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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.73 (2001/09/30)
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 □ 村上龍『ヒュウガ・ウィルス』
 □ 村上龍『五分後の世界』
 □ 村上龍『最後の家族』
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今回取り上げた村上龍の作品は、中込照明著『唯心論物理学の誕生』と山内志朗著
『天使の記号論』(もしくは、その応用編『ぎりぎり合格への論文マニュアル』)
の二冊で解ける。もう少し補足するなら、「量子モナド論」と「コミュニカビリテ
ィ」の概念を使って、コンピュータ・ゲームやヴァーチャル・リアリティに譬えて
解くことができる。その論証は、いずれ別の機会に別の場で。[*]

これは蛇足ですが、今使った「ヴァーチャル・リアリティ」は「仮想現実」のこと
ではありません。アクチュアルではないにせよ、それもまたひとつのリアリティで
す。たとえば、この世の教会は神の国のリアリティをヴァーチャルに表現している、
といった意味で。(原典は知りませんが、ある人の文章に「ヴァーチャルという概
念は、すでに中世の神学者ドゥンス・スコトゥスによって導入されていた」と書い
てありました。これは余談。)

* 中込氏の本は次々回あたりに取り上げようと思っているのですが、ここでさわり
の部分だけでも紹介します。(以下の二つの引用文の間で展開される議論は、途轍
もなくスリリングなものでした。)

中込氏が、ライプニッツの予定調和の考え方を理解するための比喩として用いるの
は、複数のコンピュータを使った戦車ゲームで、そこには「各コンピュータにプロ
グラムとして与えられた決定論的法則」と「プレイヤーの意志決定に伴う全体への
通信」という二つの基本的要件がある。

《コンピュータとプレイヤーを一緒にして一つのモナドと考えるなら,自由意志を
認めたうえで予定調和を実現するには通信による相互作用のようなものが必要にな
ることが分かる.この相互作用は画面上の戦場の中での力学的相互作用とはまたく
別種のもの,非物理的なものと見なされるべきものである.》(『唯心論物理学の
誕生』111頁)

《多数の細胞が集まって一つのまとまった生物個体を構成する仕組みはまだよく分
かっていないようであるが,ここには唯心論的構造化のプロセスが働いているはず
である.現象論のレベルの言葉で言えば,内部世界と通信という枠組みである.
 このように考えてくると,インターネット・ワールドはモナド構造の模倣であり,
強化であるということに思い至る.これは,モナド進化の必然的結果である.今や
われわれは進化の新しい段階に入ったのかもしれない.
 先にモナド・モデルを説明するのにコンピュータ・ゲームの喩えを使ったが、こ
れは単なる喩え以上の意味があったわけである.》(同153-154頁)
 

●212●村上龍『ヒュウガ・ウィルス 五分後の世界II』
                       (幻冬舎文庫:1998.4/1996.5)

 この作品には長い科白を割り当てられた三人の人物が登場する。──躁病のクン
・マニア(「元気な人間が元気のない人に元気をあげる、これが東洋の価値観でし
ょう」)。

 コヤマを相手に「人間はなぜ不安になるか」と問いかけ──コヤマの答え「人間
はなぜ不安になるか、を考える場合、有効なのはどうやって不安状態から脱してい
るかを分子レベルで解明することだ」──地下で暮らす浮浪者の泣き声について語
るシスター・レイ(ワカマツがつくるのは「歌ではなくて音楽なのだ、歌は世界中
で死んだ、…歌は常に泣き声でうたわれる」)。

 ヒュウガ・ウィルスから生還し「圧倒的な危機感をエネルギーに変える作業」に
ついてコウリーに語るジャン・モノー(「想像するんじゃない、刻みつける、…現
実を正確につくらなきゃならないんだ」「いつかぼくはニジンスキーが踊るところ
を、詩にしてみようと思うんだ」)。

 彼(女)らの語りは「アンダーグラウンド」の実質を逆転写、いや逆照射し、そ
してその語りのバックグラウンドには「向現」が潜んでいる。──五分後の世界に
おいて「向現」が象徴するものは何か。あるいは「『向現』は通貨なのだ」(130
頁)といった言葉に表現されているものは何か。

 ヒュウガ・ウィルスは何を象徴しているのか、とオクヤマは二度問う(175頁、2
44頁)。その答えは、たとえば「ウィルスは結果的に進化を触媒する」(213頁)や
「ウィルスには悪意も善意もない、結果的に、触媒の役割を果たしているだけだ」
(215頁)、「圧倒的な危機感をエネルギーに変える作業を何千回、何万回と日常的
に繰り返してきたものだけがヒュウガ・ウィルスから生還できる」(246頁、260頁)
といった言葉に表現されている。

 ウィルスは可能世界(想像)の触媒ではない。ウィルスはリアル・ワールドを象
徴している。オクヤマはまた「われわれはレトロウィルスのように救出作戦を遂行
する、…ウィルスを擬人化してはいけない、しかし、その逆は有効だ」(57頁)と
も「極端に言えばウィルスは人間を人間でないものへと変えることもできる、しか
しウィルスに悪意はない」(109頁)とも語っている。

