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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.87 (2001/12/16)
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 □ 『ユングコレクション4 アイオーン』
 □ オリゲネス『諸原理について』
 □ 山田晶『アウグスティヌス講話』
 □ 田川建三著『書物としての新約聖書』
 □ 湯浅泰雄『ユングとキリスト教』
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●262●『ユングコレクション4 アイオーン』(野田倬訳,人文書院)

 この汲めども尽きぬ面白さに満ちた本書から、ここでは、グノーシス派を論じた
「自己の象徴性についての考察」をとりあげる。この論文のテーマは「最も重要な
元型、すなわち自己の元型」を明らかにすることにある。ここでいう「自己」とは、
意識領域の中心となる「自我」を包摂する上位概念であって、意識(男性性)と無
意識(女性性)とを統合し「心的全体性」を表わすものにほかならない。

 ユングは、グノーシス派が探究したのは、まさに元型としての「自己」を表わす
適切な象徴表現だったという。そしてその思想は、善の欠如の教義によって主張さ
れたキリスト教の神の「非対照性」を補償するものでもあったのであり、このよう
なグノーシス派の補償作用は、世界観の定位喪失という危機に陥った現代において、
その原因となった意識と無意識との間の亀裂に橋渡しをするため全体性のシンボル
を作り上げようとする動きとよく似たものであったと指摘している。

 まずユングは、ヒポリュトスの『反証』にあらわれたバシレイデスの所論に言及
しながら、神の子の身分をめぐるグノーシス派の「三分法」がもつ心理学的意味に
ついて論じる。バシレイデスによれば、「子」には三つの身分(天上の父のもとに
ある第一の子・やや粗野な本性ゆえに低い領域にある第二の子・浄めを必要とする
本性ゆえに奥底深く「無定形」の中へと下降する第三の子)があって、それらは神
の三つの流出ないしは啓示の中に認められる三分法、すなわち「精神=霊魂=肉体」
の三分法に対応する。

 この第三の身分における子(それがひそんでいるところの「無定形」は「無意識」
と同じ意味であるとユングはいう)の肉体は重く暗く不浄で光を欠いているにもか
かわらず、第一、第二の子たる身分と同様の神性の萌芽を内包しているのだが、し
かしそれは無意識的でありまだ形はないのであって、この萌芽はイエスの受難によ
って(イエスの十字架上の四分割を手本として)目覚めさせられ浄化され上昇する
のである。

 ユングは、バシレイデスによって肉体に神性の三分の一が宿っているとされたこ
と、すなわち物質が霊的神秘性[ヌミノジテート]をそなえたものとされたことは、
中世における「哲学者の息子」や「大宇宙の息子」(それらは物質の中に眠ってい
る「世界霊魂」を表わしている)にある程度似ており、やがて錬金術や自然科学に
おいて物質が「神秘的な」意義をもっていると想定されたことの先取りであったと
指摘している。

 ユングはさらに、心理学的な観点からより重要なのは、第三の子たる身分に照応
するイエスの受難によって、イエスの中の対立物が区別され意識化されたがゆえに、
イエスは手本であり目覚めさせる人であるとされたことだと述べる。つまり、第三
の子たる身分は定まった形をもたず分化されない状態にあり、その中では対立物は
意識されないままなのだが、このことが意味しているのは、「無意識な人間性の中
にはイエスという手本に照応する潜在的な萌芽が宿っている」ということなのであ
る。

 そして、天上のキリストから出てきた光がイエスの中の諸本性を類別したように、
イエスから発せられた光が、この無意識的であった人間の中の萌芽を目覚めさせ、
対立物を類別化するように仕向けるのであって、それは、意識の領域にではなく夢
の中に「自己」の元型的イメージが姿を見せるという確固たる心理学的事実にぴっ
たり照応するというのでだ。

 ユングがここで主張しているのは、「キリスト教の世界観においては、キリスト
はあきらかに自己[ゼルプスト]を表わしている」という命題にほかならない。そ
してそのようなキリスト像(あるいは自己)こそ、まさにグノーシス派の「補償作
用」によってもたらされたものだったのである。

●263●オリゲネス『諸原理について』(小高毅訳,創文社)

