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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.72 (2001/09/22)
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 □ 深谷賢治『これからの幾何学』
 □ 吉田武『虚数の情緒』
 □ 西山豊『自然界にひそむ「5」の謎』
 □ 落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』
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パースの『連続性の哲学』を読んで、数学熱が再発しました。昔、大学生の頃、期
末試験の前日に遠山啓ほかの数学啓蒙書に熱中して夜を明かしてしまって以来、間
歇的に襲われる持病です。(幸い、直前一時間前に張ったヤマが当たって試験は優
がとれました。でも、この「成功体験」が災いしてか、それ以来、何か集中して取
り組まなければならない作業に直面すると、にわかに再発するようになったのでし
た。)

数学といえば、ヘーゲルと数学、マルクスと数学(マルクスは膨大な数学草稿を残
しているという)といったあたりに関心があるのですが、最近ではノヴァーリスと
数学というテーマにすっかり心を奪われています。いま中井章子さんの『ノヴァー
リスと自然神秘思想』に熱中しているのですが、この書物に紹介されているノヴァ
ーリスの断章がとにかく素晴らしい。

たとえば「音楽的数学。音楽には結合解析学 Combinatorische Analysis に通ずる
ところがあり、逆に結合解析学も音楽に通ずるものを含んでいるのではないか」と
か「最高の生は数学である」とか「純粋数学は、宗教である」とか「[公理、証明、
などの数学用語の分析から]私たちの知の衝動が、知性の生命衝動、知的力のたわ
むれであることがわかる」とか。ついでに「実験宗教学」とか「神は総合のエレメ
ント──この操作の酸素のようなものなのではないか。(神のなかの実験──神智
学のたぐい)スピノザ主義──流出体系」など。汲めども尽きぬ濃厚なものがここ
には確かに息づいています。
 

●208●深谷賢治『これからの幾何学』(日本評論社:1998.9)

 私はそもそもの出自が文系なので(文系なのに、ではない)数学にはことのほか
関心を寄せている。たとえば数学的センスを欠いた文学者など愚物だとさえ思って
いる。

 とはいえ、そのように力んでみせたところで、数学的訓練の経験も素養も欠いた
素人数学マニアにすぎない私にとって、親しく読める数学書の範囲などたかが知れ
ている。たとえば本書のように、目もくらむような刺激を与えてくれる一般向け数
学書にめぐりあえたとしても、その客観的な価値等を云々できる資格もない。

 資格はないけれど、これだけは言えると思う。――21世紀の人類社会は、なんて
見てきたようなことを話題にしたいなら、まず本書を読むべきです。読んでも分か
らないなら、勉強すればよろしい。それが基本。子どもにはそう教えるでしょ。(
これは自戒の弁。)とにかく、この本は面白いよ。

 何がどう面白いかをちゃんと伝えられないのが歯がゆいし、その面白さの数学的
意味などまるで分かってはいないとは思うのだけれど、たとえば次の文章を玩味し
てみてほしい。──ちなみに、引用文中に出てくるデルタ関数とは、x≠0のとき
δ(x)=0、x=0のときδ(x)=∞と定義されるもの。

《集合論的世界像の中核には,点という概念がある.この点という概念こそ,素粒
子は点であるのか,という,素粒子論の基本的問題に通じる.
 場の概念の定式化を,現在の数学の枠組みの中で行えば,場は関数であるしかな
い.その場の理論の中に,点としての粒子を入れれば,それは,デルタ関数で表さ
れるしかない.デルタ関数に関する現在の数学の理解は,線形偏微分方程式に対し
てのみ有効なものであり,デルタ関数の2乗は現在の数学では理解されていない.
デルタ関数の2乗が存在しないことこそ,場の量子論の発散の困難の第一歩の現れ
である.[中略]

 20世紀後半に現れた,空間から点を捨て去るさまざまな試みが,場の理論の基本
問題への挑戦と深くかかわるべきなのは当然である.
 ホモロジー(代数)のその中での位置を次のように考えることはできないだろう
か.世界がどうなっているのか,そのからくりを理解するという(おそらく幾何学
的な)問題意識からは一歩後退し,よりプラグマティックな目標を設定しよう.す
なわち,実験・観測の結果を予言する,あるいはその結果を体系立てる理論を構成
する,ことを目標とする.[中略]

