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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.69 (2001/09/02)
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 □ パース『連続性の哲学』
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『連続性の哲学』は私にとって昨年暮れに読んだアリストテレス『心とは何か』以
来のヒット作で、以前からうすうすと感じてはいたものの、パースの明晰でいてど
こか謎めいた思考の襞のうちには、何かしら途轍もない世界を発生させる巨大かつ
深甚な「潜在性」が孕まれているように思います。

そこで、二度、三度、以下無限に続く通読を重ねながら、要約や思いつきを書き並
べたノート、とりあえず「パースペクティヴ──『連続性の哲学』を読む」とタイ
トルをふった個人的なノートを作成して、私自身の「哲学の問題」(パースがいう
「数学的形而上学」)を考え続ける手がかりを探ることにしました。[*]

以下の三篇は、そのサンプル(というか、手控え)を兼ねています。(長くなった
ので、二回にわけます。)──この他にも、たとえばホフマイヤーの『生命記号論
』やCh.ハーツホーンの『ホワイトヘッドの哲学』などのパース関連本を取り上げ
たかったのですが、これはまた別の機会に(あるいは上述のノートで)。ここでは、
後者の冒頭に掲載されたホワイトヘッドのハーツホーン宛書簡から、一部を抜き書
きしておきます。(ちなみに、ハーツホーンはパース著作集の編者でもある。)

《来たるべき世代では、アメリカこそが注目に値する哲学の中心地になるにちがい
ないと、私は密かに思い続けてきた…。(中略)アメリカのルネッサンスを生み出
す原動力になったものは、チャールズ・パースとウィリアム・ジェイムズだと、私
は考えております。ウィリアム・ジェイムズはプラトンに比肩できますし、チャー
ルズ・パースはアリストテレスに比肩できます。》(松延慶二・大塚稔訳,行路社)

ついでに書いておくと、パースは自ら「徹底して、一個のアリストテレス主義者」
であると自認しています(『連続性の哲学』12頁)。ただしそれは、科学と実践を
混同した古代ギリシア人、とりわけ哲学の実践的役割を大きく見誤ったプラトンに
対する、非ギリシア的精神の人・アリストテレスの知の三分法に関してのことです。
いずれにせよ、パースがプラトンに対してもつ「複雑な感情」(37頁)には、慎重
な対応が必要なのですが、これはまた別の話題でした。

* この作業そのものはこことは別のところで、孤独に気ままに進めていって、いつ
の日にか一応のまとまりが出来たなら目立たぬように(というか、もともと目立っ
ていない)HPに掲載して、個人的な落とし前をつける所存なのですが、もしかし
て読者のなかに関心をお持ちの方がいらっしゃって、いつ始まるかも分からず、そ
もそも企画倒れに終わってしまうかも知れない進行形のノートを見てみたいものだ
と思われたなら、私あて個人的なメールをいただければ、こっそりとお送りします。
 

●201●パース『連続性の哲学』(伊藤邦武編訳,岩波文庫:2001.7)

 パースに倣って、本書の「三項」構成、すなわち「推論」と「事物の論理」と両
者の関係(カテゴリー論)を「縮減」的に概括しておこう。(この contraction
というニコラウス・クザーヌス由来の言葉は、本書の肝の部分で使われていた。
《そのような一切が普遍であり何も個物でないような存在の、潜在性の曖昧さが縮
減するにつれて、諸形相の世界が出現するのである。》(256頁)──そういえば、
同じ岩波文庫から『連続性の哲学』と同時に刊行されたのが、クザーヌスの『神を
観ることについて 他二編』だった。編集の妙!)

 第一項。パースは『連続性の哲学』第一章で「諸科学の分類」を試みている。諸
科学をその対象の抽象度に応じて序列化するコントの分類原理に従い、「数学」─
「哲学(論理学─形而上学)」─「特殊諸科学(法則的科学─分類的科学─記述的
科学─技術)」という系列を提示した上で、すべての科学はより抽象的なものへ、
つまり形而上学へ、次いで論理学へ、そして「数学という中心」へ向かってゆっく
りと、しかし確実に収斂していくとパースは述べている。この探求の論理が演繹・
帰納・仮説形成的推論の三つの推論であり、関係項(述語関数)の論理学である。
それでは当の数学はどこへ向かっているのか。それは「実在する潜在性」あるいは
「イデアのコスモス」である。

 第二項。具体的なものから抽象的なものへと向かうこのような「科学の歴史」、
つまり認識活動の歴史とパラレルな関係を切り結ぶのが事物の論理であり、第六章
で論じられる存在の歴史、つまり「進化の過程」の問題だ。この最終章には、とり
わけ美しい文章がちりばめられている。たとえば「多数世界」もしくは「可能世界」
と「現実世界」をめぐる次の文章。(ただし、ここに出てくるプラトン的世界云々
は、「潜在性」をめぐる本書全体の叙述を踏まえて読まれなければならない。)

《原初の連続性からは、…相互作用するシステムが多数出現することができる。そ
して、これらのシステムのそれぞれがまた、…さらに大きなシステムを形成し、そ
のなかで元の線は個体性を溶融させていくことであろう。

