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■ 不連続な読書日記 ■ No.66 (2001/08/15)
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□ 養老孟司『身体の文学史』
□ 土屋恵一郎『社会のレトリック』
□ 竹内薫・原田章夫『宮沢賢治・時空の旅人』
□ 小林道夫『デカルトの自然哲学』
□ 藤沢令夫『プラトンの哲学』
□ 落合仁司『〈神〉の証明』
□ 落合仁司『トマス・アクィナスの言語ゲーム』
□ 森岡正博『意識通信』
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●183●養老孟司『身体の文学史』(新潮社)
この本はとても面白くて、触発されるところが多くあった。たとえば、明治以降
のこの国の近代化にとって西欧社会の存在はいわれるほど大きな要素ではなく、む
しろ中世の「自然」を封印した近世の「人工」、著者の言葉でいえば江戸の脳化社
会の延長として近代日本の問題性をおさえるべきなのだといった視点。私なりに整
理すればこうなるのだが、それ自体はさほど新奇な主張とは思えないものの、そこ
に自然と人工、身体と心の葛藤、そして夏目漱石の胃潰瘍と三島由紀夫の生首が、
抑圧された身体のもたらした文学的二大事件であったなどという話題が投じられる
や、俄然、目から鱗の視野の広がりを感じさせられる。このような視点からはただちに篠田一士氏が「ヨーロッパ文学を必要としない」
文学者と形容した幸田露伴(夏目漱石と同じ年に生まれ、敗戦後まで生き存えた)
や、『露伴随筆』五冊本(岩波書店)の選者石川淳の文学の面白さ、有島武郎の『
或る女』における身体表現の特異性といった問題群への回路がつながるように思う。
しかしそれはまた別の話題であって、ここでは「表現とはなにか」と題された終章
から、興味深く読んだ文章を書き抜いておくことにしよう。まず「世界は表現だ」と著者は宣言する。表現を創り出すのはいうまでもなく意
識である。意識ははかないもので、そのはかない意識を保存するものこそ、意識が
外部に創り出す表現なのだという。文学、絵画、音楽、法律、制度、都市、それら
はすべて意識の表現であって、意識が自らを外部に定着させる手段である。《意識のそうした定着手段、それはかならずしもたがいに排除するものではない。
ただし、たとえば都市と文学はなぜか矛盾するらしい。秦の始皇帝は万里の長城を
築くが、焚書坑儒を同時に行う。立派な建造物は必要だが、本はいらないというの
である。始皇帝陵の発掘で知られる驚くべき規模の遺跡は、建築型の意識の定着法
と、文字型の意識の定着法とが、たがいに抗争することを示すように思われる。西
方では、エジプト人のピラミッドと、ユダヤ人の旧訳聖書の差を思えばいいであろ
う。どちらを採るか、そこにはおそらく無意識が関与しているに違いない。》建築(都市)と文学。この二分法は実に多義的だ。空間と時間、視覚と聴覚、権
力と個人などといった一面的な理解では、養老氏の「直観」がもつ豊かさと奥行き
を殺してしまうだろう。テクストとしての建築(都市)や「凍れる音楽」としての
建築もあれば、建造物としての文学もある。むしろ世界を記憶の痕跡として見るか
編纂されつつある書物として見るかの違いというべきか。いや、これでは何をいっ
ているのか判らない。そもそも建築と文学という二分法そのものが、刺激的ではあ
るものの「概念」的にうまく整理できない豊穰さをはらんでいるのだと思う。私は補助線として、装飾と音楽の二分法を付け加えてみてはどうかと考えている。
