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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.78 (2001/10/28)
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 □ 小島寛之『サイバー経済学』
 □ 小島寛之『数学迷宮』
 □ 小島寛之『数学幻視行』
 □ 利根川進『私の脳科学講義』
 □ 朝永振一郎『量子力学と私』
 □ R.P.ファインマン『物理法則はいかにして発見されたか』
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高安秀樹・高安美佐子著『経済・情報・生命の臨界ゆらぎ』の序文に、物理学とは
「人間の活動も含めた森羅万象の生成発展」の理を窮める学問であって、物質だけ
を研究する学問ではないと書いてありました。これは、ギリシャ語のピュシスが持
つ意味や、オランダ語の Natuurkunde が蘭学の中で「窮理学」と翻訳されたこと
を踏まえたものです。

新しい物理学(ノヴァーリスがいう「来るべき自然学」「ガイスト的自然学」「高
次の自然学」「メタ自然学」「自然形而上学」)は、宗教と経済と情報と生命と数
学を通底する実在としての物質観、そして確率論的自然観に根ざしたものなのだろ
うと私は考えているのですが、はたして自分で言っていることの意味をほんとうに
理解できているのかどうか自信がありません。
 

●229●小島寛之『サイバー経済学』(集英社新書:2001.10)

 市場という海には魔物が棲んでいる。それは「不確かさ」を糧として、個と集団、
ミクロとマクロの質的差異をもたらす「大数の法則」にのっとって棲息する。ケイ
ンズ理論はかつてこの魔物に対抗しうる魔法であった。しかしいまや魔物は進化し、
新しい魔性を備えるに至った。

《ジェーン・ジェイコブズはかつて『都市の経済学』という本で、こんな提案をし
た。/世界中が国単位よりももっと細かい都市単位で地域貨幣を創出する。そして、
その地域貨幣のコントロールを通じて、安定的で地域色の豊かな経済社会の樹立を
すべきである、と。これは実に有望な提案なのであるが、皮肉にも二一世紀の世界
は、それとはまったく逆の方向に向かって突き進んでいるのである。/世界は、目
に見えず触覚できない細密なネットワークを通じてリンクしていっている。そして、
どこかに生じた障害は不可避的な形で世界全体を浸食していくだろう。それはあた
かも、防御膜を失い、侵入した病毒に一瞬のうちに全身を汚染されてしまう抵抗力
のない肉体のようなものである。》(33頁)

 ネットワーク外部性をもったサイバー経済が誕生したのである。人々の欲望をか
なえる貨幣の流動性に表現されたもの、すなわち資本主義の本質である自由がIT
に支えられあらゆる領域で拡張され、凶悪化した魔物は今にも邪悪な牙をむこうと
している。「そう、新しい市場は、新しい恐慌の舞台でもある」。

 この来るべき市場に住みついた怪物にかける新しい魔法、ケインズ理論を凌駕し
これを現代に復権させる新しい理論は、ベイズテクノロジー(ベイズ推定)など確
率論の進化にかかっていると著者は言う。新しい数学に根ざした新しい経済学の誕
生が求められている。

●230●小島寛之『数学迷宮 カントール・レクイエム』(新評論:1991.9)
●231●小島寛之『数学幻視行 誰も見たことのないダイスの7の目』
                          (新評論:1994.6)

 数学エッセイスト時代の小島氏の処女作と第二作。いずれもこれまで部分的に拾
い読みをしては結構刺激を受けてきた。第一作の著者紹介欄に「世田谷市民大学で
経済学を勉強中。ケインジアンの仲間入りをするのが当面の目標」と書いてある。
『サイバー経済学』で、その目標は達成されたのだろうか。

 小島氏の文章は、これ以外にも、朝日ワンテーママガジン44『あぶない数学』(
」朝日新聞社)に掲載されたもの(ウィトゲンシュタインとハイデガーに依拠した
数学の可能性を示唆する刺激的なものだった)と『数学オリンピック問題にみる現
代数学』(講談社ブルーバックス)を読んだことがある。いずれも1995年に出たも
のだ。もう一度読み返してみよう。

