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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.74 (2001/10/07)
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 □ クザーヌス『神を観ることについて 他二編』
 □ アーウィン・パノフスキー『ゴシック建築とスコラ学』
 □ 堀米庸三・木村尚三郎編『西欧精神の探求』
 □ 山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』
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パースの重力圏から逃れられません。『連続性の哲学』を何度も反芻しています。
もともと私はベンヤミン菌の保持者で、ドゥルーズ流行性感冒の慢性患者、そして
間歇的にぶりかえすパース病罹患者でした。(この三役が揃い踏みで出てくる書物、
たとえば最近では山内志朗さんの『天使の記号論』や、「移動の記述法」の特集を
組んだ『談』No.63など、うっかり目にしたものなら、もう大変です。)なかでも、
パース病の根が深かったようです。スコラ哲学と現代物理学(宇宙論)というのが、
私のパース病の目下の症状です。

ニコラウス・クザーヌスに関連して、少しだけ余談を。──近所の図書館から何度
も借りては矯めつ眇めつ眺め見ている本にカントールの『超限集合論』(功木金二
郎・村田全訳,共立出版:1979)があります。これに付された村田全氏の長文の解
説に、次の文章が出てきます。(ちなみに村田氏は、カントールのことを「最後の
形而上学的数学者」と呼んでいる。)

《カントルによれば、超限順序数という実無限は人間精神に内在する限りでの実無
限であり,それは,客観的自然に内在する実無限と共に,神という絶対的な実無限
の中に包摂され,万有の調和の中に置かれるはずのものであったらしい.これは正
に上で触れたライプニッツの予定調和の哲学や,「神は矛盾の一致」という16世紀
の[ママ]数学的神学者ニコラウス・クサヌスの哲学を思いおこさせるものであり,
無限概念の一番の勘どころを神の御手に委ねる考え方というか,もとより現代的意
味での「数学」として通用するはずのものではない.しかしまた,これが西欧の形
而上学の伝統の中では,ありうべからざる考え方と言えないことも確かである.》
(175頁)

ついでに言及しておくと、クザーヌスは『知ある無知』の中で「反対対立の合致」
を説明するために、無限大の円の円周と直線の例を挙げているのですが、この「無
限接近」という思考実験は、後にライプニッツの知るところとなったことが近年の
研究で明らかになった、と『神を観ることについて』の訳者解説で紹介されていま
した。
 

●215●クザーヌス『神を観ることについて 他二編』
                     (八巻和彦訳,岩波文庫:2001.7)

 訳者によると、ニコラウス・クザーヌス(今年が生誕六百年にあたる)の神秘的
思弁の頂点をなすとされる「神を観ることについて」(De Visione Dei)は、クザ
ーヌスの思想の神髄に向けたクザーヌス自身による「手引書」である。

 「神のイコン」(icon Dei)──その顔が巧みな画法で描かれていて、どの位置
から見ても見ている人がその像から見られているかのように錯覚する「万物を見て
いる人物像」──をめぐる経験から説き起こし、突然、「主よ、あなたの観ること
は愛することです」「あなたの観ることはあなたの存在することです」「あなたの
観ることは生命を与えることです」「あなたを観ることは、あなたを観ている者を
あなたが観て下さることに他ならないのです」──訳注でも指摘されていたが、『
エックハルト説教集』(岩波文庫、93頁)に「わたしが神を見ている目は、神がわ
たしを見ている、その同じ目である」という文章が出てくる──と、「至福直観」
(visio facialis)が開示する摂理を語り出す。

 以下、「知ある無知」(docta ignorantia)や「反対対立の合致」(coincident
ia oppositorum)の思想、目に見えない「原像」(exemplar)とその「似像」(im
ago)、普遍から個別への「縮減」(contractus)と「引き寄せ」(attrahere)、
神による万物の「包含」(complicatio)と「展開」(explicatio)、そして神の
三一性──「愛する者」と「愛されるべき者」と「両者の結合」の三者の一致とし
ての神──や媒介=通路=門としてのイエス論へと、クザーヌスの語りはしだいに
熱を帯びていく。

 例によって眠気と退屈の虫を噛み殺しながら、ほぼ三時間近く自らを罰するよう
にして読み継いでいくうち、三一論あたりまで来るともうすっかり熱中していた。
以下、印象に残った言葉を脈絡なしに抜き書きすると、まず「主よ、あなたの眼は
屈折することなく万物に到達します」(51頁)と「耳を傾けることが、人間になる
ことなのです」(61頁)という本文中の言葉。

