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■ 不連続な読書日記 ■ No.83 (2001/11/25)
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□ 東浩紀『動物化するポストモダン』
□ アングス・ゲラトゥリ/オスカー・サラーティ『マンガ脳科学入門』
□ 二木麻里・中山元『書くためのデジタル技法』
□ 木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』
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●253●東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』
(講談社現代新書:2001.11)東浩紀は本書の中心をなす第二章「データベース的動物」の冒頭で、「シミュラ
ークル[=二次創作]の全面化」と「大きな物語の機能不全[=虚構重視]」とい
う特徴をもつポストモダンの本質をめぐる二つの問いを立てている。第一の問いは「ポストモダンのシミュラークルはどのように増加するか」という
もので、これに関して提示されるのが近代的な「オリジナル‐コピー」モデルに対
する「データベース‐シミュラークル」モデルであり、大塚英志の「物語消費」と
対比される「データベース消費」の概念である。《近代からポストモダンへの流れのなかで、私たちの世界像は、物語的で映画的な
世界視線によって支えられるものから、データベース的でインターフェイス的な検
索エンジンによって読み込まれるものへと大きく変動している。その変動のなかで
日本のオタクたちは、七○年代に大きな物語を失い、八○年代にその失われた大き
な物語を捏造する段階(物語消費)を迎え、続く九○年代、その捏造の必要性すら
放棄し、単純にデータベースを欲望する段階(データベース消費)を迎えた。》第二の問いは「ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして、ではそこで人
間性はどうなってしまうのか」という疑問である。ここで東は、大澤真幸による戦
後日本のイデオロギー状況の分析、すなわち「理想の時代」(45〜70年)と「虚構
の時代」(70〜95年)の二分を受けて、「動物の時代」(95年〜)の到来あるいは
「データベース的動物」という新たな人間像を提示する。《データベース型世界の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた二層化さ
れている。それは、シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とデー
タベースの水準における「大きな非物語への欲望」に駆動され、前者では動物化す
るが、後者では疑似的で形骸化した人間性を維持している。(略)近代の人間は、
物語的動物だった。彼らは人間固有の「生きる意味」への渇望を、同じように人間
固有な社交性を通して満たすことができた。(略)しかしポストモダンの人間は、
「意味」への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に
還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな非物語
のあいだにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を
与えることなく漂っている。意味の動物性への還元、人間性の無意味化、そしてシ
ミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の解離的な共存。》著者自身が書いているように、本書のエッセンスはほぼ以上で尽きている。(デ
ータベース化された信念と記憶と歴史、そこからサンプリングされ身体化=動物化
される表象、そしてそれらを媒介する「工学的」な命題知と能力知の体系。実に面
白い。)この原理的考察から何が生まれてくるか、どのように「応用」されうるのか。著
者自身は第三章で、予告編として二つの序論的試みを示している。その一は「ポス
トモダンとは表層的にはどのような世界で、そこで流通する作品はどのような美学
で作られるのか」をめぐるもので、ここでの考察を通じて、「超平面的」なシミュ
ラークルの世界において働く「過視的」(=過剰に可視的)な欲望や視覚的な近代
の超越性に対する過視的なポストモダンの超越性といった哲学的問題の所在が示唆
される。その二はゲーム批評への応用で、具体的には『YU‐NO』をめぐるやや立ち入
った分析がなされている。《このようなすぐれた作品について、ハイカルチャーだ
サブカルチャーだ、学問だオタクだ、大人向けだ子供向けだ、芸術だエンターテイ
ンメントだといった区別なしに、自由に分析し、自由に批評できるような時代を作
るために、本書は書かれている。》●254●アングス・ゲラトゥリ/オスカー・サラーティ『マンガ脳科学入門
