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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.7 (2000/10/09)
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やっぱり、「文章」を読むなら官能系(エロティシズム、もちろんポルノグラフィ
といってもいい)に限る、私の場合。──オクタビオ・パスは『二重の炎 愛とエ
ロティシズム』(井上義一他訳,岩波書店)で、エロティシズムと詩との関係をめ
ぐって次のように書いています。(こんなのを読んだら、うかうかとエロティシズ
ムなど語れなくなってしまうし、それをめぐって文章など書けなくなってしまう。)

《エロティシズムとは肉体の詩であり、詩とは言語による性愛であるといっても過
言ではない。この両者は対立しながらも、互いに補いあっている。意味を伝える音
声であり、形のない観念を表す物質的描線である言語は、感覚というこの上もなく
移ろいやすくとらえがたいものに名前を与えることができる。一方、エロティシズ
ムというのは、たんなる動物的性愛ではなく、儀式、演技なのである。エロティシ
ズムとは変容した性にほかならず、その意味では隠喩である。性的行為と詩的行為、
この両者を付き動かしているのは想像力である。想像力には性を儀式と典礼に変え、
言語をリズムと隠喩に変える力が備わっている。詩的イメージは対立する現実の抱
擁であり、押韻は音声の交接である。詩ははたらきそのものにおいてすでにエロテ
ィシズムであり、それゆえ世界と言語をエロティックなものに変容させる。》

というわけで、今回は、いずれも読みかけのまま中断していた文庫本二冊で、私が
愛読してやまない二人の日本人と一人の仏蘭西人を取り上げます。このうち山口椿
さん(作家、画家、チェリスト)は、数年前『entre nous─ここだけの話ですが』
(徳間オリオン文庫)を読んで驚嘆して以来、密かなファンを自認してきました。
「山口椿の世界」には「この人のことは、一言では語れない」とあって、「徐々に
怪しげな雰囲気は出していきたいと思っている」とも書いてあって、とても楽しみ。
「同士の多からんことを切に願う」という呼びかけに応じられるほど読み込んでい
るわけではないけれど、澁澤亡き後、山口椿の存在は実に心強い。
☆「山口椿の世界」[http://www5a.biglobe.ne.jp/~maoniao/tubaki/01.html]

ところで、これは『雪香ものがたり』を読んでいて思い出したことなのだけれど、
大正昭和と江戸に挟まれた明治時代の文章群には、どこか官能的な匂いがたちこも
っているように感じてきました。手軽な文庫本や図書館にある校訂済みの全集や、
もちろん『青空文庫』などで読んでもそうなのですが、できれば新本の独特の匂い
に包まれて、それも挿絵つきで読むと、実に新鮮かつ鮮烈に官能的だと思う。(な
んといえばいいのか、たとえば言葉が物質(異物)となって、文章のテクスチャア
(肌目)が情感を伴って唯物論的にたち騒ぐとでも?)そういえば、坪内祐三さん
が編集人をつとめる『明治の文学』全25巻(筑摩書房)の刊行が始まっているよ
うで、これはいつか実物に接してみなければなるまい。以上、余談として。
 

●11●山口椿エロティシズム・コレクション2『雪香ものがたり』
                      (祥伝社文庫:1999.9/原著1990)

 文庫版解説「美でもあり、ポルノでもある」で、三枝成彰氏が「この小説はなに
よりも「細部」がすばらしい」と書いている。確かに。江戸情緒漂う情景描写に竹
本、清元、新内、めりやす(独吟の長唄)と随所に挿入される江戸音曲、切ないま
での語りの律動、ある意味で退屈な情愛の反復が様式美を醸し出す文の肌目(テク
スチャア)、そして何よりも雪香の尋常を超えた美の描写。何もいうべきことばを
もたいないが、雪香にふゆ、花千代に美弥が入り混じっての「芙蓉月(SETTEMBRE)
」から旦那の里見の死、そして零落、死の淵を彷徨って、やがて北の地へ向かう終
章までが淫靡酸鼻にして痛切。

●12●アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ『ボマルツォの怪物』
                     (澁澤龍彦訳,河出文庫:1999.2)