 それから、クザーヌスが神を取り巻く城壁として「包含と展開の合致の城壁」と
「反対対立の合致の城壁」を挙げていることに関して、「この「城壁」とは、人間
の最も一般的な認識推論能力である理性が、自力で天国に入ろうとする際に自らつ
くり出す「航空機における音速の壁」のようなものと考えられる」、そして城壁の
「門」とは神人であるイエス・キリストのことであるとする訳注(240頁)。

●216●アーウィン・パノフスキー『ゴシック建築とスコラ学』
                  (前田道郎訳,ちくま学芸文庫:2001.9)

 9世紀のエリウゲナから15世紀のクザーヌスまで、前・初・盛・後期のスコラ学
とゴシック芸術との「類比性」をわずか14頁足らずで叙述し切り、1130年‐40年頃
と1270年頃との間の時期(盛期)において両者の間にあったものが単なる「平行性」
ではなく「真正の因果関係」であることを、スコラ学の二つの支配原理──「マニ
フェスタティオ」(顕示 manifestatio)と「コンコルダンティア」(和合 concor
dantia)、端的に言えば「視覚論理」(ヴィジュアル・ロジック)と「討論」(di
sputatio)──が建築にもたらした「精神習慣」(メンタル・ハビット)でもって
解き明かす、たかだか53頁の疾風怒濤の論証。驚嘆した。

 個人的に面白かった箇所を抜き書きしておく。──後期スコラ学において、唯名
論と神秘主義が「触れ合う両極端」であったこと(「信仰と理性との永久の平和条
約をしたためる」という12、13世紀の人々が手がけた課題を放棄した点において)
をめぐる文章の一節。

《神秘主義も唯名論もともに、ついには有限なるものと無限なるものの間の境界線
を廃してしまう。しかしながら、神秘主義者は人間の霊魂の神における自己消滅を
信じるがゆえに、自我を無限化しようとする傾向にあるのに対し、唯名論者は無限
なる物理宇宙という観念に論理的矛盾を認めず、もはやそれに対する神学的反対を
受けつけないがゆえに、物理的宇宙を無限化しよとする傾向にある。》(18-19頁)

 それからもう一点、スコラ学の二つの支配原理のうち第一のものをめぐって。─
─この原理(「明瞭にすること」)を最高の水準において働かせるためには、それ
を理性そのものに適用しなければならず、そこからスコラ学の著作、とりわけスン
マ(大全)においてその頂点に達した形式主義が生じた。それは、「全体性(十分
な列挙)」「相同[ホモロガス]な部分と部分の部分との、一つの体系に沿った配
列(十分な分節化)」「明確性[ディスティンクトネス]と演繹的説得力(十分な
相関性)」という三つの要件をそなえていた。ここから「まぎれもないスコラ学の
相続人であるわれわれ」へと引き継がれていったある習慣が生まれた。

《学問の主要な著作とりわけ哲学の大系や学位論文が次のように構成されるのは当
然であるとわれわれは考えている。すなわち目次や梗概に要約できるような分割、
細分割という図式に従って構成され、そこでは同じクラスの数字や文字で表示され
たすべての部分は同一の論理的レヴェルにある。そこで、たとえばa小節と一節と
一章とA書の間には、たとえばb小節と五節と四章とC書の間と同一の従属関係が
得られる、ということである。しかしながらスコラ学の出現に至るまで、この種の
体系的分節化は全く知られていなかったのである。》(49頁)

 備忘録。本書を読んで連想したこと。その一、ベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』
「認識批判的序章」の冒頭で「トラクタートというスコラ哲学的な術語」で呼ばれ
る入門教科書やモザイクについて論じていたこと。その二、パースが『連続性の哲
学』第5章「習慣」で、哲学の厳密な用語法の確立のため「体系的な動物学者と植
物学者」の経験に即した四つの規則を導入し、その最後に「哲学の用語は可能な限
りスコラ哲学を模範にして作られるべきである」を掲げていたこと。

●217●堀米庸三・木村尚三郎編『西欧精神の探求 革新の十二世紀』上下
                      (NHKライブラリー:2001.7)

 上巻の「祈れ、そして働け─西欧の修道精神」(今野國雄)、それから下巻に収
められた二つの講義、「大学と学問─自由な思索の展開」(今道友信)と「近代科
学の源流─スコラ自然学と近代」(伊藤俊太郎)の三篇が読みたくて購入したのだ
が、結局、最初から順を追って14の講義と対談・鼎談を丁寧に読み進めていった。
至福の境地とは、こういう読書体験を言うのだろう。

 教えられること、参考になること、記憶に止めておくべきことが数限りなくあっ
て、いちいち書き出したら切りがない。とりわけ、現代の国際的な政治経済の問題
を考える際、本書にちりばめられた知見や洞察や歴史的事実は、押さえておくべき
必須の知識になるに違いない。