心はどこにある?』(小林司訳,講談社ブルーバックス:2001.11)本書を読んで想起したこと。その一。東浩紀は宮台真司との対談「データベース
的動物の時代」(『週刊読書人』2001年11月30日)で次のように述べている。《僕はすべての根幹には「工学的な知」の問題があると思うんです。産業革命以降、
私たちの世界では工学的な知の重要性がどんどん上昇している。(略)経済学は金
融のエンジニアリングになってしまっているし、ヒトゲノムのデータベースが進ん
でいけば、私たちの意志や信念もエンジニアリング的に説明されていく可能性があ
る。実際、薬物や洗脳の問題というのは、まさに私たちの脳が工学的に操作可能だ
から起きるわけです。社会のデータベース化や主体の動物化という現象は、実はこ
ういう変化の果てに生じているわけで、八○年代や九○年代といった枠組みよりも
広い問題なんですね。(略)世界はすっかり工学的な知で覆われて、聖性などなく
てもやっていけるようになっている。というか、正確には、「聖性」すらも工学的
に供給しようという方向の世界になっている。(略)人間の行動を説明するのには
三つのレベルがありますね。神経生理学的、認知科学的、そして精神分析的なレベ
ルです。これは単純に言うと、理系的な人間理解、工学的な人間理解、文系的な人
間理解に対応している。(略)現在の社会では、理系的な聖性の供給(ドラッグ)
はあまりにも直接的で社会的に回収不可能なので、聖性の体験は、文系的な方法で
行いましょう、ということになっているわけです。お祭りとか文学とか。けれども
問題は、そのどちらでもない認知科学的な聖性の供給システムなんですよ。僕はこ
れを「萌え」と呼んでいるわけですね。(略)スノッブな消費者は、記号的差異に
対して意識的に反応していた。けれども動物化しデータベース化してしまった消費
者は、記号的差異に身体的に反応してしまうわけですよ。これはやはり以前とは違
うでしょう。》その二。田島正樹は『スピノザという暗号』(青弓社)の第2章「実在性」で、
感覚質(クオリア)をめぐる信原幸弘の議論を批判しつつ次のように書いている。
(ちなみに、田島氏はクオリアの知識を「能力知」に分類し「命題知」と区別して
いる。)《…クオリアの差異を、物理的差異に「還元」することはできない。というのは、
物理的差異は、クオリアの差異をつくり出すためにたまたま利用されているにすぎ
ず、別の物理的差異によってそのシニフィアンを実現することも、当然可能であっ
ただろうからである。(略)かくて、シニフィアンの成立が、クオリアの差異にも、
クオリア弁別に利用される物理的特性にも、ある意味で先行せねばならない。それ
は、シニフィアンが自己保存力[コナトス]をもつということである。/感覚質は、
行為や感情と同じようにそれを習得せねばならず、それは、逆上がりの技が「私秘
的」でないという意味では、私秘的であるわけではないが、それを習得する能力を
まったく欠いている場合には、それにアクセスすることができないものである。わ
れわれがコウモリの感覚質を習得できないのは、感覚質一般が純内面的・私秘的な
ものだからではない。たんに、コウモリのもつ感覚─運動能力を欠いているためで
ある。つまり、彼らのように飛行できないように、われわれは、彼らのように知覚
できないにすぎない。》(109-110頁)その三。グレッグ・イーガンの作品集『祈りの海』(ハヤカワ文庫)に収められ
た標題作は、静謐な感動を湛えた佳品だった。《麻薬はここにだけあるのではない。(略)それはいまでは、ぼくたちの一部分だ。
(略)だが、あなたがそのことを知っていさえすれば、それはあなたが自由だとい
うことだ。あなたの心を興奮させるなにもかもが、あなたを高揚させ、心を喜びで
満たすなにもかもが、あなたの人生を生きる価値のあるものにしているなにもかも
が……偽りであり、堕落であり、無意味であるという可能性に面とむかう気がまえ
がありさえすれば──あなたは決して、その奴隷になることはない!》(445頁)その四。丸谷才一は「イギリス書評の藝と風格について」(『ロンドンで本を読
む』,マガジンハウス)で、優れた書評は流暢で優雅で個性のある文体をもって紹
介と評価の機能を果たすことに加え、より高次の機能をもたなけれなならぬという。
「対象である新刊本をきつかけにして見識と趣味を披露し、知性を刺戟し、あはよ
くば生きる力を更新すること」、つまり批評性である。(『マンガ脳科学入門』は
とてもよく出来た啓蒙書だったと思うけれど、私はここで書評をしているわけでは
ないから、これでいいのだ。)●255●二木麻里・中山元『書くためのデジタル技法』(ちくま新書:2001.11)
インターネットを始めて一年ほど経った1996年、中山さんの『フーコー入門』と
アリアドネ名義で二木さんが書いた『調査のためのインターネット』(いずれもち
くま新書)を読んで、私のデジタル生活、やや古い表現だと電脳生活はラディカル
に更新された。その二人が連名で書いた本書は、いったいどういう読者像を想定しているのかち
