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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.79 (2001/11/04)
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 □ 関川夏央『本よみの虫干し』
 □ 池澤夏樹『むくどり通信』
 □ 鹿島茂『セーラー服とエッフェル塔』
 □ 田口ランディ『昨晩お会いしましょう』
 □ 吉本ばなな『体は全部知っている』
 □ 川上弘美『いとしい』
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新潮社のPR誌『波』(2001年11月)に、柴田元幸さんの「さりげない異化」が掲
載されています。近く刊行される川上弘美さんのエッセイ集『ゆっくりさよならを
となえる』をめぐるもので、この文章のなかで柴田氏は次のような「リクツ」をこ
ねていました。

《…川上文学の大きな魅力が「異界」へのゆるやかな移行にあることは確かである
が、一見「異界」の対極と思える「日常」もやはり微妙に異化されていて、結局は
〈日常/異界〉という二分法が無効になるような世界がそこにはあるのだ。》

川上弘美さんには少し前から関心が高まっていて、『センセイの鞄』を書店で見か
けたときにはほとんど入手する寸前までいったのに、いつかそのうちと思っている
まに評判が高くなって、曲軒の虫が災いしていまだに未読。

もう二十年くらい前のこと、開高健にどっぷりとつかっていたことがありました。
日常の混濁と怠惰を断ち切ってくれる新たな「文章」を求めて、このところ、気に
なる書き手のエッセイや短い小説を読み漁っています。
 

●235●関川夏央『本よみの虫干し──日本の近代文学再読』(岩波新書:2001.10)

 関川夏央を読むとなぜか故開高健(1989年没)を思い出す。本書に収められた「
ただ家にいたくなかった作家」で、関川夏央は『輝ける闇』を「死と食物が並列さ
れ、叫びと響きに満ちているようでいて静謐な小説」と評している。『輝ける闇』
の開高健は『麦と兵隊』の火野葦平と『てんやわんや』の獅子文六と一緒に「自分
の戦争、他人の戦争」の章で取り上げられていて、その扉に関川夏央は次のオマー
ジュを捧げている。

《戦争小説は、前線を描いたものでなくとも、その人、その文化の本質をあらわに
する。/広大な中国という存在そのものに圧倒された経験を火野葦平は書き、獅子
文六はむしろ戦後の平和の中に戦争を描いた。開高健は、他人の戦争が突然自分の
戦争になりかわる瞬間の恐怖を書いた。それらはいずれも戦争と歴史の本質にかか
わるものであったから、一時は広く読まれても、永く読みつがれることはなかった。
人は本質に直面するとたじろくのである。》

 関川夏央の文章は、たとえば死後発表された開高健の次の一文と響き合っている。
《川は土を養い、草を育て、木をはぐくむ。その木は風に倒れて腐って土を養い、
キノコを育て、虫を集め、その虫を食べる鳥やネズミをふやして、森を看護する。
一切が連関しあい、もつれあい、からみあい、生は循環しあって、増もないが、減
もない。質と量は恒存する。形が変わるだけである。それがまざまざと肉眼で見え
る。輪廻は肉視できる。》(『珠玉』,本書203頁に引用)

 文学はもはや教養や鑑賞の対象ではない。文学は個人的表現であると同時に時代
精神の誠実な証言であり必死の記憶なのであって、つまり史料であり歴史である(
まえがき)。本書で「虫干し」されるのは怠惰な文学的感性であり、再読されるの
は肉視される歴史である。(取り上げられた59編の「史料」のうち30編が未読。未
読本のうち吉川英治の『宮本武蔵』を「再読」することにした。)

●236●池澤夏樹『むくどり通信』(朝日新聞社:1994.5)

 池澤夏樹さんが最近始めたメールマガジン(新世紀へようこそ)のことが新聞で
紹介されていて、ためしに購読することにしたのだが、考えてみるとこの人の文章
はこれまでほとんど読んだことがなかった。遅ればせながら手にとった本書に収め
られた50本のエッセーは1993年の1月から12月まで『週刊朝日』に連載されたもの
で、弛緩も韜晦も嫌みもなく、文章家としての確固たる視点と格調を湛えたユーモ
アが漂う気持ちのいい文章だった。(癖になるかもしれない。)

