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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.80 (2001/11/11)
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 □ 田口ランディ『根をもつこと、翼をもつこと』
 □ 山本芳幸『カブール・ノート 戦争しか知らない子どもたち』
 □ 今福龍太『荒野のロマネスク』
 □ 内田樹『ためらいの倫理学』
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読み始めたら途中で止めることができなくなって、最後までひたすら読み続けるし
かなくなる文章があります。そんな文章が収められた四冊の本とたてつづけに出逢
って、少し気持ちが高揚しています。──魂をゆさぶられる感動。現場に身を置き
他者と対峙する真摯で強靱な内省。冷徹かつ慈愛に満ちた思考の質。
 

●241●田口ランディ『根をもつこと、翼をもつこと』(晶文社:2001.11)

 田口ランディは空虚な器である。共鳴する器である。共鳴しシンクロする対象は
多くは人間だが、時には場所や物、屋久島の木や森、動物や植物である。

 田口ランディは船大工である。言葉は魂を運ぶ船であり、しかも誰か他人の魂を
運ぶ言葉である。感じたことを言葉にすると、そこに思いもよらなかった表現が立
ち現れ、それが言葉の船に乗って流れていく、「感動」を乗せて。

《私は書きながら、毎日、自問自答している。/今日、私は本当に自分が伝えたい
ことを書いたか、恨みや嫉みの気持ちを言葉に乗せなかったか。純粋に自分のため
だけに書いたか。誰かをおとしめるような文章を書かなかったか。言葉を武器にし
ようとしなかったか。誰かを言葉で傷つけようとしなかったか。自分の自意識のた
めに言葉を利用しなかったか。》(「言葉の船を流す」)

 ──田口ランディは類い希な聴き手なのだ。ネット上に綴られた言葉から声が立
ち上がる。この奇跡的な瞬間を私は何度も経験した。書物という形態において声は
複数性・多声性を高め、空虚な器=書物は複数の魂で充填される。

《失われた過去の悲惨をイメージすることは難しい。そして、悲しみの先にある愛
に満ちた未来をイメージすることは、もっと難しい。/でも、人間には想像力があ
る。まぎれもなくある。/それはたぶん、魂の翼だ。》(「イメージの力」)

●242●山本芳幸『カブール・ノート 戦争しか知らない子どもたち』
                            (幻冬舎:2001.11)

 現場に居合わせないと語れない事実がある。現場にいては見えない論理がある。
事実を蹂躙する論理は妄想の翼を消耗させ、論理から遊離した事実は根絶やしにさ
れ忘却の闇に沈む。

 日本にいて著者は「現実遊離感」を悪化させ、「リアリティの欠如」に追い立て
られたという。それは非自由・非平等・非博愛の日本社会の因習のためであると同
時に、現場に居合わせない者が紡ぎ出す出来合の物語と現場を垣間見た者が性急に
語る粗雑な論理、つまりメディアと政治における想像力と言語の貧困がもたらした
ものだった。

《おそらく僕は、膨大な言語情報(正確には言語というより、音の羅列でしかない
情報なのだが)を「知っている」と思っている。しかし、それらを触ったことも食
べたこともない。より根本的には考えたこともない。僕はこれまでほとんどすべて
の情報をその実際と関連づけることができなかったのではないだろうか。》(フラ
ッシュバック「分断された音の記憶」)

 私は『カブール・ノート』を書くことによって、日本で壊れた精神の瓦解を拾い
つづけていたのかもしれない。──著者はあとがきでそのように書いている。人は
結局、自分のことしか書けない。だから、人の魂を撃つ。現場で遭遇する事実と現
場を離れてこそ培える論理を融合する希有な精神の質をもった山本芳幸によるリア
リティの探求の記録。

《しかし、僕は必ずしも悲観していない。混沌のフラッシュバックに付き合い、時
には「記録」に戻り、時には他者に遭遇し、絶対的拒絶と権力的回収に抗ううちに、
既存の座標のどれかを選択するというよりも、日本人だけに特権的に用意されてい
る座標が存在し、それを日本人が発見できないにすぎない、と思うようになったか
らだ。どこにも居場所がないのではない。それはある。どの民族もかつてその座標
を占めたことがない。そのために、それは不可視であり、かつ、その発見は唯一日
本人にしかできない。その時初めて、その座標は可視化されるだろう。》(フラッ
シュバック「観察と力」)

