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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.8 (2000/10/10)
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自分で割り当てた一月の小遣いのうち、大口消費先はタバコと本でほぼ互角。ほん
のわずかの残りを飲み代や電話代その他諸々にあてていて、だからほとんど毎月赤
字の状態。それやこれやで、図書館で毎週七冊の本を借りてきます。二週間まで借
りられるのですが、ほぼ毎週出かけて、その週に目を通せなかった本はそのまま返
却してしまいます。後になってあの本をと思っても、それはたいがい貸出中で(マ
ーフィーの法則。もはや旧聞)、結局買いに走るか古本屋めぐり、最後の手段はネ
ットで購入、届いた頃には関心がよそへ移ってしまう、といったことを繰り返して
きました。

いま手元にある七冊をメモしておきます。記録したからどうだと言われても困って
しまうのですが、せいぜい「あの頃私はこんな事柄に関心を寄せていた」ことの備
忘録。これから順番に読んでいくつもりですが、さてどうなることか。(と、今回
は個人的なつぶやきに終始してしまった。)

☆鷲田清一『「聴く」ことの力──臨床哲学試論』(TBSブリタニカ:1999.7)
☆養老孟司『臨床哲学』(哲学書房:1997.4)
☆山内志朗『普遍論争』(哲学書房:1992.11)
☆スピノザ『デカルトの哲学原理』(畠中尚志訳,岩波文庫:1959.5)
☆中井久夫編訳『エランベルジェ著作集3』(みすず書房:2000.1)
☆中村雄二郎/木村敏監修『講座 生命 '96』(哲学書房:1996.9)
☆エリック・スティーブン・レイモンド『伽藍とバザール』
                       (山形浩生訳,光芒社:1999.3)
 

●13●鷲田清一『「聴く」ことの力──臨床哲学試論』(TBSブリタニカ:1999.7)

 随所に挿入された植田正治の写真が実に素晴らしい。これらの写真がたとえ本文
と無関係に配列されているのだとしても、読み手はそこに文脈上の関係を探り、本
文とのシンクロを感じてしまうのであって、これは読者の「勝手」に委ねられた愉
しみだ。著者はあとがきで「執筆の過程で言葉を書き継げぬこともしばしばあった
が、そのとき、植田さんのあの写真の横に文章を添えたいという一心でかろうじて
言葉を絞りだしえたことが何度かある」と書いている。私はそこに、第一章で紹介
されている詩人谷川雁氏の「この世界と数行のことばとが天秤にかけられてゆらゆ
らする可能性」云々ということばとの響き合いを感じた。文章もいい。「《知識》
(グノーシス、knowledge)ではなく《智恵》(ソフィア、wisdom)の粋とされる
哲学的な知こそ、経験をくりかえし折り重ねるところではじめて、織り目のように
浮かび上がってくるものであって、そういう時間の澱[おり]をたっぷり含み込ん
だ哲学のことばは、それを哲学研究者がもっとも正しく語るのかといえば、そうで
はあるまい。」(18頁)など、著者は言葉で遊んでいて、その思索の息遣いが聞
こえてくる。(読書もまた臨床の一場面?)

 鷲田氏の思考のエッセンスは、たとえば「歴史的に局所づけられた場所で、時代
が突きつけている問題を考えることで、結果として逆に、時代や場所を超えた普遍
的な視界が開かれるという点に、哲学的思考の逆説的ともいえるありようがよく示
されているとおもう。」(52頁)といった文章に濃縮されている。それはまた、「
だれかに触れられていること、だれかに見つめられていること、だれかからことば
を向けられていること、これらのまぎれもなく現実的なものの体験のなかで、その
他者のはたらきかけの対象として自己を感受するなかではじめて、いいかえると「
他者の他者」としてじぶんを体験するなかではじめて、その存在をあたえられるよ
うな次元というものが、〈わたし〉にはある。」(129-30頁)という規定へ通じて
いくのであって、ここに述べられた「現実的なものの体験」の場が、著者のいう「
臨床」だ。──臨床とは、「ひとが特定のだれかとして他のだれかに遭う場面」で
あり、「ある他者の前に身を置くことによって、そのホスピタブルな関係のなかで
じぶん自身もまた変えられるような経験の場面」であり、そして「他人の苦しみに
苦しむという感受性が、深いディスコミュニケーションのなかで交通(通じあい)
が生まれるその瞬間への「祈り」というかたちをとって成就している」接触の場面
でもある。《主張するのではなく〈聴く〉ということ、普遍化が不可能であるとい
うこと、そして最後に〈臨床〉が「哲学する」者として臨床の場面にのぞむ者の経
験の変容を引き起こすひとつの出来事であるということ、その意味で〈臨床〉が時
間のなかにあるということ、この三重の意味において、《臨床哲学》は非‐哲学的
であろうとする。》(108頁)

