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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.77 (2001/10/21)
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 □ ジョン・ホーガン『続・科学の終焉』
 □ B.クズネツォフ『アインシュタインとドストエフスキー』
 □ マレイ・ゲルマン『クォークとジャガー』
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●226●ジョン・ホーガン『続・科学の終焉』(竹内薫訳,徳間書房)

 本書のエピローグに、心の科学への「文学的アプローチ」の話題が出くる。《ハ
ワード・ガードナー[引用者註:ハーバード大学の心理学者で教育学の教授]やク
リフォード・ギアーツ[プリンストン高等研究所の人類学者]たちは、心の科学を
厳密に科学的な営みではなく、文学に近いものとして見ることを奨めた。》

 まず、その「お手本」であるオリバー・サックスがホーガンに語った言葉の紹介。
《自分は、本というものは一般化されたものではなく「実例」からなるべきだ、と
いうウィトゲンシュタインの格言に従うようにしているのさ》。次いで『妻を帽子
とまちがえた男』からの引用。《われわれは事例を物語のレベルにまで深めなくて
はならない》。

 そして「事例研究の大御所」フロイト――ギアーツが「実在の人たちについて、
実在の場所について、実在の時間について、想像的に書くもの」と定義した「ファ
クション」そのものである「事例史」の大御所、あるいはガードナーがホーガンに
語った言葉によれば「心の最も深い秘密を扱うことが要求される種類の文学的心理
学の達人」(いずれも本書第2章「フロイトが死なない理由」から)――に言及し
た後で、ホーガンは次のように書いている。

《心の科学者の大半は、自分たちの結果を文学的な表現に置き換える才能に欠けて
いる。もしかしたら、彼らは、自分たちのことをエンジニアだと割り切ったほうが
いいのかもしれない。…エンジニアにとって大事なのは「究極の答え」ではない。
絶対的で最終的で確固たる真実に用はない。…エンジニアは、究極の答えではなく、
一つの答えを探すのである。身近な問題を解決したり状況を改善するのに役立つも
のなら何でもいい。》

 ここで、唐突に想起したのが──若きウィトゲンシュタインの工学知(?)への
関心とともに──スピノザ『知性改善論』(85節)に出てくる次の一文だった。

《ただ彼ら〔古人〕は、私の知るところでは、ここでの我々とは違って、精神が一
定の法則に従って活動しいわば一種の霊的自動機械〔引用者註:ドゥルーズ『スピ
ノザ──実践の哲学』の鈴木雅大訳では「精神的自動機械」〕であるということを
決して考えていなかっただけである。》

 文系対理系といった問題設定にはよほど注意してかからねばならないと私は思う
のだが、少なくとも本書が切り拓こうとする次元は深く鋭い。

●227●B.クズネツォフ『アインシュタインとドストエフスキー』
                  (小箕俊介・れんが書房新社:1985/1972)

 まず思想と行動の関係をめぐるハムレットの問いがある。そして「個人の運命を
無視しない世界調和」(道徳的調和)の概念をめぐるドストエフスキーの問いがあ
る。これらは科学の二つの基準「外的確証」と「内的完全性」にそれぞれ関連づけ
ることができる。

 芸術家ドストエフスキーは「実験的リアリズム」あるいは「実験詩学」と著者が
名づける方法でもって、神的調和への伝統的な「ユークリッド的」信仰から「非ユ
ークリッド的」調和(イワン・カラマーゾフによって見出された個人の運命を無視
する調和)へ、そしてさらにいっそうパラドキシカルな非ユークリッド的調和へと
向かっていった、と著者はいうのだが、それはスピノザの神を信じ、三十数年の熾
烈な努力を統一場理論にかけたアインシュタインの軌跡と一致する。少なくとも「
アインシュタインからドストエフスキーへの変換の不変部分」というべきものがあ
る、と著者はいう。

《現代科学は、巨視的概念の導入なしには、すなわち粒子の巨視的行動を定義する
ことなしには、超微視的過程を現実のものとして扱うことはできない。道徳的調和
の現代的概念は、個人的実存が、集団的運命にたいしてもつその重要性によって規
定されるべきことを要求する。》(これはたんなるアナロジーにすぎないのだろう
か。)