●243●今福龍太『荒野のロマネスク』(岩波現代文庫:2001.8/1989)

 荒野とは現代の物質文明とテクノロジーが切り開いた新しいフィールドである。
そこにはたえず移ろい移動し変容する運動性と混血の種が発生するエスノジェネシ
スの胎動がある。それは「アルトー的身体」(器官なき身体、リゾーム的身体、動
物的身体)が立ち現れる層、「音と言語と身体の領域が奇跡のようにして一つの律
動的感覚の連続体へと変化する」場、「音楽と言葉がある種の連続性を持った音響
的実体であること」を気づかせる未知のテリトリーへと通じている。

 ロマネスクとはこうした荒野の新しい時間と空間を旅=移動する身体によって押
し出される新しい言葉、詩と直覚とイマジネーションに満ちたアレゴリカルな「非
‐小説」としてのエスノグラフィーの断片である。それは物語の内容と叙述と語り
の三者が奇跡的な直接性によって結ばれるアナクロニー(時間変差)のゼロ度を達
成し、純粋な肯定だけでできているインディオの言葉がもつ「世界が創りあげられ
るときの流動的であまねき力の所在を伝える能力」へと接続される。

 岩波現代文庫に寄せられた著者自身の解説がすべてを語り尽くしている。

《本書はあえていえば、学問による歴史の収奪を脱して、思想の方法論的な「無時
間」を指向した書物であるともいえる。そしてこの場合の無時間とはいうまでもな
く、「歴史」の不在のことではなく、学問が対象化してきた歴史の時間性のなかで
廃墟としてうち捨てられていった声や身体の瓦礫のなかから、あらたな「歴史」の
空間と時間とを発見しようとするときの精神のある位相のことであった。》

●244●内田樹『ためらいの倫理学──戦争・性・物語』(冬弓舎:2001.3)

 折に触れ思い出し間歇的に反芻するほど慣れ親しんでいるのだが、ふだん殊更あ
らためて意識し突き詰めて考えることもなくやり過ごしている漠然とした感じ。異
和(いやな感じ)であれ親和であれそうした曖昧かつ朦朧たる思想の種のようなも
のの実質を鋭く問い、十全・柔軟に展開し、明晰・精緻に言語化した文章にめぐり
逢うことは本読みに時たま訪れる奇跡である。内田樹のエッセイ群はまさにそのよ
うな至福の時を与えてくれた。それは私自身の思考の質を発見することでもあった。

 倫理とは曖昧に耐え二律を生きることである。若くして(?)私はそのように喝
破した。決断主義的に旗幟を鮮明にし立場に拘泥する(拘束される)くらいなら、
優柔不断の誹りを甘んじて受けよう。それは超越論的と呼ぶべき態度だったのかも
しれない。フロイトに関して内田が語る言葉を使うなら、それが事実であれ幻想で
あれ「経験が「事実」として生きられているということの重要性を、客観的な事実
性とは「別の次元」で認知しようと」(36頁)する態度。あるいは語りの内容より
語り方そのものを問う態度。

 それをユーモアと呼んでもいい。実際、内田の文章には上質のユーモアの薫りが
縫い込められている。ユーモアとは「「自分は間違っているかも知れない」と考え
ることができる知性」(111頁)が醸し出すものの別名だ。

 倫理とは知性である。もはや若くない私は、本書を読み終えてそのように考えて
いる。知性は「酸欠」や「泥酔」によって「蒙昧」に陥る(110頁)。知性は身体
と不即不離である。そもそも「ふだん殊更あらためて意識し突き詰めて考えること
もなくやり過ごしている漠然とした感じ」こそ身体がもたらす経験であった。

 内田樹のエッセイは身体=知性が紡ぎだした物語である。そのことに私の眠れる
身体=知性が感応したのである。

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