〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ 不連続な読書日記               ■ No.86 (2001/12/16)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 □ 荒井献『トマスによる福音書』
 □ ハンナ・ヨナス『グノーシスの宗教』
 □ ジョルジュ・バタイユ『ドキュマン』
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

「9.11テロ事件」とその後の情勢を考えるときのキーワードは「非対称性」と
「例外状況」なのではないかと思います。

私はいまだこれらの出来事をめぐって吃音めいた言葉すら吐くこともできないし、
また吐く気にもならないのですが、「非対称性」を「男と女」と、「例外状況」を
「単性生殖」と置き換えるならば、「新しい戦争?」(中山元氏の最新書のタイト
ル:冬弓舎刊)をめぐる情勢は、どことなくグノーシス主義者めいた男性原理主義
者同士の単性生殖への夢をめぐる神学論争の様相を帯びてくるようにも思えます。

実はキーワードがあと一つあります。それは「シンクレティズム」で、これもまた
グノーシスの時代(ヘレニズム)に縁の深い言葉です。

これらをもとに、「9.11」とは直接の関連のない「考察」をまとてみたいと思
って、いま、大貫隆『グノーシス考』(岩波書店)やマリアンネ・ヴェックス『処
女懐胎の秘密』(パンンドラ/現代書館)、ブロッホ『世界という実験』(法政大
学出版局)、森岡正博『生命学に何ができるか』(勁草書房)といった書物を読み
漁っているのですが、まだ朦朧としています。

で、以前に読んだ関連本をいくつか、二回に分けて取り上げます。
 

●259●荒井献『トマスによる福音書』(講談社学術文庫)

 荒井氏によると、『トマス福音書』はほぼ次のような神話論を前提にして編集さ
れている。

《はじめに「父」と「母」と「子」があった。人間は「子ら」として「父」(と「
子」)の本質「光」を、あるいは「母」の本質「魂」を保有しているが、「神」(
創造神)によって「天地」と「肉体」の中で支配されている。「子」なるイエスの
啓示によってその本質を認識し、「単独者」となれば、終極において始源に復する
であろう。》

 荒井氏は、もしこのような復元が正しいとすれば、それは基本的にグノーシス神
話の原型に一致することになり、そうであるとすれば、『トマス福音書』のイエス
語録はヴァレンティノス派その他のグノーシス神話の形成にその素材を提示したと
見てよいのではないかと書いている。

 グノーシス主義をめぐる話題はとても興味深いものなのだが、それは割愛して、
ここでは『トマス福音書』のキーワードの一つである「単独者」という表現に着目
する。そうすることで、グノーシス主義の性的観念の「香り」に触れることができ
るのではないかと思うからだ。

 荒井氏によれば、「単独者」には二つの意味が込められていて、その一は血縁的
同族関係あるいはこれによって象徴される世俗からの自立者の意、その二は性別を
超えた両性具有者もしくは統合者──男と女の二つに分裂している現実の性別を原
初的な「男‐女」の対へと一つにする、原初的統合の回復者──の象徴である。(
この意味では、「単独者」は単性者もしくは単性生殖者というべきかもしれない。)

 ここで、より深いのは第二の意味であって、それはたとえばイエスの次のような
言葉のうちに表現されている。

「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を
下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人(単独者)にして、男を男でな
いように、女を女(でないよう)にするならば、あなたがたが、一つの目の代わり
に目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の代わりに一つの
足をつくり、一つの像の代わりに一つの像をつくるときに、そのときにあなたがた
は、[御国に]入るであろう」(『トマス福音書』22)

「あなたがたがあなたがたの恥を取り去り、あなたがたの着物を脱ぎ、小さな子供
たちのように、それらをあなたがたの足下に置き、それらを踏みつけるときに、そ
のときにあなたがたは、生ける者の子を[見るであろう]。そして、あなたがたは
恐れることがないであろう」(同37)──なお、荒井氏は「恥」を「性」と、「着
物」を「肉体」と解読している。

「もしあなたがたが二つのものを一つとするならば、あなたがたは人の子らとなる
であろう。そして、あなたがたが、『山よ、移れ』と言うならば、山は移るであろ
う」(同106)

