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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.84 (2001/12/02)
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 □ 田島正樹『スピノザという暗号』
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●257●田島正樹『スピノザという暗号』(青弓社:2001.6)

 私が初めて手にした哲学書がスピノザの『エチカ』だった。高校二年の時だった。
その時はたしか第一部の途中で挫折した。以来、最初から順を追って読むことは断
念したものの、断片的、間歇的に読み続けてきた。いつか自分なりに解読してみた
いと思い続けてきた。(数年前オランダを旅行した時は、文庫本上下二冊を鞄の中
に入れたまま終日アムステルダムの街を歩き続けた。もちろん何の意味もなかった
けれど。)

 ジル・ドゥルーズが『記号と事件』の「哲学について」というインタビューで、
哲学史の本を書くことから仕事を始めた際、「全体としてはスピノザ=ニーチェの
重大な統一をめざしていた」と語っている。個人的な話題を重ねると、私が『エチ
カ』の次に手にしたのがニーチェの『ツァラトゥストラ』で、大学一年の頃だった。
この時はとにかく最後まで読み切った。ドゥルーズがめざしていたこととはたぶん
何の関係もないと思うのだが、私なりの「スピノザ=ニーチェの重大な統一」を、
たとえば人間主義的拘束を脱した新しい倫理とか、変身ならぬ「変人」つまり非人
間的なものへの進化を、『エチカ』の解読を通じて構想してみたいと思うようにな
った。

 タイトルは「スピノザの屈折率」と決めてある。ノヴァーリスの「自然科学研究
ノート」に、パラケルススの次の言葉が抜き書きしてある。《神のなかに私たちは
何ものも見ることができない。神のなかでは、すべてが全体としてあり、完全だか
らである。神は何ものも屈折させ brechen ない。しかし、神の被造物のなかには、
智慧とわざの解剖学があらわれている。》また、ノヴァーリス自身の断章には次の
ように書かれている。《色が屈折させられた gebrochen 光であるのと同じ意味で、
音とは、さえぎられた gebrochen 運動にほかならない。》こういった事柄と関係
があるのかないのか、それらも含めてスピノザが磨いたレンズの「屈折率」の射程
を見定めてみたいと思ってきた。

 いま私は『エチカ』の解読を通じてと書いたが、ここでいう「解読」とは暗号解
読のこと、すなわち解釈ならぬ「復号」化のことにほかならず、つまり『エチカ』
は私にとって暗号で書かれた書物だったし今でもそうあり続けている。田島氏が本
書のあとがきで「スピノザは長い間、私にとって暗号も同然であった」と書いてい
るのを読んで、その経験の質と量の歴然たる違いはさておいて心から同感した。

 しかし「まさに暗号解読という方法(およびそれと結びついた全体論的合理性の
観念)こそが、スピノザの全哲学の核心そのものである」という田島氏の発見は、
私には驚くべきものに思えた。

 スピノザの哲学から実在論(神)を棄て、その方法的立場(『聖書』解釈を通じ
てスピノザが確立した二つの態度、すなわち「内在主義」と「全体論的解釈」)を
くりかえしスピノザ自身に適用すること。このアクロバティックな解読の試みによ
って見えてくるのは「まさにそれがどのように解読されるべきかということそれ自
身」である。そしてその時、スピノザの学説は「生きている以上不可避なものとし
てわれわれの内部にあって、意識されないままに働いていたわれわれ自身の固有な
力の一部である」というのだ。

 田島氏が見出した──「プラグマティック」(111頁)で「社会工学」(241頁)
的な?──スピノザ哲学の姿は、それ自身哲学書解読の優れたサンプルともいえる
第3章「自己原因としての神」、第4章「心─身問題」、第5章「倫理」に精緻か
つ精妙な読みとともに示されている。