 豊富な文献からの当意即妙の引用術といい、触発されるところの多い書物なのだ
が、途中で一種の息詰まりを感じた。顔、皮膚、身体、声、名、等々の語彙群、そ
して濃密な関係をめぐる人間学的(?)考察に息詰まる思いがしたのだ。ここで論
じられている死や歴史はつねに人間の死であり歴史なのだから、それは当然のこと
なのかもしれないし、もしかしたら小泉義之氏が『ドゥルーズの哲学』(講談社現
代新書)で展開していた議論(現代思想が「私」の同一性を保証するものとして導
入する「思考不可能で表象不可能な外部の他者」への批判)をオーバーラップさせ
ていたのかもしれない。《…現代思想は、同一性から出発して他者論に到達した。
そして、他者性は同一性とは違うので、アイデンティティ・ゲームを突破した気持
ちになれたし、他者性を礼拝しておけば、アイデンティティの政治を批判できる気
持ちになれたのである。しかしこれでは、過去と未来の得体の知れぬ壁に挟まれて、
「私」に閉塞するばかりである。外部の他者性は否定的に語られるばかりで、「私」
は否定性の氾濫に溺れてしまう。こうして現代思想は、私が生物であり他人も生物
であるという平明な現実を取り逃がしてしまう。そして結局は、私と他者の差異、
「私」と他人の差異を認識し損なうのだ。》
 鷲田氏の議論はこれとは違うように思う。そのことは、たとえば次の文章で確認
できる。《受動や受容ということばがもつポジティヴな力、それをわたしもまた人
間という存在にとって本質的な力であると考え、それをこれまで〈聴くことの力〉
として検証しようとしてきたのであった。そこにはじつはもうひとつの、別のモテ
ィーフもあった。〈聴く〉ことを哲学するのではなくて、〈聴く〉ことがそのまま
哲学の実践となるような哲学を構想することであった。哲学を〈反省〉(=モノロ
ーグ)の学として定礎するのではなく、言ってみれば伴走者としてのいとなみ、あ
るいはじぶんというものを中心に置かない思考とでも言ってみたい気がする。》
(235頁)──臨床哲学はケアする人のケアというスタンスで「現場」にかかわっ
ていく、と著者は繰り返し述べている。

 補遺。いま西田幾多郎の『善の研究』を読んでいて、その第二編「実在」の第二
章に次の文章が出てくる。上に記した事柄とどう接続すればいいのかはよく解らな
いけれど、気になったので抜き書きしておく。《しかし意識は必ず誰かの意識でな
ければならぬというのは、単に意識には必ず統一がなければならぬというの意にす
ぎない。もしこれ以上に所有者がなければならぬとの考えならば、そは明らかに独
断である。しかるにこの統一作用すなわち統覚というのは、類似せる観念感情が中
枢となって意識を統一するというまでであって、この意識統一の範囲なるものが、
純粋経験の立場よりみて、彼我の間に絶対的分別をなすことはできぬ。もし個人的
意識において、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、その同一系
統に属するのゆえをもって一つの意識と考えることができるならば、自他の意識の
間にも同一の関係を見いだすことができるであろう。》

●14●鷲田清一『顔の現象学』(講談社学術文庫:原著1995)

 よくできたカタログ、いや「顔」をめぐる論点と着眼点が網羅されたエンサイク
ロペディアで、現象学という「持ち味」が存分に生かされた楽しめてとても「役に
立つ」すぐれた読みもの。ここでは最低限、私が印象深く読み、個人的な関心をそ
そられた箇所についてのみ記録しておく。──この書物で浮き立たせようとしたの
は「壊れやすい〈顔〉」(あるいは「傷としての〈顔〉」)であり「その造作を読
まれたり分析されたりするのではない切迫や呼びかけとしての〈顔〉」である、と
鷲田氏は「学術文庫版まえがき」で書いている。それは他人の「プレゼンス」、だ
れかがそばに「いてくれること」(中井久夫著『1995年1月・神戸』──この箇所
は『「聴く」ことの力』でも引用されていた)として定義される顔であり、レヴィ
ナスがいう「他者の顔」のことだ。鷲田氏はまず「自分の顔が見えない、自分の顔
面が視覚的に遮られている、というとてもプリミティヴな事実」すなわち「〈顔〉
はつねにだれかの顔である」ことから出発し、「読まれたり分析されたり」する顔
──こちら側や向こう側、背後や内部とのトポロジカルな関係においてとらえられ
た公共的な意味としての顔、いいかえれば記号、あるいは鏡、あるいは面=像とし
ての顔──について縦横に論じたあと、「根源的な現象」「意味の外へと逸脱して
ゆく存在の表面」あるいは「意味と非意味との境界」としての顔へと考察を進めて
いく。この前半の叙述のなかにも切れ味のいい刺激的な断言──「顔は地上に存在
する人間の数よりも多い。」「…〈わたし〉の存在もまた、共同性がみずからを折
りたたみ、褶曲させるときのその一つの襞としてとらえられねばならない…」「…
身体の表皮は、欲望の力線が交錯しあうそういう力動的な場としての身体を、仮構
された可視的表面へと移行させるなかではじめて、内部と外部、あるいは自己に属
するものと他者に属するものとの境界面として出現することになる。」「人称の外
部とは…無名、失名、没名といった、いわば匿名的な位相にある存在のことである。
わたしのなかにあってわたしではないもの、わたしの存在よりももっと古い存在、
あるいは、わたしがそうありえたかもしれないもの。」等々──がいっぱい出てく
るし、いくつかの刺激的な議論が展開されている。(以下、ミシェル・セールの『
五感』やジャン=ルイ・ベドゥアンの『仮面の民俗学』に準拠した論考が続くのだ
が、割愛。)

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