 途中、退屈さのあまり何度も放り投げたくなるのをなんとか堪えながら、一行一
頁(一字一句ではない)を律儀にたどっていくうち、どう表現すればいいのか、鋭
い知的刺激をもたらしたり心を高揚させるところは一切なく、叙述も洗練されては
いないのだけれど、たとえていえば「プリミティブ」で「初々しい」議論が反復的
に展開される淡々として温かい、しかし強靭な語り口にしだいに慣れ、後半は一気
に読み切ってしまうところまで引き込まれてしまった。

 様々な事柄が述べられていた。それらが雑然と整理されないまま、私の脳髄にひ
たひたと浸み込んでいく。──三位一体論やキリスト論(受肉論)、終末論や救済
論(一なる始原への帰環の思想)はもちろんのこと、理性的被造物の自由意志によ
る多様性の創出や至高の段階からの倦怠ゆえの没落、善の欠如としての悪や無から
の創造を思わせる記述、聖書の霊的解釈をめぐる議論もあった。

 異端的・グノーシス的な思考と反グノーシス的思考、異教的・ネオプラトニズム
的な思考と反「哲学」的思考がウロボロスのようにからまりあい、語りえず認識し
えないものへの敬虔あるいは否定神学的な峻厳と、万象のうちに神の働き(教育)
を語り神の愛を認識する神秘主義的な態度とが渾然一体となったその叙述は、紛れ
もない「ヘレニズム末期」の思考のかたちを示しその内実あるいは「香り」のよう
なものを保存しているのだと私に確信させる。

●264●山田晶『アウグスティヌス講話』(新地書房)

 実に味わい深い文章で綴られた名著。私は何度も読み返し、そのたびに何かを得
てきたように思う。たとえば、第四話「創造と悪」で著者は、アウグスティヌスと
道元には非常に共通しているところがあると書いている。

 まず、善なる神によって創られた世界になぜ悪が存在するかを問うた若きアウグ
スティヌスと、山川草木悉皆成仏、つまりすべてのものが既に仏に成っているなら
ば、なぜ三世の諸仏は修行しなければならなかったかを問うた若き道元は、その最
初の問題設定において共通している。──神はなぜこの世界に「内在」しないのか。
なぜ成仏=「超越」を求めて修行しなければならないのか。(西欧と東亜における
二つの問い。)

 そして、アウグスティヌスが、神がこの世界を善く創りたもうたのは、善くある
べき世界の創造の中に自分自身が参与していることであり、世界を「創られて既に
在った」ものとしてではなく「創られつつ、在りつつある」ものとして受け取るこ
とによって問題を解決したように、道元もまた、山川草木悉皆成仏とは、自分の外
にある客観的自然の世界がそのまま既に仏であることではなくて、それは自分自身
を含んでいるのであり、この世界を成仏させることは自分自身がそれをしてゆかな
ければならないのだと悟ることによって問題を解決をした点でも共通している。

《悉皆成仏とか、神によって善きものとして創られた世界とかいわれているものが、
自分にとって対象的にみられる世界のことをいっているのではなくて、じつは、わ
れわれがその中で善く生きることによって、善くし成仏させてゆくべき課題として
の世界の在り方を示していると理解し、それを実行してゆくこと、この点に両者の
共通点が認められると思います。》

 なお、著者は両者の非類似性──道元には「創造」という思想も「キリスト」も
「教会」の思想もない──を指摘したあとで、しかしながら別の観点から見ると、
道元の思想の中にキリスト教的なもの(少なくともキリスト教につながりうるもの)
を見出すことができるのではないかと書いていた。《私たちは彼を、日本キリスト
教の先蹤(少なくともその一人)と呼ぶことができると思います。》

 書物は読み返されるためにある。本書はそのことを私に思い出させてくれた。

●265●田川建三著『書物としての新約聖書』(勁草書房)

 こういう書物にもっと早く接しておくべきだったと悔やみもしたし、今後、あら
ゆる学問の分野でこの種の「情報」が必要なのではないかと思わせる創意があった。
賞賛すべきは、内容や素材の前にまず目次や索引、結構にこだわらぬ叙述のスタイ
ルや語り口といったその「形態」だ。

 序文で著者が「努力目標」として掲げた三点──「入門書とは水準において最高
のものでなければならない」「通読して面白い書物である必要がある」「辞書的に
利用しうるということは、この種の概論にとっては必須のことである」──は、七
百頁の分量と本体八千円の価格を充分に「弁証」する達成を示していると思う。