 それはそれで熟読玩味すべき鮮度をもつ面白いものだったのだが、私がとりわけ
刺激を受けたのは、スピノザ哲学の奥義(ニーチェのルサンチマンの説とからめて
叙述される理性的認識と能動的活動性の一致)とその方法を扱った第1章「スピノ
ザの出発」と、スピノザ哲学へ内在するための前梯としての実在性と現実性、可能
性と超越性をめぐる形而上学的予備考察と知識論を扱った第2章「実在性」だった。
(わけても、信原幸弘氏の議論を参照にしながら展開されるクオリア論は示唆に富
んだものだった。)以下の抜き書きは第2章から。

《たとえば幾何光学では、光は光線として直線で表記されるが、ここで光線に実際
に厳密に対応する実在がなんであるかを問うことは、ミスリーディングだろう。平
行な光線を焦点を通るようにレンズで屈折させたり、入射角と反射角を等しいよう
に鏡で反射させたりする幾何光学的な一連の作図法と一体のものとして、光線の表
記は存在しており、それは一群の光学的現象に説明を与える道具だてになっている
のである。幾何光学(解明する観念)の真理性は、このような現象説明力そのもの
であり、解明された現象とは別に、その説得力(真理)ああるわけではないのであ
る。

 解明される以前にはただの混沌にしか見えなかった現象群が、解明されてみると
みずからを一つの真理洞察として(すなわち真なる観念として)肯定的に表現して
いることになる。このことは、幾何光学の語彙と能力によるものだが、その説得力
は、現象説明の外に抽象的に存在しているものではなく、解明された一つ一つの減
少によって支えられたものである。こうして解明する道具と解明された現象は、一
体のものとして働いているのである。それは、ジグソーパズルにおいて、ピースの
一つ一つを関連づけておく置き方の認識と、そうして関連づけられて置かれたピー
スとの関係のようなものである。置き方は、ピースを実際置くことのなかにしか示
されない。

 かくて、真なる観念が完全な認識と考えられるなら、「未だ認識されていない真
理」という実在論的観念とは対立せざるをえないはずである。スピノザの形而上学
の底には、ともに根元的な実在論と反実在論が、二つながら相拮抗しており、それ
がいたるところ、解決困難な問題を噴出させる結果になっている。スピノザの難解
さの秘密は、この内部対立という点にこそあるだろう。

 われわれの立場は単純である。スピノザにおいて等根元的であったこの二つの立
場のうちで、実在論的な立場を棄て、力としての観念、認識としての真理という立
場を首尾一貫して追求するものである。われわれはそのさい、スピノザの全体論的
立場を放棄するものではない。ただ、全体を、創造され、構成され、拡大されてい
く全体と見なすのである。》(94-95頁)

《シニフィアン(たとえば音韻)は固有のクオリアで弁別されるが、それは、それ
ぞれに何か特定のクオリアが貼りついているということではなく、クオリアの違い
によって、シニフィアンの違いが弁別されるということにすぎない。それゆえ、シ
ニフィアンが他のシニフィアンから区別されるとき頼りになる差異としてしか、ク
オリアは現れない。それゆえ、ふだんなにか特別なことをするでもなくぼんやりと
時を過ごしているようなとき、この感覚質を一つの感覚質として意識するようなこ
とは容易ではない。あるいは、入室するときには感じられた匂いも、そのなかでだ
け暮らしていると、それを何か特定の感覚質として意識することは難しくなる。

 もちろん、実際にどのような物理的特性が、とくにシニフィアンを弁別するため
に関与的な感覚質となっているかを、客観的に記述することはできる。しかしクオ
リアの差異を、物理的差異に「還元」することはできない。というのは、物理的差
異は、クオリアの差異をつくり出すためにたまたま利用されているにすぎず、別の
物理的差異によってそのシニフィアンを実現することも、当然可能であっただろう
からである(たとえば、違う波長帯で、同じ色の感覚質を実現することも可能であ
る)。

 かくて、シニフィアンの成立が、クオリアの差異にも、クオリア弁別に利用され
る物理的特性にも、ある意味で先行せねばならない。それは、シニフィアンが自己
保存力[コナトス]をもつということである。》(109-110頁)

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