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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.70 (2001/09/02)
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 □ 鶴見和子『南方熊楠・萃点の思想』
 □ 港千尋『洞窟へ』
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●202●鶴見和子『南方熊楠・萃点の思想──未来のパラダイム転換に向けて』
                           (藤原書店:2001.5)

 南方曼陀羅(著者は中村元が名付け親であるという)をめぐる長編評論に短文エ
ッセイ、韻文、講演録から松居竜五との対談まで織り交ぜて、同じテーマと素材が
文体と息遣いを変え何度も繰り返され、そのつど鶴見和子のオリジナルな発見の驚
きが新鮮に伝わってくる。フラクタルな編集の妙。これぞ曼陀羅、これぞ萃点の移
動。

 萃とは「あつめる」の意。だから萃点とは「あつまるところ」、交差点である。
《真言密教曼陀羅図では大日如来にあたるところなんです。つまり、さまざまな因
果系列、必然と偶然の交わりが一番多く通過する地点、それが一番黒くなる。それ
がまん中です。そこから調べていくと、ものごとの筋道は分かりやすい。すべての
ものはすべてのものにつながっている。みんな関係があるとすればどこからものご
との謎解きを始めていいかわからない。この萃点を押さえて、そこから始めるとよ
く分かるのであると言うのです。》(105頁)

 萃点(著者は熊楠の造語であろうという)は、しかし中心ではない。萃点は移動
する──「普遍性にいたる道のり」(松居竜五,154頁)を。それはたぶん、俗に
言う「視点の移動」とは違う。《回々教国にては回々教僧となり、インドにては梵
教僧となるつもりに候。》(土岐法竜あて書簡から)

 本書で示唆的だったのはパースやユングと熊楠の関係、古代論理[paleologic]
や内念[endocept](いずれも心理学者シルヴァノ・アリエティの言葉)をめぐる
議論だった。それに対して、ファジーやカオス、複雑系の理論と南方曼陀羅との連
続性の示唆は、ただそれだけだと何も言ったことにならない。パースが『連続性の
哲学』の最終章で言う「数学的形而上学」への手がかりを探求すること、たとえば
萃点や古代的=粘菌的論理を「幾何学的トピックスすなわちトポロジー」や「関数
の理論」(34頁)と絡めながら追い求めていくことが必要だ。

 補遺その一、パースやユングと熊楠の関係について。──著者によると、熊楠は
西欧自然科学の方法(因果律)と仏教の論理(因縁)を自己の中で格闘させ、「そ
のことによって必然性と偶然性とを同時にとらまえる方法のモデルを編み出した」
(105頁)。熊楠がこのモデル(南方曼陀羅)を明らかにしたのは1903年土岐法竜
あて書簡の中のことで、これは相対性理論以後の必然性のパラダイムのゆらぎに先
んじた独創的なものであった。しかし、「南方熊楠よりもちょっと前に偶然性とい
うことを言い出した人がいる」。

《それはアメリカの数学者パースです。一八九二年に“The Re-consideration on
Neccessity”(「必然性を再検討する」)という小さい論文を書いています。その
中で“real chance”ということを言っています。リアル・チャンスというのは、
人間が必然性をつかめないから偶然だと思うのではなくて、現実の中に偶然がある
ということをパースは初めて言ったんです。これはほんとうに世界の科学哲学思想
上はじめてのことだと思います。(中略)そしてもう一人、西欧の学者で曼陀羅を
真剣に取り上げたのはカール・ユングです。ユングは、無意識と意識との関係につ
いて曼陀羅をとりあげています。南方は胎蔵界曼陀羅と金剛界曼陀羅が一緒になっ
て両界曼陀羅を育成するというところから意識と無意識との関係を曼陀羅の方法論
の中にとり入れています。“Mandala Symbolism”をユングが出版したのは一九五
○年です。》(106頁)

 ちなみに、パースは『連続性の哲学』で次のように述べている。《…ここで一言、
偶然主義[tychism]、すなわち「宇宙には絶対的な偶然が、その一要素として存
在する」という説について述べておきたい。この理論に反対する人々のなかには、
科学の勝利にかんする通俗的な読み物にすっかり心を奪われて、宇宙があらゆる細
部に至るまで法則によって支配されていることは、科学によって証明されていると
本気で想像している人々がいる。彼らはおそらく神学者なのであろう。》(260頁)