建築と文学が意識の「意識的」な表現であり表現の媒体であって、したがってそこ
に表現の主体と客体、形式と内容、技法と素材、そしてそれらを媒介するものの働
きがあるといった、いわば弁証法的プロセスを含意するものであるとすれば、装飾
と音楽は「無意識的」な表現そのものであり、それ自身として生成し、あるいはそ
のような表現を成り立たせる特定の場においてその都度発生し反復する、いわば非
−弁証法的なプロセスそのものなのではないかと私は考えている。正確にいうと、
そのようなものとして装飾と音楽を建築・文学に対比させて、原理的に考えてはど
うかということだ。●184●土屋恵一郎『社会のレトリック』(新曜社)
著者は「法」を「人間の関係とコミュニケ−ションの場を、フィクショナルなも
のとして構成しようとする意思のことである」と定義する。ここで定義するという
営為自体がフィクショナルなものの構成への意思に裏打ちされていることに注目す
べきである。《「法」のもとでは「国家」も「国民」もなんらかの民族といった特別な関係に根
拠をもつのではない。その「定義」のうちにのみ根拠をもつのである。「法」が定
義をはじめると「国家」はフィクショナルな存在となってその定義のうちで構成さ
れる。しかしこの構成はむしろなんらかの実体をもつものとして幻想される国家像
を、機関とその働きの「定義」のうちに解体するにひとしい。「国家」にとって「
法」はつねにアイロニ−である。》法的実践において人々は異質な諸価値が綯い交ぜとなって生成する現実世界(そ
こは諸力が織り成す物語が「〜から〜へ」と継起しあるいは切断される場である)
に発生する問題あるいは紛争をそれ自体として、局所的かつ個別具体的な問題・紛
争そのものとして扱い人為的解決を図ろうとする。つまり究極の原理から普遍かつ絶対無謬の解決を導くのではなく、当事者間の交
渉と第三者への説得という修辞的活動を通じてその場かぎりの解決を「工作 brico
lage」(レヴィ=ストロ−ス)するために現実を「フィクショナルなものとして構
成しようとする」のである。そこで定義される概念は実体的な真実性との連続性を断ち切った「紛争決定 dis
positive」概念(ドゥオーキン)であり、またそのような解決への道筋が論理的推
論の形式「〜ならば〜である」で表現されるとしてもそれは因果を語るものではあ
り得ない。法哲学者のロナルド・ドゥオ−キンは、法体系には物理的事実や人々の行動に関
する「ハ−ドな事実」によっては証明されない「物語的整合性 narative consiste
ncy」という事実が備わっており、「我々の法という継ぎ目のない織物のうちでは、
いつでもすべての実践的な目的にとって、正しい解答は存在する」と主張している。すなわち法体系はフィクショナルなものの構成への意思の発現である法的実践の
痕跡が記録された物語であって、何が正しいかを自律的に決定する目に見えない原
理(そこに内在するものにとって自明な、しかしそれとして示すことのできない感
覚)がその内部に存在するというのである。――上に述べた事柄は本書がもつ魅力(知的刺激と議論を促す起動力)のほんの
一端にすぎない。いまもっともスリリングな学問分野である法哲学への誘いの書と
して、これは「古典」的な価値をもつ書物だと確信する。●185●竹内薫・原田章夫『宮沢賢治・時空の旅人』(日経サイエンス社)
本書は、「文学が描いた相対性理論」というサブタイトルからもうかがえるよう
に、アインシュタインの特殊相対性理論への優れた誘いの書であると同時に、文学
