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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.68 (2001/08/25)
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 □ 三浦俊彦『可能世界の哲学』
 □ 和田純夫『量子力学が語る世界像』
 □ 佐藤文隆『物理学の世紀』
 □ 渡辺慧・渡辺ドロテア『時間と人間』
 □ ピーター・バーンスタイン『リスク』
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●196●三浦俊彦『可能世界の哲学』(NHKブックス)

 このところ可能世界という語彙に執心している。本書は以前にも概読したことが
あって、そのときは「ロジカル・ハイ」という言葉が気に入ったのと巻末のブック
ガイドが重宝だったことを(というより、それだけを鮮明に)覚えている。「論理
学と数学は、一度は腰を据えてハードな教科書を読み通すことが大切です」とか「
眩暈の感覚こそが知的陶酔の唯一の入り口なのです」といった印象的なフレーズは
今でも頭のなかに残っている。(続編の『論理学入門』を続けて読んでいるのだけ
れど、その序文に書いてある「ロジカル・ハイの論理的解放」の境地を予感すると
ころまではなかなかたどりつけない。)

 「哲学の究極の問い」、つまり「なぜこの世は他ならぬこのようであるのか?」
という問いに、起こりうることはすべて起こっているとする可能世界の実在論(デ
ィヴィッド・ルイス)は完璧な答えを与えてしまったようだと著者は書いている(
193頁)。それでも残る問題、つまり「僕はなぜ存在しているのだろうか、なぜ存
在しないのではないのだろうか?」「なぜ私は意識を持たぬものではなく意識を持
つものとして存在しているのか?」といった問いについても、可能世界論にはこう
した自己存在の謎(個体原理としての「このもの性」)を直観的に解決する偉業を
成し遂げる力があるだろうと書いている(200頁)。そしてこの「意識と自己の問
題」をめぐって、「論理空間の自己言及、もしくは論理の自意識とも言うべきシス
テムとしての心」や「物質の非物質的結合、いわば論理的結合の特殊パターン」と
しての心といった独自のアイデアを提出している(232頁)。しかし私はこれらの
議論に接して、まったく「眩暈の感覚」を覚えなかった。

 最近、可能世界を特集した『哲学8』(1989年秋)で丹生谷貴志氏の「『経験論
と主体性』をめぐるノート」を読んでいたく刺激を受けたのだが、そのエピグラム
に、ポール・ヴァレリーの「驚くべきことは、この世界が存在するということでは
なく、世界がこのようであってほかのようではないという事実なのだ」(『覚書と
余談』)と、ウィトゲンシュタインの「神秘は、如何にしてこの世界が存在するか
という点にあるのではなく、世界がこのようなものとして存在しているという事実
にある」(『論理哲学論考』6.44)の二つの文章が掲げられていた。

 これらはそれぞれヴァレリーの問いでありウィトゲンシュタインの問いなのであ
って、三浦俊彦の問いではない。第一それらは「意識と自己の問題」や物質と心の
問題などとは何の関係もない。だからこれらの「驚き」や「神秘」は、三浦俊彦の
「可能世界の哲学」──「不可解の念や割り切れなさのまとわりつくあらゆる主題
からその感じを払拭しようと努力する行為が哲学であるとするなら、可能世界論は
まさに哲学を達成している」(231頁)──によっては答えを与えることができない。

●197●和田純夫『量子力学が語る世界像』(講談社ブルーバックス)

 『可能世界の哲学』巻末のブックガイドで「量子力学の多世界解釈については、
なんといっても和田純夫『量子力学が語る世界像』が群を抜いて啓発的でした」と
紹介されている。数年前にも一度、埴谷雄高の「死霊」九章や池田晶子の『オン!
埴谷雄高との形而上対話』などに続けて読んだことがあって、とても感銘を受けた
記憶がある。最近、新装版が出た竹内外史著『集合とはなにか』と並ぶ、私の「ブ
ルーバックス」ベスト・テンの有力候補。(中身のない報告でした。)

●198●佐藤文隆『物理学の世紀』(集英社新書)

 本書を読んでいて、ふと、現代物理学の歴史は神の観念をめぐる思考の展開過程
をなぞっているのではないか、という妄想めいた仮説が頭をよぎった。

 その趣旨は、ひとつには字義どおり、X線と放射能の偶然の発見にはじまる二十
世紀「物理帝国」の興隆と成熟と退場(?)のプロセスが、文字以前から古代、中
世、近現代へと至る人類の神学的思考の全プロセス──より限定すれば、神の受肉
と福音によってはじまり、旧約聖書(=古典物理学)を包摂したキリスト教神学の
古代、中世、近現代へと至る展開の全プロセス──を反復的に表現しているのでは
ないか、ということだ。

(両者の歴史は、あたかも個体発生と系統発生の関係のような相同性をもっている
のではないか、といいかえてもいい。もっとも、いずれが個体発生しいずれが系統
発生したのかは、必ずしも自明ではないように思う。)

