティ)みたい」な出来事を目の当たりにして、いまや「現実のリアルの世
界」の認識そのものが不可能になっているのではないか。

《ぼくたちはいま、現実とフィクションが分かち難く、不分明なままになっている
薄明の世界に生きているようだ。ツインタワーは、どこか『風の谷のナウシカ』の
巨神兵を思わせる身ぶりでゆっくりと崩れていったのだが、現実もフィクションと
映画の世界のうちに、ゆっくりと溶け込んでしまったかのようである。》(91頁)

 ここには「問われているのは、ぼくたちの思想そのものなのである」(109頁)
と著者が書くときの「思想」の問題が、そしてもちろん「政治」の問題が集約され
ている。

 ──本書を読み終えてから塩野七生氏の「日本人へ! ビンラディンにどう勝つ
か」(『文藝春秋』2001年12月号)を再読した。そこに出てくる次の文章が、実に
新鮮だった。《なぜなら、これはもはや政治であるからだ。》それから、次の文章
も。《歴史をとりあげる私の仕事も三十年をこえる今、何よりも痛感しているのは、
宗教の良さを本来の姿で発揮させるのに最も有効な方法は、政治が機能することに
ある、という一事である。》

 これも余談だが、『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』に次の文章が出てくる。
《修羅は闘争の世界の中で唾し、歯軋りし、怒りの苦さを味わいつつ生きている。
修羅の欲望は闘争の中で消耗される。だが、まことの言葉が失われたその闘争の世
界に降り注ぐ修羅の涙こそが菩薩の道を切り拓く文字通りの水路となる。この修羅
と菩薩の往還・往来こそが宮沢賢治が意識していた「デクノボー」的菩薩道の実践
である。》(152頁)

●270●渡辺茂『ヒト型脳とハト型脳』(文春新書:2001.12)

 本書でもって脳の成り立ち・進化をおさらいし、ヒト型脳とハト型脳の違いを知
り、「実は小鳥の歌とヒト言語には驚くような類似性がある」とか「鳥類は生き残
った恐竜である」とか「脳は遠い将来のことを見こして慎重に設計されたものでは
ない。その時、その環境で個体が生き延び、遺伝子を伝えるように、いわばその日
暮らしで進化してきたものである」といった知見に触れ、そうやって著者が諫める
「知的つまみ食い」(あとがき)にひととき興じたわけだ。

 確かに「教科書的なところ」(あとがき)もあったけれど、オウムのアレックス
やイルカのロッキーやチンパンジーのワシューといった高名な動物をめぐる数々の
実験の紹介と、随所に教室ジョークを織りまぜた著者の語り口は楽しめた。特に面
白かったのは、同一性や対称性や推移性や等価性の認知をめぐる動物実験を踏まえ
て、ヒューマン・ロジックとアニマル・ロジック、そして記号論理はそれぞれ違う
ことを論じた第1章。

《ヒトや動物のしていることは一見論理操作のように見えるが、実際にはそれと違
う原理で行われている。その原理は個体の維持であり、遺伝子の伝達である。ヒト
や動物が論理操作をしているように見えるのは、論理操作と効率的な個体維持や遺
伝子伝達がたまたま一致する場合があるからにすぎない。最初に述べたようにアリ
ストテレスは人間の弁論から論理学を導いたが、公理系としての論理学はヒトの思
考とは独立したものである。》(37頁)

 パースの名もひきあいに出しながら、言語(対象をまとめて認識し=概念化・カ
テゴリー化、それに名を与え=シンボル理解、単語を系列的に組み合わせること=
文法という三つの要素でもって定義される)がヒトに固有のものかどうかを論じた
第2章も示唆に富んでいた。ヒト言語の発生をめぐる「踊るヒト」仮説(「発声器
官が音声言語を発するのに十分な機構を備えた時、ダンス産出文法や手先運動文法
を音声に転用し始めたのかもしれない」)はとても興味深い。

 ──これは余談だが、『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』に次の文章が出てくる。
《原始シャーマンには、鳥シャーマンと蛇シャーマンの二種類があったとわたしは
考えているが、その原始シャーマン二類型を定立するなら、宮沢健資は鳥シャーマ
ンの類型の典型的な末裔であるといえよう。鳥シャーマンの特徴は、天空・風・飛
翔・脱魂・霊魂遍歴であり、蛇シャーマンの特徴は、大地・水・神懸り・憑霊であ
る。宮沢賢治の主著といえる『銀河鉄道の夜』はその鳥シャーマンの孤独と栄光が
端的に物語られている。》(3-4頁)

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