●228●マレイ・ゲルマン『クォークとジャガー』(野本陽代訳・草思社)

 本書のまえがきに、次のような文章がある。《ニーチェは人間のタイプを「アポ
ロ的な人」と「ディオニュソス的な人」とに分類した。前者は論理、分析的な方法、
証拠に基づき冷静に判断することを好み、後者は直観、総合、感情により傾いてい
る。こうした性向は、左脳と右脳のどちらを主に使用しているかに関係している、
とよくいわれる。しかし、なかには別のカテゴリー「オデュッセウス的な人」に属
する人もいるように思える。ニーチェのいう二つの傾向を併せもち、いろいろなア
イデアのあいだの関係を追究するタイプである。》
 
 ニーチェ由来の「アポロ的」と「ディオニュソス的」を人間の性向の類型と見て
も少しも面白くないし、ましてや両脳の機能分化に結びつけたところでそこから刺
激的な議論が展開できるとはとても思えない。(そもそも魅力的なタイトルと某サ
イエンスライターが絶賛していたのにつられてとにかく最後まで読んでみたこの書
物は、少なくとも私にとって「読み物」としてはいまひとつだった。)

 ただ「オデュッセウス的」という表現はちょっと面白いし「使える」と思った。
以下はニーチェともマレイ・ゲルマンともいささかの関係もない、私の勝手な議論
(というより思いつき)。

 まず、ディオニュソス的という言葉から私が連想するのは「死」だ。あるいは「
可死性」といってもいい。ただし、ここでいう死は虚無を意味するものではなく、
強いていえば豊穰な死、死を媒介として無際限に繁殖していく薄気味悪いものとし
ての生のイメージを伴った死。生に犯された死。あるいは植物的な生。

 一方、アポロ的という言葉からは「不死性」を連想する。死を超越した生や死の
彼岸にある生ではなくて、より正確には「不可死性」とでも表現すべき強いられた
ものとしての永遠の生。いましめられたイデア。あるいは、鉱物的な生。

 これらに対してオデュッセウス的という言葉は、紛れもない死、プロセスとして
の死そのものを連想させる。ここでいうプロセスとは旅、遍歴、エグザイル、冥界
降りなど、そこから時間や歴史や物語が分泌され産出される何かしら根源的で単純
な出来事の連鎖のようなもの。あるいは、そこにおいて細部と全体が対等の広がり
と奥行きをもって拮抗しうる場としてのプロセス。動物的で悲劇的な生。そして、
生と死が共在する菌類の生。

(オデュッセウス的という概念で私が考えているのは、実はベンヤミンの生の軌跡
でありその思考のスタイルなのだが、これは直観にすぎず、いまの私にはこれ以上
の議論を展開するだけの素材の持ち合わせはない。)

 ところでマレイ・ゲルマンといえば「クォーク」の命名者、そして今をときめく
複雑(適応)系の科学の総本山サンタフェ研究所の創設者。本書のタイトルは、単
純で基本的なもののメタファー(クォーク)と複雑なもののメタファー(ジャガー)
との組み合わせでできている。著者はそのプロローグの中で、ジャングルでのジャ
ガーとの遭遇という出来事を生き生きと叙述し、「私たちの身のまわりの世界は、
生物、非生物にかかわらず、それ自身の歴史をもった個別のものによって構成され
ている」という認識=発見を書き記している。

 そして、物質の究極の構成要素を支配する普遍的で単純な法則の理解と、ジャガ
ーに象徴される個別的なものを生み出す生物の進化や言語・文化の進化といった複
雑なものの探究とが、奥深いところでつながっている一つのものであることに気づ
いたことも。

 単純なものと複雑なもの、普遍的なものと個別的なもの、全体と細部、近いもの
と遠いもの、根源と表徴、等々──これら相反するものの異和と親和を同時に感受
し表現する思考の両義性が、私をひきつけてやまないベンヤミンの魅力だ。なぜか
しら、話はベンヤミンの方へ流れてしまう。

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