という営みがその根源においてはらんでいる生命や他者の問題、すなわち時空の問
題が、宮澤賢治という希有な人物によっていかに詩的に表現されたかを──そして
詩的表現が数学的表現と拮抗しうるもう一つの厳密な表現であったことを──いき
いきと描いた読み物である。相対性理論(時空論・重力論)や量子論、そしてロジャー・ペンローズが意識の
問題を解明する鍵になると予言した量子重力論。私は、カントールの連続体仮説や
リーマン予想、ポアンカレ予想といった現代数学の問題ともども、これら理論物理
学上の話題にかぎりない刺激を感じており、その正確な理解を抜きにした哲学的言
説は、最終的には駄弁にすぎないものとなるのではないかとさえ思っている。そして、それとほとんど同じくらいの重みをもって、たとえばマラルメやランボ
ーやパウル・ツェラン、宮澤賢治や吉岡実、イリアスや万葉集などの詩篇から一つ
の時空を、つまり宇宙の実在を感じ取ることのできない知性を信用できない。とはいえ、これらは私の願望あるいは訓戒にすぎず、本書のテーマとは直接の関
係はない。付言の一。気になったことをノートしておく。竹内氏は、特殊相対性理論におい
てアインシュタンがそうしたように、「光速度不変の原理」を採用するかどうかは
「早い話が哲学の問題なのです」と書いている。さて、これはいったいどういう意
味なのだろう。付言の二。同じく竹内氏が本書巻末に寄せた文献案内の中に、ちょっと面白い文
章が出てくるので、以下に抜き書きしておく。《すべての〈存在〉の根幹には〈区別〉がある。…さて、“KNOTS AND PHYSICS”
の著者のカウフマンは、/およそ〈区別〉あるところ、四次元時空とローレンツ変
換あり/という驚くべき関係を数学的な「証明」の形で示唆している。つまりロー
レンツ変換は、どこからともなく偶然に出てきたものではなく、どうやら、存在と
認識という哲学的問題と密接に関連しているらしいのである。/〈区別〉について
は、ヘーゲルのあとをうけて現代フランス思想でも大きなテーマとして扱われてい
る…。/また、この問題は、最近発展している「結び目理論」などの現代数学の最
前線とも密接に関係している…。》●186●小林道夫『デカルトの自然哲学』(岩波書店)
著者は、メルセンヌ宛書簡においてデカルトが示したテーゼ──《永遠的と呼ば
れる数学的真理は神によって設定されたのであり、残りのすべての被造物と同様に
神に全面的に依存する。》──を「永遠真理創造説」と呼び、このテーゼがデカル
トにとっていかに重要なものであったかについて次のように書いている。(本書の
テーマは、その最後の一文に凝縮されていると思う。)《このテーゼによるとまず,神は一方で「自然のうちに法則を設定し」,他方でそ
れらの法則の観念を「われわれの精神のうちに生得的なもの(mentibus nostris
ingenitae)」として刻印したと考えられる.そうすると,人間精神は,自然法
則と人間の内に刻印された観念との関係について,それらがいずれも神によって設
定されたということから,その間の対応ないし相関関係を想定することが許される
ことになる.この点についてデカルトは同じ書簡で「〔自然法則について〕われわ
れの精神がそれの考察に向かうならば,われわれが理解できないようなものは特に
何もない」と断言する.言い換えると,われわれは,このテーゼによって,われわ
れがわれわれのうちで把握する数学的真理は,われわれの外なる物理的自然におい
てそれの物質的相関物として現実化されうるものであると考えることができる.そ
のことをデカルトは実際に,同じ書簡で,このテーゼの結論として言明している.