 観測の諸結果の背後に幾何学を予見するならば,ある幾何学的な圏(たとえば位
相空間の圏)があって,そこからなにか函手があり,得られるのがある秩序を持っ
た数の体系すなわち観測結果から導かれた理論とみなされるべきであろうか.背後
にある幾何学の発見を21世紀にゆずるならば,我々の現在の課題は,観測結果に体
系を与えることのできる秩序の発見である.
 ここで,「ホモロジー」の出発点を思い起こそう.ホモロジー論とは位相空間を
群で置き換えることであった.すなわち,代数的な数の体系で,幾何学的な対象を
近似することである.この近似をより精密にすれば,何らかの発展した「ホモロジ
ー論」が,幾何学的な情報をすべて含み,そして,そのようなホモロジー論によっ
て,観測結果を体系づけることができるかもしれない.
 さらに,幾何学⇒ホモロジーという矢印の向きを逆さにして,21世紀のホモロジ
ー論が21世紀の幾何学を生むことを期待できないであろうか.
 これが,ホモロジーにかけた,一数学者の夢なのである.》

●209●吉田武『虚数の情緒』(東海大学出版会:2000.2)

 数学独習者の必携本『オイラーの贈物』(海鳴社:1993)、初学者向けの可憐な
『素数夜曲』(海鳴社:1994)に続く第三弾(?)。副題が「中学生からの全方位
独学法」で、書名の英語訳は「Square root of minus one:Mathematics,Physics
 and Human mind.“Imaginative in All Directions.”」。

 ルビの振られた活字群の美しさは絶品。特に「巻頭言」は圧巻。《世の中のあら
ゆるものに「正解」が存在する,と著者は信じている.…》(巻頭言)──作者自
ら自認するとおり、希に見る「奇書」である。《脳が脳を理解する.虚数が虚数を
記述する.》(514頁)

 全千一頁の枕頭の書。頁数まで、何やら意味ありげだ。一度や二度ではとても味
読し尽くせないし、大団円に向かうあたりに批判の虫が刺激される箇所もあった(
ような気がする)。詳細の分析は他日を期す。それまでにまだ未読の『ケプラー・
天空の旋律』(共立出版:1999)を是非読んでおこう。

●210●西山豊『自然界にひそむ「5」の謎』(筑摩書房:1999.12)

 ヒトデの足はなぜ5本かという謎をめぐり、オイラーの多面体定理(V[頂点の
数]+F[面の数]=E[辺の数]+2)を経て、卵割された32個の細胞の配置をサッカ
ーボール(準正32面体)でもって説明する前編。

 後編では、被子植物で双子葉植物、つまり進化論的に高等な植物群に5弁の科数
が多いのはなぜかという5弁の謎を追って、フィボナッチ数列と黄金比を結ぶルー
ト5を一瞥しながら、バックミンスターフラーレン、略してフラーレンというサッ
カーボール型分子に行き着く。──こういう書物を私は好きだ。

●211●落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』(講談社選書メチエ221:2001.9)

 翔太は神の概念を信じるが、神の存在を信じない。インサイトは神の存在を信じ
るが、神の概念を信じない。これは永井均の著書に出てくる印象的なフレーズなの
だが、これを落合仁司流に言い換えれば次のようになる。

 普遍言語(数学)で洞察する者にとって「神の存在公理」(NBG公理系の無限
公理、あるいは完結した全体としての無限=現実的無限:本書267頁、117頁参照)
は自由な信仰の対象であるが、民族的地域的な言語で空想する者にとってはそうで
はない。

 また前者(洞察者)にとって「神の多一性」や「神の自己超越性」──ギリシャ
正教の二大教理では、神の異なる三つのヒュポスタシス(実存)は同一のウーシア
(本質)を持つとする「トリアス」(三一論)や人間はこの世界の他者(現実的無
限)である神のウーシアには接近すらできないが神のエネルゲイア(活動)には一
致しうるとする「パラミズム」──は数学的証明(神学的弁明)の対象であるが、
後者(空想者)にとっては信仰の対象もしくは端的に非合理──この世界の他者で
ある「神が人に成る」ことも「人が神に成る」こともともに矛盾──である。(「
非合理ゆえにわれ信ず」などと極めて無責任な発言をしたラテン教父もいた。ただ
しこれは落合氏の言。)