《…ぼくは日本文学史の重大な謎を解明する鍵を手に入れた。すなわち、日記文学
と独身者の関係。近代で最も有名な日記はもちろん永井荷風の『断腸亭日乗』であ
る。なぜ彼はあんなに克明に日々の記録をつけたのか。あれは家族というものがあ
れば話して忘れてしまうはずの内容ではなかったか。一人だからこそ、彼はそれを
話す代わりに書いた。樋口一葉も立派な日記を残しているが、彼女も独身だった。
平安朝の女房文学としての日記は、通い婚という、ほとんど独身に近い寂しい結婚
生活が生んだものだ。海外でも、長大な日記で有名なアナイス・ニンに夫がいたと
は聞いていない。》(98頁)

 あとがきで著者は週刊誌の連載エッセーを三つの型に分類している。第一はある
分野についての報告を重ねてゆくもので、東海林さだお「あれも食いたいこれも食
いたい」が典型。第二は天下国家についての意見を開陳するもので、野坂昭如「も
ういくつねると」が典型。第三は生活報告型で、例は挙げられていないが椎名誠の
「赤マント」などが典型なのだろう(村上春樹の週刊誌連載エッセイもこの型に属
するのかもしれないが、紀行文以外の村上春樹のエッセイはどうも好きになれない
のでここでは除外)。

 「むくどり通信」はこのどれにも徹しない。椋鳥は江戸時代の俗語でお上りさん
の意味だという。好奇心の強さを原理として、むくどりはいまも飛び続けているわ
けだ。

●237●鹿島茂『セーラー服とエッフェル塔』(文藝春秋:2000.10)

 日本のSMで亀甲縛りという複雑で過剰な縛り方が生まれたのはなぜか(SMと
米俵)、イソップ寓話の「キリギリスとアリ」がどうしてラ・フォンテーヌの寓話
では「セミとアリ」になったのか(セミとキリギリス)、女性の乳房がいつも膨ら
んでいるのはなぜか(愛とはオッパイである)、なぜセーラー服が女学生の服装と
なり男たちのエロチックな夢想を誘ってきたのか(セーラー服の神話)、ポルノ小
説の発生と黙読の秘められた関係(黙読とポルノ)等々、好奇心と懐疑精神と「仮
説癖」の赴くまま鹿島茂が縦横に才筆をふるったブッキッシュなエッセイ集。

 そのさわりを一つ引用しておこう。骨董品蒐集の趣味と無意識の発見との関係を
めぐるジョン・フォレスターの仮説に触発され、心の動きを株式市場のようなもの
と捉えるフロイトの経済論的観点に関する公式的な説明、すなわち当時の科学的精
神とフロイトの使用した概念がエネルギー論に浸透されていたこと云々に飽き足り
ぬ著者が提示する仮説(フロイトと「見立て」)。

《私は、これとは違った、もっと下世話な仮説を立てたい。それは、フロイトが暮
らしていた世紀末からベル・エポックにかけてのウィーンで、一種の経済的なバブ
ルが発生し、フロイトも父の残した遺産のいくばくかを株式市場に投資してみたこ
とがあるのではないかということである。なぜなら、株の取引というものを実際に
やってみないと、投資方法や資金の動き、さらには仕手株を吊り上げたり、下落さ
せたりする際のフェイントのかけ方などということはなかなか学習できないからだ。
いいかえれば、株式市場には、金銭という「量的エネルギー」の循環と配分があり、
しかも、それは人間の真理、なかんずく、無意識の欲動の動きを如実に反映してい
る。この株式市場で学んだ原理をフロイトは、無意識の欲動エネルギー(リビドー)
の動きに「見立て」、「リビドー経済」という画期的な理論を打ち出したのではな
いだろうか。》(78頁)

●238●田口ランディ『昨晩お会いしましょう』(幻冬舎:2001.10)

 二十歳の誕生日の夜、目隠しされ後ろ手縛りで双子の兄弟と動物のように交わっ
て、不倫相手の「快楽の楽器」であることを止めた写真の専門学校に通うエロトマ
ニアの麻由(「昨晩お会いしましょう」)。