 それはまたどういう次第でそうなのか、と関心を持たれた方がもしおられるなら、
とにかく本書を読んでみてください。──ほんのさわりだけ、引用しておきます。
《とくに西欧精神精神の形成という点からみて注目されることは、ベネディクトゥ
スが修道生活における集団性と労働のもつ意義を重視したことであります。》(今
野國雄,上巻149頁)《…十二世紀はローマ法が復興し大いに発展するときなので
す。》(堀米庸三「西欧型政治原理の発生」,下巻30頁)

 個人的な関心から特に面白かったのは伊藤俊太郎氏の講義とそれを肴にした鼎談
で、たとえば伊藤氏が「中世自然観のもつ一つの重要なポイントをえぐり出してい
る」と紹介しているベルジャエフの次の文章など、とても印象的だ。

《古代世界の終末とキリスト教世界の開始は、自然の内的生命が人間からある異質
な深みへと離れさっていったことと関係する。今や自然と人間との間には、ある一
つの深淵が口を開いたのである。キリスト教はいわば自然を殺した。これがキリス
ト教によってもたらされた人間精神の自由化という偉大な作業の別の面にほかなら
ない。……この自然の人間からの乖離、この自然の内的生命への鍵の喪失こそが、
キリスト教の時代をそれ以前の時代から区別する最大の特徴である。ここから出て
くる帰結は一見したところきわめて逆説的である。なぜならキリスト教の時代の帰
結が自然の機械論化だったからである。……しかしいかに逆説的にみえようとも、
キリスト教のみが実証科学と技術を可能にしたのである。》(下巻133-134頁)

 これに関連しての伊藤氏の発言。《…デカルトは近代哲学の祖といわれるけれど
も、そういう点では中世のキリスト教的自然観に内包されていたものをはっきりさ
せて、それをトマスの総合──アリストテレスとキリスト教の結合──に代わる、
機械論とキリスト教という新しい総合を試みたといってもよいと思うのです。これ
が近代西欧科学を生み出した自然観であり、実際ガリレオもボイルもニュートンも
この路線上にあるのです。》

 これを受けた木村尚三郎氏の発言。《結局、近代の自然科学の発達はまさに神か
ら生まれたものだというわけですね。キリスト教から、神から機械が生まれたとい
うたいへん逆説的な。》

●218●山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書:2001.9)

 即身仏と天使とライプニッツと修験道とイスラーム哲学とスコラ哲学とセクシャ
リティと普遍記号学を一緒に考えている著者による「ブタでも書ける論文入門」。
(即身仏云々は「あとがき」に出てくるスコラ的枚挙で、カバー裏の著者紹介には
「専門のスコラ学だけではなく、現代思想、現代社会論、コミュニケーション論、
身体論、修験道、ミイラなど」について研究していると書かれている。ブタでも云
々は第1章に出てくる言葉だが、「参考文献」には矢玉四郎の「はれブタ」シリー
ズが挙げられている。これは確かに素晴らしい絵本だった。)

 本書のハイライトは記号や略号の使用法(90〜126頁)、文献表の作り方や註の
作法(157〜175頁)等々をめぐる「偏執者」的な(スコラ的な?)枚挙なのだが、
随所に掲げられた例文が過激なまでに偏っていて実に面白かった(e.g.「トマス・
アクィナス『能力論』における可能性と現実性の問題」[p.81f,p.179ff])。本
書は、マニュアル本に徹することでもってスコラ学の、そしてスコラ学的な「精神
習慣」によって培われた著者自身の思索(cf.『天使の記号学』)の要諦を語る類
い希な奇書である。

《論文を書くというのは、実は「論証」を行うということなのだ。…論証があるか
らこそ、その発見は、多くの人が共有できる知識となる。要するに、論文を書くこ
ととは、知の共有に至る道なのである。》(pp.30-31)《論文とは、共通の知に至
る作業なのであり、普遍性を持っていなければならない。…知識を共有する道を歩
むことは、知の戦略に立つことなのである。》(pp.183-184)

《ここまで書いてきたことは、結局のところ、心の中にある思想の〈かたち〉を、
文字に定着し、固定化した〈形〉にするための技法のことである。〈かたち〉は、
ひらめきであったり、ビジョンであったりするが、それを見据えて手に取ろうとす
るとすぐに見えなくなる場合も多い。目に見える〈形〉にすることで、実は、曖昧
であった〈かたち〉も明確になっていく。つまり、〈かたち〉は最初にありながら、
最後に現れるものだということだ。そして、この〈形〉に表現する技法をハビトゥ
スとして考えているのだ。実は、この本は形而上学の以上のモチーフを論文執筆に
応用したものだ。形而上学もなかなか役に立つのである。》(pp.193-194)

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