 またパースは、たしかに偶然主義はわたしの形而上学の体系に含まれているが、
それは体系の真の性格(連続性)附随して導入されたものに過ぎない(262頁)と
述べている。

 補遺その二、萃点の移動について。「移動の記述法」を特集した『談』(no.60)
の「editor's note[after]」に、ベンヤミンの「星座」とパースの「アブダクシ
ョン」(仮説形成的推論。レトロダクションとも)を絡めたちょっと面白い文章が
出てきたのでペーストしておく。──都市における粘菌的論理の具現者としての遊
歩者?[http://www.tasc.or.jp/dan/backnum/no63/editor_a.html]

《コンステレーションを解読する。すべてが目の前にあるものから、ある関連性を
見つけ出さなければならない。それは夜空にランダムに散らばって見える星々が、
星座として関連づけられるのと似ている。一見バラバラに配置されているモノをあ
る法則性、あるシステムによって関連づけ直すこと。それは演繹的方法でも帰納的
方法でもない、第三の方法、C・S・パースのいうアブダクションに近い方法であ
る。

遊歩者の独自性とはなんだろうか。それは決して観察者ではないということではな
かろうか。コンステレーションを読み解くには、その世界にまず入り込んでいかな
ければならない。単にそれを外から眺めているだけでは、そこに張り巡らされてい
る法則性を見つけ出すことは困難だろう。だが、だからといって完全に没入しても
それは同じように見過ごされてしまう。木を見つつ、森も見える視点。アブダクシ
ョンのような中間的な立場に身を置くことによってのみ、それは可能になるのだ。
遊歩者とは、その中間的な位置に身を置くことではなかろうか。

ベンヤミンが言うバロックといった状態は、穴だらけでありながら閉じている状態、
この状態がまさしく中間的な立場であり、遊歩者の身体を示している。「移動」と
は、バロック的な都市とバロック的な身体の相互浸透である。その様態を表現する
カギ、記述するカギがコンステレーションなのである。》

●203●港千尋『洞窟へ──心とイメージのアルケオロジー』
                          (せりか書房:2001.7)

 洞見と洞察に満ちた知的刺激の書。本書の最大の魅力は、コスケール(1991年発
見)やショーヴェ(1994年発見)といった旧石器時代の洞窟壁画、フォンテーヌブ
ローの森の「木靴の岩」に刻まれた線刻をめぐる具象的思考や「図像的推論」(『
連続性の哲学』第六章に出てくる言葉で、パースは「幾何学的トピックス」=トポ
ロジーにおける「連続体をめぐる推論」を念頭においている)の透徹さにある。

 いや具象的というより、物質的と形容する方が適切かも知れない。第5章「脳と
洞窟」に出てくる文章を借用するならば、「ニュートンによって自然のなかから締
め出された感覚世界を、ゲーテ色彩論によって召還したハイゼンベルクの思想」(
115頁)に共鳴しつつ、イメージ生成のメカニズムを霊的物質(生命ある物質)と
もいうべきものに即して腑分けするその手つきが素晴らしいのである。(とはいえ、
本書の「唯物論」的な側面については実地に体験していただく他ないと思う。)

《洞窟は支持体や材料ではない。画像の保存容器でもタイムカプセルでもない。洞
窟は石灰岩でできた「素材」以上の何ものかである。芸術的な生命を与えられた場
であり、生きた空間である。ショーヴェ洞窟を描いた人間たちは、長い時間をかけ
てこの洞窟の物理的な特徴を理解し、しかるべき場所にしかるべきイメージを配置
し、鉱物空間に生命を付与することに成功したのである。》(187頁)

 著者はまず、イメージと美術の起源をめぐる「双方向的プロジェクション」とい
う二項関係を提示する。エルンスト・ゴンブリッチの『芸術と幻影』に典型的なイ
メージの起源をめぐる「心理学的投射」(あらかじめ頭のなかに描かれたメンタル
・イメージを外界の対象に投射)と、プラトンの洞窟の比喩やプリニウスの「美術
の起源」神話以来の、そしてデカルトの視覚の生理学(網膜に結ばれる光学像)に
もつながる「光学的投射」。

