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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.81 (2001/11/18)
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 □ 村上龍『eメールの達人になる』
 □ 村上龍『おじいさんは山へ金儲けに』
 □ 村上龍『奇跡的なカタルシス』
 □ 田中宇『タリバン』
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●245●村上龍『eメールの達人になる』(集英社新書:2001.11)

 タイトルと著者名のミスマッチに惹かれて、書店で思わず立ち竦んでしまった。
「最も新しいコミュニケーション論」(カバー裏にそう書いてある)などと深読み
せずとも、純粋な技術論として、「工学的」文章術の本として、そして何より豊富
に収録された実例が結構楽しめる。

 たとえば中田英寿へのメールで「>新しいマックの調子はどうですか?」に「ロ
ナウドみたいな速さ。ジダンみたいな速さじゃなくて」云々と答えたことをめぐっ
て、「PowerBookG3のことを書くときにも、サッカー選手の例を出して説明して
いる」「サッカーファンにとって、中田とのサッカーの話は、メールでも、会って
話すときも、それぞれ至福の時間だ」と自作解説している。妙におかしくて楽しい。

 技術論についても、メールの文章は簡潔が基本だが、相手に何かを依頼するとき
「〜してください」と書くと図々しくて不快感を与える場合があるので、「〜して
いただけると助かります」と自分の利益をオープンにすることで誠実・率直・正直
を演出するのがベターだ、「〜してくれるとうれしいです」と書くとさらに可愛く
なると書いてあって、これも楽しめた。

 この「うれしいです」という純朴で舌足らずの感じがして好感度を上げる言い方
や「〜だと思うのですが」のようなあえて自信なさそうに表現する接続助詞止めを
めぐって、「相手の余計な反感を買わないようにしなければならない言語というの
はいったい何なのだろう」と思いながらも、「日本語を改造するためにメールを使
うわけではない」のだし「効率的なコミュニケーションの「道具」としてメールが
あり、使用するのは日本語なのだから、日本語の持つ歴史的な制約に影響を受ける
のは当然のことで、そのことに抵抗してもしょうがないのである」と割り切る。

 このあたりのことは、「メールは異なる意見の交換や議論には向かない」といっ
た洞察と組み合わせて深読みすれば、それはそれでちょっとした文化論のようなも
のにまとめることができるだろうし、さらに「言葉とその組み合わせが、脳のハー
ドディスクから瞬時にして浮かび上がってきた…20代のメモリが充実していたころ
のわたしの脳は、おそらく文字変換を嫌がっただろう。憑かれたように、洪水のよ
うなイメージを駆使していたころは、手書きのほうがよかったわけだ」といった省
察との合わせ技で村上龍論のヒントが得られそうだが、そんな小知恵を働かせず、
ここは哄笑して楽しめばいい。

 ユーモアとはこういう事態を言うのだろうと思う。文章工学といった言い方とは
違う意味での工学的文章術、あるいは工学的ユーモア。(そういえば、文字変換に
伴うおかしさは日本語に特有の現象だ。)

●246●村上龍/はまのゆか『おじいさんは山へ金儲けに
            時として、投資は希望を生む』(NHK出版:2001.8)

 村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』に収められた「蜂蜜パイ」は、生まれ
ながらの短編作家である主人公が「これまでとは違う小説」を書こうと決意すると
ころで終わっていた。主人公がめざすことになる長編小説はたぶん新しい家族小説
だろうと私は思った。

 村上龍は『最後の家族』を書き上げた。これはリアリズムの手法で書かれた寓話
で、しかもこれまで誰も書いたことがなかった経済小説だ。さてもう一人の村上は
どのような家族小説を披露してくれるのだろうか。

 ここで「蜂蜜パイ」を持ち出したのには訳がある。それは二人の村上の作品の系
譜にうかがえる平行関係を指摘するためではなくて、「蜂蜜パイ」に出てくる本物
の寓話(熊のまさきちと親友とんきちの蜂蜜と鮭の交換の物語)を思い出したから
だ。

 村上龍がこれに「対抗」して本書を書いたとは言わないし思いもしないが、ここ
に収められた十一の寓話は寓話としての出来が悪い。出来は悪いが、村上春樹の寓
話にはない荒々しさがあって面白い。たとえば「鶴の恩返し」で、ツウとの悲恋を
嘆き離別に打ちひしがれた若者に浴びせる「偉い人」の言葉。