 このオクヤマの科白は「アニミズム[ウィルスや細胞器官を擬人化してアニミズ
ムに堕すること]は知と想像力の最大の敵だ」(あとがき)や「「物語の設計図」
とも言うべき三次元のパース画のようなもの」(『五分後の世界』あとがき)、そ
して「我が内なるウィルス」としてのレトロウィルス(畑中正一氏の解説)といっ
た言葉と何か関係しているのだろうか。

 あるいは「UG兵士はシンプルな原則で生きている、…悲しい時にただ悲しい顔
をしていても事態の改善はないことを彼らは子供の頃から骨身に染みて学んできた
のだ」(237頁)とか、「人間は柔らかい生きものだ、その柔らかさ、危うさが人
間を人間たらしめている」(182頁)、そして人間は柔らかい生きものだというの
は「柔らかな思考や感受性といった曖昧な比喩ではない。皮膚や脳や内臓や血管や
血液をつくっている細胞の成分の化学的な結合の仕方が、柔らかいのだ」「柔らか
な生きものが外界からの侵入者と戦うために免疫が進化した」(223頁)といった
言葉と響き合っているのか。

 こうして、コウリーによるインタビューと見聞記で綴られたこの作品でたぶんも
っとも多くの科白を割り当てられているのはオクヤマ中佐であることが判明する。

●213●村上龍『五分後の世界』(幻冬舎文庫:1997.4/1994.3)

 7年前読んだとき、これは画期的な作品だと思った。『ヒュウガ・ウィルス』に
続いて再読して、やっとその意味が解った。言葉にするとあっけないものだが、こ
の小説はバーチャル・リアリティの技術を駆使した対戦型コンピュータ・ゲームの
言語版だったのだ。

 言語による描写こそ最古のバーチャル・リアリティ技術なのだからして、これは
物語のDNAに則った原始的な作品である。(『存在の耐えがたきサルサ』に収め
られた小山鉄郎氏との対談に『五分後の世界』の設計図が示されている。村上龍は
この対談で、作品を書き終えたとき、あえて物語を終わらせる必要がなかったこと
に興奮し、「自ら構築した世界が非常な強さを持って、僕の予測をある意味で超え
てた」ことを「宗教的な感覚」と表現している。)

 実際、この作品には至る所に分岐点がある。たとえば薬化学の研究員だった女性
作業員やマツザワ少尉、日ノ根村(非国民村)で出会ったぞっとするような美しい
女。彼女たちと小田桐との間には何事もおこらない。しかし「他人との出会いはそ
れだけで別の人生の可能性なのだ」(『最後の家族』)。

 これ以外にもワカマツや少女ダンサー、ヤマグチ、ミズノ少尉、等々、この物語
には至るところに分岐点が用意されている。そもそも本編のプレイヤー小田桐自身
が、「本土決戦を行なわずに、沖縄をぎせいにしただけで」降伏した大日本帝国の
末裔、「「無知」のままで、生命をそんちょうできないまま、何も学べなかった」
(135頁)日本人が住む世界からアンダーグラウンドへ分岐してきたのだった(物
語の「原‐分岐」)。

 『JMM』No.133(2001年9月28日)の広告を見ると、「ひとつの世界観」に対
してプレイ可能な複数のキャラクターを用意し、すべてのストーリーを体験するの
に100時間以上かかるプレイステーション2ソフト「五分後の世界」が発売されて
いるし[http://www.5min.net/]、タケウチ・ナルミというアンダーグラウンドで
「天才スナイパー」と呼ばれている青年のストーリーをあるプレイヤーと現役自衛
官がプレイした「外伝」がオンデマンドで出版されているらしい[http://www.book
park.ne.jp/5min]。

 渡部直己が解説でとても鋭い指摘をしていた。『五分後の世界』には、ひとつの
戦闘場面に五十頁もの途方もない分量を費やしたりワカマツの演奏場面やそれにつ
づく暴動を並の節度をはるかにこえてひたすら描写するといった均衡を欠いたとこ
ろがある。しかし「描写こそ、あらゆる小説家にとって、世界に対するかれらの最
大の原則でありかつ武器である」──「たんに他者や世界を描くのではなく、描く
ことそのもののなかで、他者や世界との関係を不断に組みかえる力。小説にとって
もっとも原則的であるがゆえにもっとも強くかつ扱いにくい武器[ちから]として
の描写の機能」──のだから、それはきわめてまっとうな選択であったと言うのだ。
(多世界=複数のモナドの内面世界の内包量=強度=濃度=密度そのものである描
写の力。)

 ちなみに『サルサ』での渡部氏との対談で、村上龍は「一番嬉しかったのが渡部
さんの評なんです」と言っていた。以下は蛇足で、これまた『サルサ』での畑中正
一氏との対談から。