 この「まったく異なる意味に使われているように見えるふたつのプロジェクショ
ンは、実は投射の方向が違うだけで、図式としては似通っている」と著者は指摘し
ている。それらは「共に、脳と世界のあいだで起きる認知過程の、双方向を描いて
いる」のであって、「共通するのは、そこにイメージのプロジェクションが行われ
るということ」だと言うのだ。

 しかし、コスケールなど新たに発見された洞窟とその詳細な調査の結果は、イメ
ージ誕生のプロセスが「投射」よりもっと複雑なものであることを示している。こ
うして著者は、ホモ・サピエンス・サピエンスのなかにある「もうひとつの洞窟=
脳」の世界の探索へと向かう。そこで提示されるのがパースの三項関係──正確に
は、分子生物学者ホフマイヤーがパース記号論を生命論に応用した『生命記号論』
──である。

《因果律は論理空間として見れば、二次元である。パースは二項関係で記述できる
世界は、あまりに限られていると考え、「原因─結果」に対する第三項として「観
察者」を導入した。三項になると系は分岐することが可能になる。原因─結果─観
察者の三項関係は、分岐しながら多次元の論理空間を作ってゆく。パースの考える
三項論理としての記号は、人間の「経験」を考える際にきわめて有効である。》
(125頁)

 著者の議論はさらに、洞窟芸術の動体写真(クロノフォトグラフィー)を思わせ
る動体描写や重ね描きのうちに「連続性」の感覚や遠近感、つまり「時間的=四次
元的パースペクティヴ」を見て取り(185頁)、アフォーダンスの概念を踏まえつ
つイメージの概念の転換(表象から運動へ)を図り(200頁)、「洞窟とは身体化
された心である」(204頁)と喝破し、最終章「変身の力」では、「内在光学 ent
optic 」をめぐる議論(234頁)を経て「予感の力」や「触覚記号」、「内なる文
字」(カネッティ)へと説き及ぶ。この目も眩む叙述の連続に接して、もはや言葉
はない。いずれにせよ、本書は当面の私の関心に引き寄せた以上の「要約」では汲
み尽くせない可能性を孕んでいる。

 余録の一。『週刊読書人』(2001年8月31日)での中沢新一氏との対談「思考の
臨界点を超えて」で、著者は「洞窟を発見したのは子どもが多いんです」と語って
いる。《子どもはイメージを変容する力のあるもの、変身を体得したもので、この
世界の法を崩壊させてしまうから危険な存在でもあります。》

 また、『洞窟へ』の刊行とほぼ同時に発見されたラスコー以前の線刻画をめぐっ
て、ここには人間の「現在」があると語っている。《今これを見て感動できる僕ら
の心は、三万五千年前から変わっていない。それが唯一、僕らが信じられる「現在」
じゃないかと思うんです。》

 余録の二。上記対談での著者による自著解説。《起源が刻印された小さなフィル
ムを発見し、そこに強い光を当てると、不思議なことに過去の生活が全部見えてく
る。このカメラの図式が、西欧的な思考、世界の見え方を強く拘束してきた。それ
は二重の意味でアルケオロジックな視線です。それを踏まえた上で、プロジェクシ
ョンじゃない見方もありうることを明らかにしようとしたのが、僕の採ったアプロ
ーチでした。

 具体的に言えば、神経細胞選択説がとなえるような「選択」であり、バタイユが
考えたような「変質」です。モノがゆっくり腐っていく。腐っていくというプロセ
スは、プロジェクションではない。透視図法では描けないような、もうひとつのイ
メージの変容過程です。それを描こうとしたのがバタイユでした。そうした「変質」
あるいは「選択」によって、もうひとつのアルケオロジーが可能になるのではない
か。》

 ──ここで私が想起したのが、幾何学的メトリックス(計量論もしくはユークリ
ッド幾何学)と幾何学的オプティックス(射影幾何学もしくは透視幾何学)と幾何
学的トピックス(トポロジーもしくは「内在的幾何学」)をめぐるパースの議論だ。

《トピックスが扱う主題とは、連続体の各部分の結びつきの様相についてである。
したがってこの幾何学的トピックスこそ、哲学者が連続性について幾何学から何事
かを学ぼうとすれば、まっ先に研究しなければならないものということになる。》
(『連続性の哲学』232頁)

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