《それは違うぞ。おまえに、高い技術や、深い知識がなかった、というだけのこと
だ。おまえは無知で、貧しかった。それだけだ。理解できなかったとか、幸せにし
たかったとか、そんなことは、何の関係もない。幸せにしたいという気持ちだけで、
ほかの人を幸せにできる時代は、とっくに終わってるんだ》。

●247●村上龍『奇跡的なカタルシス フィジカル・インテンシティU』
                   (光文社知恵の森文庫:2000.10/1999)

 もうかなり昔の話になるが、講談社文庫の全エッセイ集三冊に読み耽ったことが
ある。何か言葉にし難いけれど確かな事柄が語られているという手応え、実質感、
言語的濃度=強度(インテンシティ)が臨場感をもって感じられて、それこそ貪る
ように飢餓感が癒されるまでひたすら読み続けた。

 それを「情報」と言うのだろう。「フィジカル・インテンシティ」シリーズにも
それがある。──本書の随所に象嵌された珠玉の言葉をいくつか。

《現地のスタジアムにいると、そういう歴史[百年以上の欧州サッカーの歴史]が、
サポーターの声援とともにからだに浸み込んでくるような気がする。強烈な一体感
がある。見方のゴールが決まると、地響きをたてて発煙筒が燃え、スタジアムには
爆発的な歓喜が充満する。現実のまっただ中にいるという強烈な実感。自分は世界
から切り離されていないのだと思うことができる。世界や現実や歴史と身体的に接
触するのは快感なのだ。》(「歴史」と身体的に接触する快感)

《サッカーの快楽は、選手の意志がプレーとして表れ、ときにそれが実現すること
にある。サッカーの攻撃は、圧倒的優勢を誇る敵陣に対して少人数のゲリラが仕掛
ける周到で大胆な奇襲のようなものだ。運や偶然や敵のミスに頼ってはいけない。
ベースとなるプランと、臨機応変な柔軟さと想像力が求められる。意志に基づいた
プランと技術に支えられた想像力がプレーとして実現する瞬間が見たくてファンは
スタジアムに足を運んでいる。》(「集団病」から自由な中田)

《サッカーのカタルシスは爆発的でそれがゴールという奇跡によって成立すること
を考えると宗教的ですらある。サッカーより刺激的な人生を送るのはそう簡単では
ないような気がする。》(あとがき)

●248●田中宇『タリバン』(光文社新書:2001.10)

 田中宇の文章はとてもいい。文学や思想、ノンフィクションや学術論文ではない、
紛れもないジャーナリズムの文体が紙面に緊張を張りめぐらせ、行間もしくは紙背
の志が滲み出ている。歴史と出来事と人々によって糾われる現実を、感情移入や抽
象を排した冷徹といえばいえる抑制された文章でもってアクチュアルに立ち上げて
いく。

 正義面のジャーナリストの毒素はセンセーショナリズムを煽るマス・メディアと
同列である。「フリーの国際情勢解説者」(ホームページにそう書いてあった)田
中宇の私情を押さえた文章は、議論ではなく解説、事実と論点の提示に徹していて、
ある種の清々しさすら漂っている。

《パキスタンはイギリスの植民地だったし、日本はアメリカに無条件降伏した歴史
を持っている。このように負けた歴史を持っている民族は、歪んだキャラクターを
持たざるを得ないのではないか。イギリスやソ連に侵略され、無数の死者や難民を
出しつつも、民族として負けたことがないために、アフガニスタン人やチェチェン
人は古き良き純粋な人々でいられるのかもしれない。》(第3章「サムライの国・
アフガニスタン」,95頁)

《しかしこれは、ベトナム戦争のときにアメリカが「南ベトナム政府」を支援した
のと同じで、冷戦時代の汚い代理戦争の繰り返しにすぎない。オサマ・ビンラディ
ンもアメリカも、アフガン人にとっては「祖国を食いものにする人々」という点で
同列だ。アフガニスタンの人々は、ビンラディン対アメリカという「グローバリゼ
ーション」どうしの戦いに巻き込まれている。》(あとがき,214頁)

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