 本書を読み終えて、どうしても拭えない疑問が二つ。その一は、以前『〈神〉の
証明』(現代新書)を読んだときにも感じたことなのだが(ちなみにメチエ版の内
容は新書版のそれを超えるものではない、いやむしろ新書版の方がより「深い」も
のを示唆していたように記憶している)、そもそも「神=この世の他者=無限」や
「無限公理=神の存在公理」という等式がなぜ当然のように成り立つのかが納得で
きない。というより、この等式が自由な信仰の対象であると言われても根本的な異
和感が拭えないのだ。

 そこでは無限集合の存在を仮定することが即ち神の存在を認容することとイコー
ルであるとされ、神の「存在」が神の「概念」にすり替えられている。超在(父)
や内在(子)や臨在(聖霊)といった異なるヒュポスタシスのうちに神の「愛」(
存在の受容)を感じ、精神身体技法に助けられた「イエスの祈り」を通じて「神化」
(テオーシス)を希求するといった、落合氏がギリシャ正教に託して語る普遍的な
宗教の構造が単なる概念に堕している。

 パースは『連続性の哲学』(第一章「哲学と実生活の営み」)で、究極的に数学
へと収斂する理性(認識能力)の発展が魂のもっとも表層的で誤りやすい部分にか
かわるものであるのに対して、魂のもっとも深く確実な実質的部分をなすのは「本
能」や「感情」であると書いているのだが、「神=この世の他者=無限」や「無限
公理=神の存在公理」という等式はこの本能や感情に達しない。

 それどころか、パースがケーリーやクラインやリーマンやカントールといった純
粋数学者たちの集合が全体として発見しつつあると述べた「潜在性の世界」、理念
的で永遠的な「イデアのコスモス」にすら達していない。要するに、琴線に触れな
いのだ。

 その二は、いま述べた事柄にも関連するのだが、数理神学を標榜する落合氏の数
学観、というか方法論にかかわる疑問。カントールや現代の集合論、全数学や全近
代科学の基礎づけをめぐる本書の記述がはたして妥当なのかどうか、私には云々す
ることはできない。しかし、「集合論ほど神学さらには宗教の言葉として適切な言
語は他にない」(190頁)と断言するだけの論証を落合氏が示しているかどうかに
ついては、数学や神学や宗教学の非専門家である一読者の立場から私は納得がいか
ない。

 たとえば脳の神経回路の研究者である合原一幸氏は、『中央公論』(2001年10月
号)に掲載された松井孝典氏との対談(「カオスは脳に宿りたもう」)で「カオス
やフラクタルは本質的に無限性を内在している」と述べている。

 「数学のできない哲学者などほとんど無意味な存在なのである」(本書あとがき)
と至言を吐く落合氏であれば、数学と宗教の同型対応をもっともっと徹底的に抉り
出してみせてほしい。できれば「同型対応」そのものの本性をめぐって、たとえば
エックハルトのアナロギア論だとか、カントールの連続体仮説とパースの連続性と
の関係などを含めて論じてみてほしい。これぞ「数学的形而上学」(パース)の決
定版と言える書物を読ませてほしい。これは一読者としての心からの期待。

 それから、神学と数学はともに実験による検証になじまず(162頁)、理性によ
る論証という方法のみに依存せざるをえない(190頁)という落合氏の説に対して
も私は疑問をもっているのだが、これは「実験」の概念定義の問題に起因するもの
だと思うので、ここでは取り上げない。

 以上の二点を裏返して言えば、本書の魅力は二つある。すなわち、テッサロニキ
から聖山アトスへの旅の記憶とギリシャ正教の歴史を織り交ぜた第一章の叙述と、
全編を貫く著者の数学への思い。

 第一の点に関して思いだしたこと。村上春樹は「アトス──神様のリアル・ワー
ルド」(『雨天炎天』新潮文庫所収)で、ギリシア正教の修道院での真夜中の礼拝
を「覗き見」したときの体験を次のように記していた。

《僕は宗教全般についてそれほど多くの知識を持つ人間ではない。でも個人的な感
想を述べるなら、ギリシャ正教という宗教にはどことなくセオリーを越えた東方的
な凄味が感じられる場合があるような気がする。[略]そこにはたしかに、僕らの
理性では捌ききれない力学が存在しているように感じられる。ヨーロッパと小アジ
アが歴史の根本で折れ合ったような、根源的なダイナミズム。それは形而上的な世
界観というよりは、もっと神秘的な土俗的な肉体性を備えているように感じられる。
もっとつっこんで言えば、キリストという謎に満ちた人間の小アジア的不気味さを
もっともダイレクトに受け継いでいるのがギリシャ正教ではないかとさえ思う。》
(51頁)

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