すなわち,「われわれは,神はわれわれが〔知性的に〕理解することのできること
はすべてなしうるとたしかに一般的に断言することができる」.デカルトは,この
ような神の創造論の形而上学を主張することによって彼の自然学を基礎づけようと
いうのである.》小林氏はさらに、デカルトの自然哲学の指導的原理である「物質即延長説」を取
り上げて、「この説によれば宇宙空間全体が物質に満たされていることになるから,
宇宙は,そのすべての部分が厳密には連関しあうような全体を構成する」ことにな
ると指摘している。そして、このようなデカルトのホーリスティックな宇宙論的自
然学が、ニュートンに代表される古典力学を超えて、マッハやアインシュタインに
直接つながりうる契機を『哲学の原理』(第三、第四部)から読み取ろうと試みる
のである。デカルトの宇宙論的自然学の論理であれマッハの原理であれ、あるいはその(限
定された?)数学的表現ともいうべきアインシュタインの一般相対性理論であれ、
いずれも人間精神のうちに観念として芽生えた「数学的真理」にほかならないだろ
う。そして、これらの観念が「われわれの外なる物理的自然においてそれの物質的
相関物として現実化されうるもの」であることを保証するのが、「神の創造論の形
而上学」としての「永遠真理創造説」だった。●187●藤沢令夫『プラトンの哲学』(岩波新書)
藤沢氏によれば、プラトンほど、「自然」を生命なき物質とみなしてはならない
ことを、生涯一貫して強く説きつづけた哲学者はいない。また、形相と質料という
概念はアリストテレスが創始した独自の対概念であり、プラトンの著作の中にただ
の一度も出てこない。むしろ、「形相」に対する「質料」(素材)というような概
念を存在の最基本レベルにはもちこまないところが、アリストテレスとは決定的に
異なるイデア論の積極的な特色にほかならない。結局のところ、プラトン哲学に対
する根本的誤解は、いずれもアリストテレス由来だというのである。それでは、「イデア」とはいったい何なのだろうか。実は、このような「Xとは
何であるか」という問いのうちに含意されている事項そのものへと問題関心を集中
させることこそが、イデア論がイデア論として成立するための機縁であったと藤沢
氏は指摘している。まず、「何であるか」というソクラテスの問いかけの意義は、アリストテレス流
の定義を求めることにあるのではなくて、「何でないか」の同意と確認を積み重ね
ていくなかで「何であるか」の最終的な同定(知)へと前進していくプロセス──
いいかえれば、「何でないか」の同意と確認を可能にする判断根拠である潜在的な
知が、無知の自覚によって鍛え上げられていくプロセスそのものに意義があるので
ある。そのような問いのうちに含意されているのは、次の四点である。「まさにXであ
るもの」こそがXについての真の知がめざすべきもの(問われている当のもの)で
あること。それは「Xである」と呼ばれる個々の特定の事例(行為や事象)とは厳
格に区別されるべきこと。また、すべての「Xである」ものの中に「まさにXであ
るもの」が内在していること。したがって、「まさにXであるもの」とはある事例
が「Xである」かどうかを判別する規準・手本(パラディグマ)であること。藤沢氏はさらに、中期対話編の中でイデア論が拡大されていく過程をたどり、後
期に属する対話編『パルメニデス』においてその不備を自ら示したプラトンが、最
終的に「場」(コーラー)の概念の導入によってこれを克服したことを論述してい
る。ここでいう不備とは、「個物xはイデアΦを分有することによってFである(F
という性質をもつ)」という記述方式によって、F(感覚される性質)とそれがあ
ってこそFがあるところのΦ(思惟されるイデア)との区別が、x(個物)とF・
Φ(性質・本性)との区別の陰に隠れて不明確になること──つまり、「xはFで
ある」によって記述される常識のものの見方のしたたかさ(個物という観念のした
たかさ)によって、イデアが不要な余計物とみなされてしまうことである。そして、これに対するプラトンの解決方法は、「分有」に基づく記述を「似姿」
もしくは「原範型」(パラディグマ)に基づくものに置き換え、「イデアΦの似姿
が場のここ(Fの知覚像が現れている所)に受け入れられて、Fとして現れている