 あるいは、現代物理学における宇宙論と神学的思考における神話(形而上学)が、
「物語」という形式において共通していることには何かしら奥深い関連性があるの
ではないか、といった意味において物理学と神学の関係を問題にすることもできる
だろう。

 さらにいえば、物理学的探究の対象と神学的思考の素材との関係──光と音響と
電気、つまり雷がユダヤの神の原像であったことや「光あれ」という原初のことば、
エーテルや電磁波や放射能が何かしら精霊的存在を思わせること、そしてE=mc
^2 と神のエネルゲイア、超伝導と天使的コミュニケーションとの関係、等々──
をめぐって、そこには何かしら不可思議な通路が介在しているのではないか、とい
った感覚的な次元においてこの「仮説」をとらえることができるかもしれない。

 なお、「物語」としての宇宙論をめぐって、佐藤氏は本書で、「森羅万象は多様
で猥雑で捕らえどころがない。そういう心性が宇宙論を求めさせる」のであり、「
科学も「物語」を豊かにする一つの営みである」と述べている。

 また、かつてのローマ帝国の支配がその版図を越えて、文化や社会制度のかたち
で後の歴史に浸透していったように、二十一世紀の物理学は、すべての自然現象を
普遍的に説明し尽くす法則による帝国的支配や版図の大きさを誇るのではなく、“
ものの見方”という「軽快でハンディ」なかたち(最低限の法則性)での知的影響
力を文化世界に及ぼしていくことになるのではないかとも述べている。

 その際、物理学の“ものの見方”がどのような宇宙論(物語)を構築していくこ
とになるか、いいかえると物理学の“ものの見方”が「この現実の背後に何を見る
か」が肝要であり、佐藤氏によれば、それは時空の観念にかかわるブレイク・スル
ーを通じて完成する。

《近代化した社会で、人々があまりにも物理学に支配されているのは時間と空間に
関する観念である。原子からクォーク、レプトンまでつきとめたのが二十世紀の物
質の理論であったとすれば、二十一世紀には古典的な相対論と物質の量子論を統一
する、時間と空間の目の覚めるような“ものの見方”が完成すると想像する。》

●199●渡辺慧・渡辺ドロテア『時間と人間』(中央公論社)

 渡辺慧氏が本書で提示する「時間的に嵌め込まれたミンコフスキ空間」のアイデ
アは刺激的である。──まず「ミンコフスキ空間」とは客観主義的な世界観を表現
するもので、空間内の各点(四次元点)がそれぞれ何らかの物理的事象に相当する。
このような世界の構図の中では未決定のものは皆無であり、「今」も「生成」も無
いし真の意味での主体もしくは観察し行動する心を容れる余地も残されていない。

 渡辺氏はそこに未来と過去の区別を導入する。つまり「創造的時間」の概念を導
入し、われわれの意志の方向の下に未来の創造を考えることができる世界観を提示
するのである。そしてこのような状況を幾何学的に表現できるのだろうかと問う。

《答えは否である。しかし、次のような構図を描いてみれば、真の状況のもつ本質
的な特徴の多くはそこから落ちてしまうにせよ、状況を視覚化するある種の助けと
することはできるのではなかろうか。(人間の)世界線の各点にあって、その世界
点とその原点とが一致し、しかもその時間軸が当の世界線に接するようなミンコフ
スキ座標系を定義することができよう。すると、その世界線上のある世界点におけ
る座標系から、他の世界点における座標系へと、ローレンツ変換で移行することが
できる、これが、その人間に付随した、そしてまたその人間とともに運動する座標
系である。ただ、時間の原点は移ってしまうので、時間が各世界点から勘定される
ことになる、という奇妙な事態はある。各座標系は、その世界線上の一つの固定さ
れた世界点から測られた、その座標原点の固有時間値を使って同定することができ
る。さて、仮にここで、これら同一世界線上のすべての座標系を重ね合せ、同じ座
標系どうしを一緒に重ね、原点を一緒にしてみたとしよう。すると、見かけ上は通
常のミンコフスキと同様の四次元座標系が得られる。ただ、その解釈は全然違って
いるはずである。この新しい空間に名前を付けるとしたら、さしずめ(時間的に)
「嵌め込まれた」ミンコフスキ空間といったところだろうか。》

《この嵌め込まれた空間を使って、働きかけるべき世界をこのように視覚化した場
合に、主体はその構図の一部なのか否か、という解答不能の問題がある。これは彼
によって、働きかけるべき世界である、ということにされたのであるから、彼自身
はその構図の中にいられるはずはない。けれども、また一方では、彼はその空間の
原点に位置するという表現を使った。これは不可避のジレンマである。(略)
 しかし、これだけのことは言うことができよう。人間(あるいは他の何の能動体
でもよいが)の肉体的延長は有限である。その神経系もまたある有限な空間を占め
ている。神経刺激の伝達も有限の時間内に行われる。心理学的な「現在」というの
も、ある物理的に有限な時間領域をもっていることも、心理学的に確かめられてい
る。このゆえに「ここ─そして─今」というものを、嵌め込まれた空間の原点付近
のある有限な空間として描く方が、事実に即している。》