 久々の澁澤! 久々のマンディアルグ! この二人の文章は(後者は翻訳で)か
つてほとんど読み尽くした。本書も大和書房版で読んだし、所収の「イギリス人」
(抄訳)も完全版を(確か白水社版で?)読んだ。「ボマルツォの怪物」でマンデ
ィアルグは、モニュメントとは何かと問うている。装飾? 備忘録? いやモニュ
メントとは異物なのだ。それらは周囲の空間を強制し、狂わせるのだ。マンディア
ルグの流麗な文章に運ばれて、読者は古代エトルリア人の族長が支配していた首都
タルクィニアの古墳群からボマルツォの「残酷」彫刻たちへ、そしてミケランジェ
ロに発する巨像や大建造物の歴史、ボマルツォの来歴をめぐる推理へと案内される。
《もっぱら恐怖や感覚の混乱を醸成するために彫られたかに見える、あれらの彫像
たちには、装飾というよりも、むしろもっと積極的な役割があったのではなかろう
か。こっそりと残酷な行為を演ずるにはまことに打ってつけな、この秘密の場所は、
もしかしたら、大きな声では言えないような或る目的のために造られた場所ではな
かったろうか。》マンディアルグはこの文章のすぐ後でサドのイタリア旅行にふれ
ているのだが、それは本書に収められた短文「ジュリエット」へとつながり──
《もしサドがもう少し唯物論者ではなくて、道徳の代数学あるいは弁証法にみずか
らを限定していなかったならば、ジュリエットはあの否定しがたい魅力をもった悪
の天使であることを越えて、さらに人間によって想像された最も愛すべき魔女とし
ての肉体や顔を具現することができたかもしれない。》──、終章で再び取り上げ
られるモニュメントの概念をめぐる考察は「異物」「海の百合」へとつながってい
く。(編訳者の技の冴え!)いまひとつの短文「黒いエロス」は、私がもっとも好
きな文章の一つで──たとえば、とりたてていうほどもない次の一文。《ともあれ、
エロティックの空間は暗黒の領土なのである。これだけは私たちにも確信すること
ができる。あるいはむしろ、このことによってしか、私たちはこの空間を想像する
ことができないのであり、この空間はこの精神(色が精神であることは、大洪水以
前から知られていた)との関連においてしか、私たちの興味を惹き得ないのである。
》──、ここにはかのピエール・ルイスへの言及──《…ピエール・ルイスやポー
ル・アダンの時代には、痩せっぽちの知識人たちが理想的な古代ギリシアを夢みた
のであり、そこでは彼らの虚弱な肉体が、サチュロスにふさわしいような壮挙をも
自由に為しとげることができるように錯覚されたのであった。》──も見られる。
本書を読んで再読したくなった書物。たとえばメリメ短編集『エトルリヤの壺』、
デュラスの『タルキニヤの子馬』、ロレンスの『エトルリヤ紀行』、澁澤の『ヨー
ロッパの乳房』等々。こうして「文章」は「文章」へと(官能的に?)つながって
いく。

 余談。私はほんとうに抜き書きが好きだ。気に入った文章を書き写しているとき、
至福を感じることさえある。(ましてやそれが澁澤やマンディアルグの文章なら!)
新潮社の『波』(2000年8月)に掲載された対談「福田和也×江國香織/『朗読者』
をめぐって」で「抜き書きの快楽」が話題になっていた。とても共感した。ただ二
人とも機械ではなく手で書くといっている。実はこれにも共鳴したのだけれど、私
の場合は機械を使う。その方がたくさんの抜き書きができるからだ。でも時々はペ
ンを使うこともある。(どうでもいい話題。)──この対談で福田氏が、イギリス
の近代文学は同じことしか書いていない、それは土地の相続問題だ、ドイツはほと
んど山の話、フランスは金の話、アメリカはよくわからないが基本的にはお化け、
怪物なんだと思う、日本はまだ決められない、と語っている。これはちょっと面白
かった。もしかすると日本の近代小説の場合は都市の話、女の話なのかなと思った
りしたけれど、これはまだ浅い。以上、蛇足として。

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