《要するに、たまたまそうなっただけだという、考えてみれば当たり前のことをつ
い忘れがちなんです。/結局、僕が『ヒュウガ・ウィルス』で書いたことは、そう
いうことです。あの小説は極端な設定だから、「圧倒的な危機感を日常的にエネル
ギーに変えるというテーマに挑んだ」などと取り上げられることが多いんですけれ
ど、主たるテーマは、極端に言うと、ぞくぞくしたり、わくわくしながら生きるこ
とが、いかに人間にとって大事なことか、ということなんです。僕はそういうこと
を昔から言ってきたし、小説にもしてきた。『ヒュウガ・ウィルス』を書いて分か
ったことは、今まで僕が文学の側からしてきたことが、生物学の中で今いちばんホ
ットな免疫と神経系、内分泌系の相互作用ということから支持されそうだというこ
とです。》(文春文庫『存在の耐えがたきサルサ』219頁)

 してみると『ヒュウガ・ウィルス』は進化したゲーム、プレイヤーの免疫系や神
経系、内分泌系にまで作用する対戦型コンピュータ・ゲームの言語版であり、まさ
に『五分後の世界II』[ヴァージョン2]と名づけられるものだったということか。

 ついでに書いておくと、「向現」はRPGゲームでお馴染みのパワー回復剤。そ
れから、ゲームの進化は、単一のプログラム内でのストーリーの分岐に始まって、
複数のプログラムによるバトル、次いで敵方のプログラムの書き換え(コンピュー
タ・ウィルスによる攪乱)合戦へと進み、最終的にはコンピュータ間の通信ネット
ワーク自体の争奪戦へと行き着くはずだ。それが『マトリックス』の世界を超えて
いるのかどうか、コンピュータ・ゲームに打ち込んだ経験がほとんどない私には判
断がつかない。

●214●村上龍『最後の家族』(幻冬舎:2001.10)

 三時間足らずで一気に読んだ。ちょうど少し長い映画を一本観るくらいの時間。
今回はちょっとした実験を試みてみた。あくまで言葉に即して読むこと、つまり言
葉が喚起する映像を意識的に廃棄すること。たとえば登場人物の顔や情景を一切思
い浮かべないようにすること。(顔ではなく名前、情景ではなくイメージ。)

 言葉が持つ分節力に賭けて、あるいは言葉を透明な媒介として無意識の領域に追
いやるのではなく質量的な抵抗感をもった媒質としてつねに意識しながら、現実を
再構成すること。(映像に頼らず、純粋な言葉の力だけで造形されるヴァーチャル
・リアリティ。)

 時と場所を超越してつねに一つの視線へと積分される「映像的リアリティ」が非
連続を連続に変換し「物語」やこれに裏打ちされた暴力を紡ぎだすとすれば、「言
語的リアリティ」は連続を非連続へと変換し「履歴」を叙述する。《履歴書を見る
だけで恐くなるのは、そこに会社を離れた裸の自分を見てしまうからだ。》(202
頁)

 ──『最後の家族』は10月18日からテレビ朝日系の連続ドラマで放映されること
になっていて、脚本も村上龍が執筆するという。村上龍は小説とドラマ(脚本)の
違いを意識してこの作品を書いたに違いないと思う。

 2001年10月から12月までの七つの出来事を四人の家族のそれぞれの身体(視点で
はない)に即して微妙にずらせながら重ね描き、一つの家族の複数の履歴(物語で
はない)を記録する。

 四人の家族はそれぞれ家族以外の異性との間で「別の人生の可能性」(295頁)
を穿っているのだが、この四つのモナドの内部世界は一つのドラマや物語やシステ
ムへと編集されることはない。(モナドには窓がない。内山秀樹が引きこもった自
室の窓を被う黒い紙に穿った直径十センチの丸い穴は、スクリーンやテレビ画面に
開けられた穴のように、物語の外へつながる回路ではない。コミュニケーションの
通路ではない。)

 そういえば作中で一度、テレビドラマに言及した箇所があった。《殴り合いのケ
ンカをしたあとで双方が和解し、お互いに感動し合う。それはたいていラストシー
ンだ。テレビドラマでは和解のあとが描かれない。だが暴力はまた必ず起こる。暴
力のあとの和解の感動は長続きしない。もう一度和解して感動し合うためには、次
の暴力が必要になる。》(136-137頁)

 ──家族というシステム、家族という物語、あるいは「救う・救われるという人
間関係」(あとがき)に「介入」(190頁)すること、つまり分節=自立を経て、
「一人で生きていけるようになること」(285頁)。

 山内志朗氏の表現を借りるならば、目に見える〈形〉にすることで曖昧であった
〈かたち〉も明確になっていく、つまり家族という〈かたち〉は最初にありながら
──たとえば「殴らないで」(44頁)という言葉の力によって、いや端的に身体の
力を通じて──最後に現れる。だからこの小説に描写されているのは「家族の最後
」ではなく「最後の家族」なのだ。

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