 渡辺氏はここでいう「ある有限な空間」の距離を、「現在の時間的持続の大きさ
のオーダー」[0.01秒]×「信号の速度(光速度)」[3×10exp [10] cm/秒]
の計算式により3,000km としている。

《これは結構大きな値である。(略)こうしてわれわれは、事象は至るところで起
っているが、しかし現在起っている事象は何か特別リアルなものであって、過去よ
りも未来よりもリアルなのだ、という拭い難い感覚をもってしまう。常識としてば
かりでなく、尊敬すべき哲学者までが、この幻想から逃れられないのである。同じ
理由から、現在のデータを基にして行われる予言は信用のおける行為だと信じられ
てきたのである。現在のデータなどというものは、上に述べたような曖昧かつ限定
された意味において以上に、実際には知ることのできないものなのだということを、
誰も気づかなかったのではあるまいか。》

●200●ピーター・バーンスタイン『リスク 神々への反逆』
                       (青山護訳,日本経済新聞社)

 訳者あとがきによれば、著者はアメリカの投資社会で「賢人」と呼ばれる現役の
投資顧問。一読して、実に刺激的かつ深く濃い内容に満ちた書物、として記憶に止
められることになるのではないかと予感させるものがあった。本書前半の記述から、
いくつか素材を拾っておく。

 われわれが生きている現代と過去何千年もの歴史との一線を画する画期的アイデ
アは「リスク」の考え方に求められる、と著者は書いている。未来を現在の統制下
におくこと、つまり将来何が生起しうるかを定義し、代替案の中からある行為を選
択するリスク・マネジメントの能力が、現代社会の中核に存在するというのだ。

 著者によれば、本格的なリスクの研究が開始されたのはルネッサンスの頃なのだ
が、リスクの現代的な考え方のルーツは、ヒンズー‐アラビア式の数字システムに
ある。そしてこのことが、ルネッサンス以前になぜリスクの考え方が登場しなかっ
たのかを説明してくれる。

《もしギリシャ人が、彼らの知的な子孫であるルネッサンス期の人々が何千年も後
に発見する確率論のことを当時から予知していれば、今日の文明はさらに進化して
いたかもしれない。(略)最も重要なことは、ギリシャ人は自らの行動結果を記録
することはできても、計算することができるような数の体系を持っていなかったこ
とである。》

 ところで、アラビア人の高度な数学知識をもってしても、確率論やリスク・マネ
ジメントの議論にまでは踏み込めなかったのはなぜか。

《けだし、その答は彼らの人生観と関連している。(略)リスク・マネジメントの
考えは、人々がある程度自由な振る舞いができると信じた時に芽生えてくる。ギリ
シャ人や初期のキリスト教徒と同様に、宿命を信じるイスラム教徒がその段階に到
達するには未だ早すぎた。》

《漠然とした蓋然性を系統的な確率概念に置き換えるというラジカルな考えを生み
出したり、未来は予測可能だし、未来をある程度はコントロールできるという考え
方を示唆したのは西洋人だけだった。しかし、その西洋人でさえアラビア数字だけ
ではそのような考え方には到達できなかった。アラビア数字を超えて西洋人がラジ
カルな考え方に到達するには、人間は与えられた運命に対して全く無力というわけ
ではなく、現世での宿命は常に神によって決められているわけではないことを悟ら
ねばならなかった。
 ルネッサンスと宗教改革がリスクの謎を解明する機会を与えた。》

 私なりに要約しておくと、第一に、リスクの観念は、時間に対するある特異な意
識の上に成り立つものである。それは過去と未来が現在のうちに織り込まれている
ような(無時間的な)それではなくて、過去と未来が鋭く斬り結ぶ裂け目のうちに
現在を位置づける時間意識でなければならない。第二に、確率概念を基礎とした統
計学的‐計量的アプローチによるリスク・マネジメントは、徹底した抽象化の上に
成り立つものである。

 ピュタゴラス的な数秘術[numerology]やカバラのゲマトリアが、それぞれ幾何
学的な形やヘブライ文字と結合した数の表記システムに固有の象徴的あるいは魔術
的な解釈術(既知のもの=普遍的なものの「予言」ならぬ「遡言」術)として編み
出されたものであるとするならば、ヒンズー‐アラビア・システムが切り開いた世
界は、「簿記と予測」の二つの活動によってもたらされる脱神秘主義的な資本主義
だった。

 ギリシアの古典古代とルネッサンス以後の近代との二千年余の間に、もしかして
リスクの観念が発達しえた時代があったとすれば、それは西暦一世紀から三世紀に
かけて、まさにグノーシス主義が地中海世界に蔓延した時代だったのではないか。
──そんなことを、私は漠然と考えている。

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