 この第二の意味での「単独者」は(論理必然的に)両性具有の「原人」神話を前
提にしているはずであり、そうであれば、至高者の隠喩は「父にして母」でなけれ
ばならないことになる。荒井氏によれば、この隠喩の名残りはイエスの次の言葉に
見出すことができるという。そこでイエスは、一方で肉親を否認し、他方で「真実
の」父と母を是認しているのだ。

「私のようにその父と母を憎まない者は、私の[弟子]であることができないであ
ろう。そして、私のように[その父]とその母を愛する[ことのない]者は、私の
[弟子]であることができないであろう。……[私の]真実の[母]は私に命を与
えた」

 ──もし、現代の日本で『トマス福音書』を読むことに何ほどの意味があるのか
と問う人がいるとすれば、私とすればただ、現代の日本であなたが生存することに
何ほどの意味があるかと問い返すしかない。

●260●ハンナ・ヨナス『グノーシスの宗教』(秋山さと子/入江良平訳,人文書院)

 著者によれば、シュペングラーは『西洋の没落』で、キリスト紀元最初の数世紀
におけるギリシア・ローマ世界と現代の二つの時代が「同時代的」であると書いて
いるそうだ。著者もまた、現代とグノーシスの時代との間に「広汎な類似」を見出
している。

 それはとりわけ、現代(ハンス・ヨナスにとっての)の実存主義の本質が一種の
二元論であり、人間と世界の疎遠化という「宇宙的ニヒリズム」に根ざしていたの
と同様の自然観の変化が、歴史上ただ一度、深い混乱のうちにあったキリスト紀元
最初の三世紀において、わけてもグノーシス的な精神運動のうちに──近代の科学
思想に似たいかなるものとの接触もなしに──もっともラディカルなかたちで体験
された点に見ることができるものである。

 著者は本書のエピローグ「グノーシス主義、実存主義、ニヒリズム」で、パスカ
ルやニーチェを引用しつつ、ニヒリズムをキーワードとしてこれら二つの時代をめ
ぐる実験的な比較論を展開している。この文章を読むだけでも、本書の価値の一端
にふれることができるだろう。──私はここで断言する。本書を読まずして現代を
語ることなかれ。

 個人的な覚書。シンクレティズムについて。──ハンス・ヨナスは、思想の伝達
と文化の融合に関して、次のように書いている。

《文化の融合がもっともよくなされうるのは、各々の思想が特定の地域的、社会的、
民族的諸条件から解放されて、ある程度の一般的妥当性をもつようになり、それに
よって思想の伝達と交換が可能になったときである。そうなれば、思想はもはやア
テネのポリスとかオリエントのカースト的社会といった特定の歴史的事実には拘束
されない。それは抽象的原理という、より自由な形式へと移行する。抽象的原理は、
全人類的な妥当性を主張できるし、人々はそれを学ぶことができる。議論によって
支えられ、理性的討論の場で他のさまざまな思想と競うこともできるわけである。
》(23頁)

 また、アレクサンダー東征前夜の東方世界で進行していた宗教的シンクレティズ
ムと神学的抽象(すなわち地域的な文化内容の観念形態[イデオロギー]への変容)
に関して、ユダヤの超越的一神教、バビロニアの占星術的宿命論、イラン(ゾロア
スター教)の二元論に言及した後で、次のように書いている。

《これに類した過程は東方全体で起こっていたと考えてよい。それによって元来は
民族的かつ地域的だった信仰が、国際的な思想交流の要素たりうるものに変わって
いった。これらの過程は全体として教義化の方向を目指していた。すなわち、伝統
の総体から原理が抽象され、整合的な教義へと展開されてゆく過程である。》(38頁)

 これらの文章を読んでいて、私はふと「情報神学」なる言葉を想起した。誰がど
こで使っていた言葉なのか、それとも私の勝手な造語なのか、それはよく分からな
いが、ここでは「神」の生産と流通と保存と消費の全プロセス(あるいは浮遊する
無意識の感染と撃退と変容の全プロセス)を「情報過程」ととらえる学問、西洋思
想に即していえば形而上学がもつメディアとしての機能を意識化する試み、といっ
た事柄を想定している。