 このようなことはすべて、現存するわれわれの宇宙の秩序について述べたのでは
なく、プラトン的な世界について述べたものであることを忘れないでほしい。こう
したプラトン的世界は、それ自身がひとつのシステムとして互いに並行し、あるい
は階層をなす形で、多数存在していることになる。そしてこれらの多数のプラトン
的世界にひとつから、最終的に分化し具体化してきたものが、われわれがたまたま
存在している、この現実の宇宙ということになる。》(266-267頁)

 第三項。パースは、「われわれが何かを理解しようと試みるとき──何かを探求
しようとするとき──、そこには必ず、探求の対象自体が、われわれが使用する論
理と多少の相違はあっても、基本的には同一の論理に従っているという想定が前提
されている」(254頁)と述べている。ここで言われているものこそ、探求(推論)
と事物(存在)を通じる論理、すなわち第一性(質)、第二性(関係、作用・反作
用)、第三性(表象)というカテゴリーの三肢構造に他ならない。

 パースの「見通し」にはさらに大きな仕掛けがあって、それは、感情や本能とい
う「魂の実質的部分」(20頁)をなしているものと「魂の部分のなかでもっとも表
層的で誤りやすい部分──理性」(46頁)による認識活動との関係をめぐる、パー
スのプラグマティシズムの根幹にかかわる(と私は思う)議論である。──それに
しても、パースは深い。

 補遺の一。訳注(282頁)によると、「形而上学は論理学を導きとして、存在者
一般が本来どのようなものである「はずであるか」を仮説的に推測し、その妥当性
を将来の科学的検証に委ねるというのが、パースの根本的な形而上学観である」。
パースはまた、トポロジーにおける連続体についての推論を形而上学に適用した「
数学的形而上学、あるいは宇宙論」(275頁)の研究が、精神の新しい陶冶のため
にもっとも有効であると述べている。

 私は、パースがいう形而上学の仕事(数学的形而上学)を「実験数学」という言
葉でもって考えたいと思っている。それは、パース自身が演繹・帰納・仮説形成的
推論の三つの推論の作業を実験過程として説明していること(54〜58頁)──そこ
では、仮説形成的推論は思考実験そのものであるとされている──、あるいはドゥ
ルーズが『差異と反復』で「世界は、神が計算しているあいだに、「できあがって
くる」」(訳書333頁)と書いたことなどを念頭においたものだ。

 実験数学の探求は今後の課題として、ここでは『現代思想』(1997年8月)所収
の鼎談「二〇世紀の数学」での上野健爾氏の発言を二つ引用しておこう。

《有限離散数学というのは確かに解けてみないと、その問題が易しいのか難しいの
か分らない。非常に具体的でとっつきやすいので、即、実験数学として簡単にでき
るんだけれども、しかし、それを一般の人がやろうとすると非常に難しくなる。私
は、離散的なものは今の数学では十分に扱えなくて、結局、いつでも無限にもって
いって連続的なもので離散的なものを近似しているのではないかと思います。》

《…リーマンは、有名な講師資格講演「幾何学の基礎をなす仮説について」の中で、
連続的な空間では距離を人為的に入れることができ、それが現実の物理的な空間と
一致するか否かは実験によらなければならないとのべる一方で、離散的なものはそ
れ自身で構造を持っていて連続的なものとは違うとのべています。おそらく素数の
ことが念頭にあったのだろうと思うのですが、離散数学の難しさは、構造が隠され
ていて見えないということだと思います。》

 補遺の二。『現代思想』(2000年10月臨時増刊号「数学の思考」)所収の「知覚
の数学、あるいは意図と場の力学系」で、松野孝一郎氏の関心──ショウ他による
知覚‐行為循環における「変換」の指摘は、チャールズ・サンダース・パースに依
る──に答えてロバート・E・ショウ(生態心理学/生態物理学)は次のように述
べている。

(以下の引用はその導入部のみ。このインタビュー記事にはこれこれ以外にも、ス
トア派の論理は「if〜,then〜」という仮説論理ではなく「since〜,then〜」とい
う「随伴理論 adjunctive logic 」であるとか、ジェームズ・ギブソンの知覚理論
を触覚に応用した「接触多様体 contact manifold 」の理論とホワイトヘッドの「
抱握(プリヘンション)」やライプニッツのモナドロジーとの関係など、刺激的な
議論に満ちている。)

《これらのカテゴリー[パースの三つの形而上学カテゴリー]は、経験を論理的で
理解可能なものにするために必要とされました。「質」(quality)というのが第
一性もしくは自発性(spontaneity)で、「反応」(reaction)が第二性もしくは
現実性(actuality)、「関係性(表象)」が第三性もしくは可能性(possibility)
です。これらの三つに加えて、私自身は、「第四性」を加えるべきだと主張したい
と思います。第四性とは、システムのテレオノミカルな(teleonomisally:目的的
な)自己組織化、もしくは「意図性」(intentionality)のことを表しています。》

 ──ここで私が想起したのが、中沢新一氏が『バルセロナ、秘数3』で紹介して
いる西欧思想史の二つの流れ、すなわちプラトン、デカルト、ニュートン、アイン
シュタインなどの「3の信棒者(トリニタリアン)」とピタゴラスやカント、ゲー
テ、ショーペンハウアーといった「4の信棒者(クォータナリアン)」のことだ。
(ついでに書いておくと、私自身は、第五性まで考えないと「三」と「四」との「
ねじれ」た関係は解けないと考えているのだが、これはもはや妄想の類だろう。)

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