」といった記述方法を採用することである。以上の論述は、いまひとつの重要な教説であるプシュケー論のそれとともに、プ
ラトン哲学への入門者にすぎない私にとっては極めて興味深いものなのだが、ここ
ではこれ以上深入りせず、イデア論とは決して超自然的な観念として外挿されたも
のではないこと、むしろ私たちの生活(言語生活)の中から立ち現れてきたもの、
そういってよければ「人間的自然」に根ざした普遍的な、あるいは「文法」的なも
のであったこと(そのようなものとして藤沢氏がイデア論を叙述していること)を
確認するにとどめておこう。●188●落合仁司『〈神〉の証明』(講談社現代新書)
本書は「神学迷宮」ともいうべき、よくできた面白い啓蒙書だ。優れた啓蒙書の
条件は――小島寛之氏の『数学迷宮』あとがきの文章をもじれば――、簡単な命題
から複雑な命題群(知的な「めまい」をもたらす迷宮)を構成するその手際にある。さらに、扱われているテーマがもつ豊かさと未踏の領野がもつ魅力や可能性をま
で読者にリアルに感得させることができたならば、それは名人芸の域に達している
といえるだろう。『〈神〉の証明』に示された手腕はまさにそれだと思った。(もっとも、啓蒙書としてよくできていることとその内容が完璧なものであること
とは一応別の問題。極端ないいかたをすれば、理路整然と間違っている優れた啓蒙
書、正しい方向へと導くもののその内容は空虚なよくできた啓蒙書といった類型が
ありうるのではないかと思う。)落合氏は、「宗教とは、まず何よりも、われわれの生きるこの世界ではないもの、
すなわちこの世界の他者に対する関心である」という。私たちが住むこの世界とは
有限の世界にほかならないわけだから、その他者(あの世といってもいい)とは無
限にほかならず、これこそが神、仏と称されてきたものにほかならない。すなわち、宗教の対象=この世の他者=神=無限。──このように神や仏をめぐ
る思考を「無限」をめぐる思考におきかえることが単純な命題その一。単純な命題
その二は、次のように表現される。「神学は論理のみによって構築される他はない。
この意味において神学と数学は全く同類である」。かくして、無限をめぐる学としての数学、具体的にはカントールの提唱した無限
集合論が神をめぐる思考に適用できることになる。本書第6章「神の集合論」では、
無限集合論を使って、「神の受肉」と「人間の神化」の二つの伝統的な神学的問題
がいずれも論理的に正当化できる合理的な出来事にすぎないことが論証されている。
これぞ単純な命題から構成された「神学迷宮」の眩暈。数理神学者・落合氏の真骨
頂だ。(ところで、落合氏は「無限は数え切れないないから無限なのであって」云々と書
いているが、これはちょっと面白くない。数え切れない無限=自然数の無限など全
然神様らしくない。そもそも数えることができない無限=実数の無限の方がこの世
界の超越者らしくていい。)第二の命題の系。「神学、テオロギアとはまず何よりも弁明、アポロギアなので
ある」。何に対する弁明なのかといえば、論理学をもってしては正当化できない背
理、つまり宗教的命題に対する弁明である。落合氏によれば、合理的な事態(論理的に真である事態)も非合理的な事態(論
理的に偽である事態)もともに信ずるに値しない。「それを信じようと信じまいと、
それが成り立つか否かは合理的に決定されているからである」。実際、「神の受肉」
であれ「人間の神化」であれ、無限と有限が切り結ぶ「背理」と思われた事態も、
実は論理的に根拠づけることができる事態にほかならなかった。それでは「宗教の合理的な弁明としての神学」が対象とする宗教的命題とは何か。
つまり、信じることが問題となる宗教的事態とは何か。《この世界の他者とこの世界の存在者たとえば人間とが接触する可能性を認めるか
否か、という場面……すなわち人間が可能的に無限であるか否か、人間が無限であ
る可能世界を認めるか否か、ここにおいて初めて信仰による選択が問われるのであ
る。言うまでもなく宗教は、決然として、人間が神に出会いうること、人間が可能
的無限であることを信じる。宗教とは人間の自己超越の可能性を信じることなので
ある。》ここに出てくる「可能世界」とは様相論理学を踏まえた語彙であり、そして上記
の引用はほとんど同書のさわり(結論)の部分に踏み込んでいる。●189●落合仁司『トマス・アクィナスの言語ゲーム』(勁草書房)