 『数学迷宮』は、それぞれ文体の違う四つの章──そのうちの一つは数学小説で、
これははっきり言ってラッカーの『ホワイトライト』以上に出来が悪い──で組み
立てられている。カントールに捧げられた最終章「無限が牙をむくとき」が秀逸で、
ボルヘス『アレフ』や『砂の本』、夢野久作の『ドグラ・マグラ』まで出てくるの
には読むたび感動する。

《ボルヘスが描く「数学」は、数学本来の特性である明瞭さや確実さからかけ離れ、
ひときわ幻想的である。だがそれは数学が宿命的にもつもう一つの側面(数学者の
大部分はそれに気づかずにいる)、すなわち「情念」を詩人独特の嗅覚がかぎ分け
たものであると言えるだろう。》(236頁)

 あとがきの次の文章も印象的。《まず、「高度な数学を分かりやすく解説する」
という常識的態度をいさぎよく切り捨てた。反対に「簡単な数学から複雑な迷宮を
構成する」というラインを狙ってみた。それが本書『数学迷宮』である。》

 『数学幻視行』は、第一部「数学アレルギーに効く12杯のカクテル」も捨てがた
い。(私は特に、泡坂妻夫・日影丈吉・中井英夫共著の暗号小説『秘文字』の解読
を老後の楽しみに取ってあるとか、数学は“私”の心の中に棲息する、数学は私た
ちの生そのものである、だから「数学は何の役に立つのか」という問は「あなたは
何の役に立つのか、生きていて何の価値があるのか」と問うことと同値だといった
文章に好感をもった。)

 けれどもやはり第二部「思索家のための「科学の霊域」」が秀逸で、とりわけ哲
学における「言語」、数学における「数」、経済学における「貨幣」、物理学にお
ける「時間」という「四つの循環論」をめぐる最終章は刺激的だった。ケインズ理
論の世界観が量子論のそれに酷似しているといった指摘など、言葉だけならサルで
も言えることかもしれないが、なかなかどうして鋭く深い。

《私はこのケインズの貨幣論とハイゼンベルクの確率波の概念に奇妙な符合をみま
す。貨幣は流動性という不確定の数値をもっており、財に換えたとたん確定的なも
のになるというところに、不確定性の原理との神秘的な類似性を見いださずにはい
られないのです。》(172頁)

●232●利根川進『私の脳科学講義』(岩波新書:2001.10)

 以前『精神と物質』(立花隆氏との共著)を読んだときにも感じたことだけれど、
この人はなぜこれほどの確信をもって、脳科学が進めば人間の感情や嗜好などの心
の現象も物質的に説明できるようになると断言できるのだろう。宗教とか哲学が対
象にしてきた概念や問題は脳科学がもっと進めば説明がつくだろうとか、文学もい
ずれは脳科学に集約されていくのではないかといった発言が出てくるたびに私は訳
が分からなくなる。

 もちろん「物質的に説明できる」とか「集約される」いう言葉の意味や意義のと
りかたしだいでそれは何とでも解釈できるわけだし、そもそも私は心の現象や哲学
や宗教の諸概念を脳科学が説明したり文学を脳科学が集約することなど未来永劫あ
り得ないと主張したり、ましてそれではあまりにも寂しいではないですかなどと嘆
いてみせたいわけではない。

 保坂和志氏が「世界は私の思惟の産物ではなく、私の方こそ世界からもたらされ
たのだ」(『世界を肯定する哲学』233頁)と書いている。このことの「実感」を
共有するかぎり、哲学や宗教や文学と自然科学はそれぞれの対象と領域、問題と方
法を分担しあうことができるのだろうと私は考えている。

 利根川氏の発言に違和感を覚えるのは、心の現象が立ち上がっていることと物質
的な説明がつけられるプロセスが稼働していることとはまったく別の話なのではな
いかと思うからだ。科学者は実験や観察の対象(物質)に心の現象が立ち上がって
いることを物質的現象(たとえばマウスの行動のような)を通じてしか確認できな
いのだから、結局、物質的現象と物質的プロセスとの対応関係を科学の方法でもっ
て説明することが科学者の仕事なのである。だとすると利根川氏が言っていること
はごくごく常識的なことでしかない。脳科学が進めば云々と予言めいたことを言い
出すから訳が分からなくなるのだ。