●261●ジョルジュ・バタイユ著作集第11巻『ドキュマン』片山正樹訳,二見書房

 バタイユは、自ら編集長をつとめた雑誌『ドキュマン』にいくつかのエッセイを
寄せている。そのいずれも極めて興味深いものばかりなのだが、ここでは「低俗唯
物論とグノーシス主義」と題する文章を紹介したい。(私はそこに、バタイユの思
想の原点あるいは源泉ともいえる「香り」をかいだ。)

 バタイユはまず、ヘーゲル哲学が非常に古い形而上学的概念を出発点にしている
こと、それもキリスト教紀元の初期において、とりわけグノーシス派の人々が発展
させた概念を出発点にしているように思われると述べ、この「驢馬の頭を戴いた神」
を信仰するグノーシス主義の思想は、今日でも非常に重要な価値をもつはずだと指
摘している。

 バタイユによれば、宗教としてのグノーシス派のライトモチーフは、自主的な永
遠の存在をもつ積極的な原理としての「質料[マティエール]の概念」にほかなら
ない。この概念は「闇の概念」であり「悪の概念」でもある。(光の不在としての
闇ではなく、その不在によって姿を現わす怪物的なものとしての闇。善の不在とし
ての悪ではなく、むしろ創造的行為としての悪。)

 グノーシス派のこのような二元論は、質料と悪とを高次の原理が堕落したものと
見なす傾向の強かった一元論的なギリシア精神と、真っ向から対立するものであっ
た。もっとも、グノーシス派の内部には、ときにはイスラエルの神と同一視される
呪われた忌まわしい創造神を、ギリシア的な至上神から「発現」したものとする教
義もあったのだが、バタイユにいわせれば、それは一時凌ぎの必要に応えたものに
すぎず、グノーシス派独特の形而上学的思弁と神話的悪夢において露呈しているの
は、後世の黒魔術にもつながる「極悪非道な力についての激烈かつ獣的な固定観念」
にほかならない。

 グノーシス教徒と(グノーシス主義の最後にして最大の宗教的形態ともいわれる)
マニ教の信徒たちの精神活動の至上の目的は、絶えることなく「善と完成」であっ
た。しかし、ここでいう善は、もとより悪に対する高次の権威やギリシア的な高次
の原理・聖性をいうものではない。彼らの思考を決定づけうるのはただ「悪への不
安な譲歩」だけであって、たとえ暗々裡であったにせよ彼らは理想主義的な観点と
はきっぱりと縁を切っていたのであり、自らの生に悪の創造的行為の影響を見てい
たのである。

 バタイユは最後に、グノーシス派の思想の現代的意味をめぐって次のように指摘
している。(これはこのエッセイの中で最も重要な位置をしめるものだと思う。)
──グノーシス派がもちだすこのような「心理的プロセス」は、現今の唯物論とさ
して異なるところはない。

 ただし、バタイユがいう唯物論は、存在と理性を(高次の原理にではなく)「低
次の質料」に服従させるもの、すなわち「存在論を含まぬ唯物論」であり「質料を
即自的事物とせぬ唯物論」のことだ。また「低次の質料」とは、現存する私という
存在とその存在を武装させる理性とに借りものの権威を与える高次の原理の埒外に
あるもの、あるいは自我と観念の外に存在しているもの、いいかえれば「人間の理
想的渇望の外部にあって無縁のもの」を意味している。

 バタイユは続けて次のように書いている。──そのような低次のもの(どんな場
合であっても何らかの権威の猿真似をし得ないもの・まさに質料と呼ぶべきもの)
にこそ、私は全面的に服従しているのであって、もしこれとは逆に、私の理性が私
の言明したことの限界になるとすれば、私の理性によって限定された質料は、たち
どころに一つの高次の原理という価値を帯びてしまうだろう。そしてその原理とは、
権威を笠に着て語るために、「奴隷的」理性が自らの上に喜んで据えるはずのもの
にほかならない。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ メールマガジン「不連続な読書日記」/不定期刊
 ■ 発 行 者:中原紀生〔norio-n@sanynet.ne.jp〕
 ■ 配信先の変更、配信の中止/バックナンバー
       :http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
 ■ 関連HP:http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
 ■ このメールマガジンは、インターネットの本屋さん『まぐまぐ』 を利用し
  て発行しています。http://www.mag2.com/ (マガジンID: 0000046266)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