 この書物を要領よく紹介したり要約したりすることは私の力量と気力を超えてい
る。ここでは、若干の文章を抜き書きして、より多くの人を本書に誘うことにした
い。(それにしては、以下の引用は私の関心事に引き寄せすぎているかもしれない。)

《初期キリスト教はギリシャ語の宗教であった。そしてそのことは、ヘレニズム都
市の宗教であることを意味する。それも主として大都市の宗教であった。(略)ヘ
レニズム都市というのは帝国支配の機構の要をなす部分である。従って、その基本
性格において都市の宗教であったということは、とりもなおさず、この世界におい
ては、典型的に帝国主義の宗教であった、ということを意味する。この場合、帝国
主義の宗教というのは、帝国支配のイデオロギーを代表する宗教という意味ではな
く、むしろ、帝国支配が作り出した状況に直接根ざした宗教ということである。そ
の状況から生み出され、その状況に生きる人々の心情に適合し、その状況を支える
文化的姿勢を涵養する。》

《ヘレニズム的諸都市のキリスト教は、「十二使徒」やパウロが伝えたのではなく
て、彼らが到着する前からすでにそこにはキリスト教が根づいていて、使徒たちは
ただそのことを発見するにすぎないのである。つまり、特定の教団指導層の意図に
応じてキリスト教が広められたのではなく、ほとんど自然発生的とでも言うべき仕
方で、各地の都市にキリスト教が出現している。すなわち、ヘレニズム的都市の状
況がおのずとキリスト教を引き寄せていったのである。もちろん前者、つまり教団
の指導的宣教者が意図した部分もないわけではない。しかし、彼らの意図をはるか
に超えて、あるいは、彼らの意図に関わりなしに、初期キリスト教は、ほとんど自
然発生的と言ってもいいくらいに、地中海世界のヘレニズム的都市に広まっていっ
たのである。そのくらいに、ローマ帝国支配下のヘレニズム都市の生活状況にうま
く適合した宗教が誕生した、ということだろう。》

《キリスト教は、ローマ帝国支配下の大都市の生活状況にふさわしい宗教として、
アレクサンドリアのようなユダヤ教の勢力の強い町でも、順調かつ急速に成長した
のである。そして、まさにアレクサンドリアの町こそ、ローマ帝国支配下の地中海
世界において、ギリシャ語文化の最大の中心地であった。だから、ギリシャ語キリ
スト教を形成する最大の中心地の一つとなりえたのである。》

●266●湯浅泰雄『ユングとキリスト教』(講談社学術文庫)

 本書は、久しぶりに「徹夜本」の面白さを与えてくれた。実際に夜を徹したわけ
ではないけれども、何気なく本を手にして、読み終えるのが惜しいといった(初々
しい)気持ちを覚えたのはずいぶんと久しぶりの体験だった。

 東方教会の側からみたキリスト教神学と西暦一世紀から四世紀頃までのヨーロッ
パの歴史と(澁澤龍彦経由の)西洋オカルティズムへの関心が私の中に長年にわた
って潜在していて、これらをまとめて取り上げながらも理路整然と知的刺激に満ち
た叙述を貫いた書物に接することで、眠っていた何かがむくむくと頭をもたげてき
たといったところだろうか。

 個人的な述懐にふれたついでに書いておくならば、いま述べた三つの関心事に井
筒俊彦氏の著作によって論述されたイスラムやユダヤを始めとする東洋哲学をブレ
ンドすることで、心や意識や魂の起源と構造と変容をめぐるなにがしかの考察をま
とめあげるための素材を得ることができるのではないかと私はにらんでいる。この
漠然とした思いに対しても、『ユングとキリスト教』はきわめて有益なヒントを投
げかけてきた。

 たとえば湯浅氏は同書の「結び」で、西洋形而上学の伝統を表現する「メタ・フ
ィジカ」が自然[フィシス]の彼岸[メタ]を目指すものであったのに対して、人
間の内面的な魂[プシュケー]の根底を探究することを通じてその彼岸を目指す「
メタ・プシキカ」(湯浅氏の造語)が、東洋思想における「形而上学」を適切に表
現する言葉ではないかと書いている。

 そしてさらに、西洋精神史でも中世以前には、このような形而上学と深層心理学
とを一体不可分にとらえるメタ・プシキカの流れが「ある形」で存在していたとみ
ることができるのではないかと指摘しているのだ。私をとらえている諸々の関心事
は、まさにこの一点に集中していくように思う。

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