 哲学や宗教の概念を説明したり文学を集約する(概念を物質的に説明するとか文
学を集約するということの意味がいまひとつ私には理解できないのだが)ためには、
脳科学者は言語という現象を科学的方法をもって説明してみせる必要がある。言語
だって脳の産物なのだから脳内物質プロセスを解明することでいつの日にか脳科学
は言語を説明できるはずだと断言してもいまのところそれは空手形でしかないし、
そもそも言語現象を物質的に説明するということがいったい何を意味しているのか
を明らかにしないかぎりどこまで行っても精神現象と物質現象の二元論は根絶でき
ないと思う。

(脳科学者だって結局、言語を使って説明しているではないかなどと揶揄するのは
この際禁じ手にしておくべきだろう。ただ、意識や感情や意志や想像や思考や嗜好
といった心の現象に関するきわめて日常的な理解とこの世界=宇宙に実在する物質
をめぐるきわめて常識的な理解、そして両者の対応関係についての素朴な了解、こ
うした事柄を前提にした言語を使用するかぎり、未来永劫、脳科学にブレイクスル
ーは起きないだろう。)

 もっと訳が分からないのは次のような発言だ。利根川氏がそこで言っていること
はそっくりそのまま哲学や芸術の世界での評価にも該当すると思う。──文化系の
学問や芸術は評価が不安定で客観性がないが、ネイチャーは嘘をつかないから自然
科学では成果をあげればかならず誰かが評価してくれる。科学の判定は個人的なも
のでありながら同時にまったく個人的なものではなく、ある程度のコンセンサスが
あるのであって、「この感覚は、科学者になっていくときに学ぶんです」。「いい
科学者の弟子たちがいい科学者になる確率が高いのは、共通した価値観をもってい
て、何が重要で何が重要でないかということについての判断が遺伝しているからだ
と思います」(127頁)。

 それでも本書は優れた科学啓蒙書であり、読み手の心を活性化する「サクセス・
ストーリー」だ。何よりも科学者としての利根川進の生き方や人物には魅力がある
し、プライオリティ(優先事項)をしっかりさせることが重要だという指摘は人生
の達人の言葉である。「私は科学するということは、それこそ人間の脳の本質的な
属性だと思うんです」(160頁)という発言など実に鋭いし深い。

 実を言うと、私は脳科学がすべての学問を「包括」(本書に収められた対談で池
田理代子氏が使った言葉)していくだろうと思っている。脳科学が哲学や宗教の概
念を説明したり文学を集約するというのは、哲学や宗教や文学もまた脳(ただし肉
体をもって生きている人間の脳、しかも複数の脳)の営みであるというあたりまえ
の事実を脳科学者流に表現しただけのことだと理解できる。

 自然科学の、とりわけ脳科学の最新の成果を踏まえない哲学や芸術など三流でし
かない。世の中には碌でもない哲学や芸術が多すぎるというのが掛け値なしに一流
の科学者である利根川氏の評価なのだとしたら、上で取り上げた発言の意味はまっ
たく違った様相を帯びてくる。

●233●朝永振一郎『量子力学と私』(江沢洋編,岩波文庫:1997.1)
●234●R.P.ファインマン『物理法則はいかにして発見されたか』
                 (江沢洋訳,岩波現代文庫:2001.3/1968)

 この類い希な個性、人を惹きつけてやまない磁性ならぬ滋性をもった二人の物理
学者は同じ年(1965年)にノーベル賞を受賞した。その受賞記念講演や「二つ孔の
実験」をめぐるそれぞれにユニークな解説文(朝永「素粒子は粒子であるか」「光
子の裁判」、ファインマン「確率と不確定性──量子力学的の自然観」)を収録し
たこの二冊の本を、私はほぼ同時進行的に読み進めた。語り手の息遣いまで聞こえ
てきそうな物理学の本を読むのは久しぶりのことだった。