 義父から受けた性的虐待のトラウマと、その義父を想像的に(あるいは現実的に)
殺して埋めた死体の悪夢と交通事故で突然死んだ母親の霊に憑かれ、人恋しさに誰
とでも寝る男運がなくて変態で病気の淳子(「深く冷たい夜」)。

 インターネットの出会い系サイトで知り合った人妻でM女の月子との性的関係を、
亭主との間にできた子供を堕胎できなかったために失い「夕日の返り血を浴びて立
ち尽く」す産婦人科医(「堕天使」)。

 心が離れた恋人に「嫌だ。行かないで。絶対に離さない」とすがりつき「おまえ
なんか嫌いなんだよ、顔もみたくないんだよ。もう二度と俺につきまとうな」と叫
ばれて見物人に「バカみたい」と言われても、傷つけられたらこれみよがしにもっ
と傷ついてみせることでしか生きられない不器用な恵美子(「満月」)。

 取材で出かけた沖縄の島の民宿で雨に閉じ込められているうちしだいに浄化され、
最後の日に訪れた聖地(ウタキ)でユタのアイコさんの祈りの歌を聞いていて「な
にかしらの意味を求めようとしてしまう。そのくせ、自分が自分に与えた意味に絶
対に満足できない。この十五年間、思うように書けなかったのはそのせいだ。私は
意味を求めすぎた。求めるものを間違えてしまった」と気づく四十九歳の作家松原
久美子(「ウタキ夜話」)。

 以上五人の語り手による短編集。──ピンク色の死体(「深く冷たい夜」)と殺
気を感じて子宮の中を動き回る胎児(「堕天使」)。二年ぶりの生理の血とガジュ
マルとの繋がり(「ウタキ夜話」)。ここには作家田口ランディの出自と行方があ
る。

●239●吉本ばなな『体は全部知っている』(文藝春秋:2000.9)

 十三編のショート・ストーリー、というより大きな物語の切れ端、見本、あるい
は種子が、モザイクのように組み合わされて、吉本ばななという原石をカットして
いく。(こんな鮮やかな短編集を読むと、長い小説がなんだか下品で汗くさくて鬱
陶しいものに思えてしまう。)

 体が知っているものは、もちろん感覚であり、喪失や美しいシーンの記憶であり、
幸福の予感なのあって、意味ではない。

《生きていることには本当に意味がたくさんあって、星の数ほど、もうおぼえきれ
ないほどの美しいシーンが私の魂を埋めつくしているのだが、生きていることに意
味をもたせようとするなんて、そんな貧しくてみにくいことは、もう一生よそう、
と思った。》(「おやじの味」)

●240●川上弘美『いとしい』(幻冬舎:1997.10)

 川上弘美の文章はどこか生き物めいていて、何かが煌めいている。

《姉の言うとおりかもしれない、誰かを好きになるということは、誰かを好きにな
ると決めるだけのことなのかもしれない、紅郎が慕わしかった、紅郎が好きだった、
今でも紅郎が好きなのだった、紅郎が好きで嬉しかった、紅郎が好きということが
不思議だった、紅郎はしかしもう私とは無関係のものだった、いつかはよきものに
なれるかもしれないという気分に一瞬なった、一瞬なったが、たぶん嘘で、それも
また何か満ち足りた気分なのだった。》

 生き物めいているのは、マリエにからまったユリエの長い髪とか「意味を生きる
ひとは意味を生きることに終始するのである」と宣う神様とかいまだに死んでいる
ねずみのようなものとかオトヒコから出芽した「新たなもの」とか鈴本鈴郎がミド
リ子にプレゼントした死んだ何十匹もの猫の絵とかデルボーの絵を思わせる森の奥
の停車場で手をつなぎあっているミドリ子と鈴本鈴郎と蒸気機関車とか幽霊になっ
て交わりつづける春画のモデルだったマキさんとアキラさんとか、その他諸々の生
誕と生殖と無限に続く死の形象たちが、ユリエやマリエの母とチダさん、マリエと
紅郎(こうろう)、マリエの姉のユリエとオトヒコ、チダさんとミドリ子、ミドリ
子と鈴本鈴郎、紅郎と妹のミドリ子の恋愛譚をとりまいているからだ。

 煌めいているものを才能と名づけるしか私には能がなくて、それもまた生き物め
いたものである。

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