ょっと掴みきれないところがあったけれど、そこがかえって面白く感じられたし、
思考、表現、編集に至る一貫した道具としてのコンピュータをめぐる純粋技術論(
第2章)と、「メディアと身体」というテーマのもと展開される巨大なオンライン
・デジタル情報をめぐる検索論(第1章)や思考と執筆と発表の技法論(第3章)
との奇妙なアンバランスが、「たとえばウィトゲンシュタインを「うし」という略
語で登録すると、牛と書きたくてもウィトゲンシュタインに化けてしまったりする。
万一この変換ミスに気づかないと、それこそ牧場のルポのなかにとつぜん哲学者が
草をはんで登場することになる。工夫して登録しよう」といった大真面目なジョー
クの可笑しさを交えながら、いまこの時点でしか書けない臨場感をもって「生まれ
つつある何か」の輪郭を示唆している。キーワードは「検索」と「データベース」だ。これらの神秘的術語系(mystische
Terminologie)が解明され、魔術的観念論(ノヴァーリス)もしくはアルス・コン
ビナトリアの秘法が啓示されたとき、はたして考えているのは誰なのか、いったい
誰が書いていることになるのか。──中尾浩他『マッキントッシュによる人文系論文作法』(夏目書房:1995)で
それと知られずに告知された世界の可能性が、本書で一つ次のステップへ到達した。
PC倶楽部編『インターネット 読む・学ぶ・調べる 文学─歴史─思想─芸術』
(毎日ムック,2001年3月)ともども、人文系の思考と表現に関心を寄せる者の必
需品。●256●木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた──方程式四千年の歴史』
(講談社選書メチエ:2001.11)数式や記号やグラフや図形が出てこない数学の本は、ラテン語原文が出てこない
ラテン語教則本のようなものだ。著者が言うように「人間は言葉や記号を使って数学を考えている」のであって「
数学において言葉や記号は本質的」だと私も思う。要はそこにリアリティを感じる
かどうかだ。最近、独習本の名作『オイラーの贈物』が文庫本になったが、あの本
の正しさは紙数と手間を惜しまず数式を多用していることにある。(もちろんこれ
は原則である。例外があるから敢えて原則としてなどと断るのだ。例外がないので
あれば普遍的法則、道理とでも言えばよい。でも、数式や記号やグラフや図形をい
っさい使わずに数学的現象を読者に理解させる本がほんとうにあるのだろうか。)古代幾何学をほぼ極限まで突き詰めたギリシャ数学にも盲点があった。ギリシャ
では「数」の概念と「長さ」の概念が別物だと思われていたのだ(第一章「古代の
方程式」)。幾何学ではなく代数を基礎におくことで、個数と連続的な量の二つの
数が実は同じものだという視点が生まれる。こうしてヴィエト、デカルトを通じて
数と長さの完全統一が達成される(第二章「伊・仏・英「三国志」」)。解と係数の関係、すなわち対称性(方程式の係数は解の基本対称式である)の視
点から方程式の解の公式を見つめ直したラグランジュは「目に見える美しさよりも、
抽象的論理的な美しさを発見する才能にずば抜けていた」(第三章「ニュートンと
ラグランジュと対称性」)。そして抽象現代数学への道を拓いた二人の天才、アー
ベルとガロアの数学と生涯(と死)に捧げられたオマージュ(第四章「一九世紀の
伝説的天才」)。方程式は非人間的であり、どこか機械的なものを思わせる。これが、方程式四千
年の歴史を練習問題付の本書で鑑賞した私の印象。それもそのはずで、方程式四千
年の歴史とは、というよりそもそも数学現象とこれをめぐる人間の探求の歴史は知
性を含む生物の進化のプロセスを縮約的に表現したもの、あるいは進化のプロセス
そのものの表現にほかならないからだ。(たとえばスピノザが幾何学の方法で『エチカ』を叙述したのは、そこで遂行され
た証明がもはや人間業ではないからである。というより、スピノザはスピノザの時
代を生きた人々への説得などとうに断念している。未来の人間へ向けた証明。それ
はもはや「人間」という生物種には属していないかもしれない。)著者は「あとがき」で次のように書いている。(新しい数学は、たとえば七次方
程式の研究から生まれるのだろうか。)《論理は人の反論を封じ込める術としては優れたものであるが、人を納得させる力
は乏しい。数学者ですら(あるいは数学者だからこそ)数学を論理だけで追ってい
るわけではない。数学者はあらゆる不合理な手を尽くして数学現象を理解し、それ
を論理的に表現する技法を身につけているのだ。数学が論理で表現できるというな
ら、論理を離れて数学現象そのものを直接言語で表現できないものだろうか? も
ちろん数学は言葉で行うものであるから、これは新しい数学を生み出せ、と要求し
ているわけだ。ヴィエトがギリシア数学に対して成し遂げたことを、現代数学に対
して行え、現代数学の王道を建設せよ!》〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
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