◎電光ニュースの上に現れる光点のようなもの──朝永振一郎の引用

《光子のように自己同一性がない粒子というものは、この電光ニュースの光点のよ
うなものだと考えれば、その意味において決して存在し得ないものでないというこ
とが、これで明らかになった。素粒子というのは、まさにこういうものなのである。
それは粒子であるといっても、電光ニュースの上の光の点のようなものである。実
際、現在の素粒子の理論では、素粒子をこういうものとして取扱う。/素粒子論に
おいて、電光板の役目をするものは、いわゆる場である。素粒子とは電光ニュース
の上に現れる光点のように、場に起る状態の変化として現れるものである。この状
態の変化を支配する法則は場の方程式といわれる数学の形で表される。空間のなか
にはいろいろな場が存在していて、そのおのおのの場にはそれぞれ異なった素粒子
が現れる。電磁場の現れとしては光子が、ディラックの場の現れとしては電子が、
さらに湯川場の現れとしては中間子が現れるのである。》

《それでは、自然は一体どちらを望んでいるのであろうか。すなわち、相互作用を
いくらでも小さくすることが実際に可能であり、したがって互いに無関係な素粒子
という概念が明確な意味をもっていて、その上無限大などの現れて来ない理論が要
求されているのであろうか。それとも、相互作用の小ささには限界があり、したが
ってわれわれの理論の構成の土台になっていた「互いに無関係な素粒子」という概
念の変更が要求されているのであろうか。このいずれかが自然の真相である。しか
して量子力学と相対性理論とをそのままの形で結び合わせたわれわれの理論は、こ
のどちらにも属せずに内に矛盾を含んでいるのである。この矛盾の所在は多分この
理論の中の素粒子とか相互作用とかあるいは時間とか空間とか、そういう概念にあ
るのだろう。なぜならこれらのものは相対性理論において絶対運動の概念が、量子
力学において粒子・波動の概念が受けたような批判を、まだ少しも受けずに多分日
常的な意味で用いられているからである。》

◎複雑に結ばれた多層建築である、このとてつもない世界──ファインマンの引用

《数学は言葉プラス推論であります。言葉プラス論理なのであります。》

《C・P・スノウは二つの文化ということを申しました。二つの文化といえば、一
方には、自然を賞でるのに十分なだけの数学を一度でも理解した経験をもつ人々が
属し、他方にはそういう経験のない人々が属することになるのだろうと、私は思い
ます。》

《宇宙の諸現象は、いろんな階級、あるいは階層に分けて考えることができます。
…一方の極端には物理の基礎法則があります。そのつぎに私どもは近似的な概念を
いろいろ取り出して名前をつけます。…たとえば「熱」。…もうひとつ階段を上が
りますと…物の性質に関する諸概念がくる。たとえば「屈折率」…「表面張力」…。
階層をもっと上にまいります。水には波がたちます。嵐というものもある。…この
複雑さの階段をもっと上にのぼりますと、筋肉の収縮とか神経を伝わる電気信号と
かに出会うでしょう。…このつぎに階段をのぼれば、出会うのはたとえば「蛙」で
す。さらに進めば、「人」とか「歴史」「政治」などという言葉ないし概念にたど
りつく。…そうして悪とか美とか希望とかにいたる……。宗教のたとえを使ってよ
ろしければ、神。しかし神はどちらの端に位置するのでしょう。基礎法則のほうな
のか、美や希望のほうなのか? いや、あれこれのつながりによる構築の全体とし
なくてはいけない──これが正しい言い方かと私は思います。すべての科学、いや
科学ばかりでなく、知性のあらゆる方面にわたる努力のすべては階層のあいだの関
連を見抜こうとするものです。美の観念を歴史と結びつけ、歴史を人間の心理に、
人間の心理を脳のはたらきに、脳を神経の電気信号に、神経作用を化学に等々、上
へも下へも、どちらの方向にも関連を求める努力であります。今日この階層を下か
ら上まで貫く経糸を引くことはまだできません。それができると言挙げしてみても
しかたがない。このような階層構造のあることが今ようやく見えはじめたばかりだ
からであります。…階層の両端で働く人々、中間の階層で働く人々──こうした人
々のおかげで、複雑に結ばれた多層建築である、このとてつもない世界を、私たち
は徐々に理解していきつつあるわけであります。》

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