本書のハイライトでありタイトルの説明にもなっている部分を抜き書きしておく。
《トマスの形而上学を二◯世紀的に表現するとすれば、それは、無限なる他者を必
然化する言語ゲームであると言えよう。(略)トマス・アクィナスの言語ゲームは、
二◯世紀末の今日もなお、ヨーロッパの思想的な地平を決定している。トマスにと
って、無限なる他者は、神であった。神は、他者として(存在者に)内在し、ゆえ
に、無限として(存在者を)超越する。この神の位置に、何が入るかによって、ト
マス・アクィナスの言語ゲームは、その意匠を大きく変える。しかし、そこに何が
入ろうとも、無限なる他者を必然化するという、言語ゲームの基本構造は、全く普
遍である。この不変なるものこそ、ラテン・キリスト教世界、したがって、ヨーロ
ッパのアイデンティティ、すなわち、正統に他ならないのである。》ラテン・キリスト教文明を第三の地中海文明たらしめたこの「無限なる他者の言
語ゲーム」は、イタリア・ルネサンスの時代を経て「世俗化」の途を歩んでいく。
すなわち、創始者トマス・アクィナスが設定した基本構造は保持しつつ、無限なる
他者を神から人間へ、そして人間集団としての世俗国家(近代的主体としての「作
為する国家」)へと「同型変換」していったわけである。しかし、国家はもはや単数ではありえない。つまり、複数存在する国家(近代的
主体)はもはや無限ではなく、他者(たとえば国際関係という秩序)によって「自
同性」を限定される有限な存在者たらざるをえない。このような国家・主体を限定
する秩序としての「無限なる他者」とは、非作為的=自然的な秩序──市場経済や
(慣習的)自然法、すなわちハイエクの言う自生的秩序──にほかならず、そして
それこそが17世紀以降のオランダ、イギリスで展開された「自然的秩序の思想」だ
った。《…作為する国家の思想を地中海的、自然的秩序の思想を大西洋的と形容すること
は、あながち無益ではない。近代思想史は、地中海的なるものと大西洋的なるもの
との覇権取りゲームと見ることが出来るのである。しかし、地中海において発見さ
れた無限なる他者の言語ゲームそれ自体は、地中海文明としてのヨーロッパはもと
より、大西洋文明としてのヨーロッパにおいても保存されていると見るのが妥当で
あろう。地中海文明から大西洋文明への転換は、やはり、無限なる他者の言語ゲー
ムを保持しつつ、作為する国家を自然的秩序に置換する、同型変換であったと見る
べきなのである。》落合氏によれば、無限なる他者とは外部それ自体であって、もはやその外部が存
在しないものである。たとえば、政治という世俗的なるものにおけるそれは、近代
主権国家をその要素とする近代国際関係、すなわち国家が事実として遂行する慣習
システムとしての「近代世界システム」にほかならない。そして、近代世界システ
ムを無限なる他者として同定することによって、無限なる他者を世俗化しようとし
た近代の企ては成功した。つまり、神の死によって、人間は世界それ自体を発見し
たというわけだ。もはや外部をもたないもの、それ自体が外部であるところの無限なる他者を必然
化する言語ゲーム。──落合氏によってトマス・アクィナスの思想と結びつけられ
たこの存在の形而上学を、落合氏とは異なるかたちで「二◯世紀的に」表現すると
すれば、それは無意識をめぐる言語ゲームであるといえるのではないか。そして、
「近代世界システム」とは(ベンヤミン流にいえば)集団の夢としての無意識その
ものだったのではないか。●190●森岡正博『意識通信』(筑摩書房)
森岡氏は本書で「匿名デザイン通信」の思考実験を試みている。それは、ホスト
が人工現実インターフェイスをつけてコンピュータ内につくられた三次元の「電子
架想空間」に入りこみ、自己表現の形をとって流入してくる参加者たちの「意識」
をデザインするというものだ。森岡氏によれば、匿名デザイン通信では、顔情報と肉声は送り込んではならない
というルールがしかれる。また、触覚も排除される。参加者たちのこころの深層に
抑圧され秘められていたもの(深層意識)がメッセージの中へとスムーズに解放さ
れるためには、「この世界」性を強く感じさせるものを排除し、できるかぎり「虚
構性」の強い世界にしておかなければならないのである。つまり、匿名性が保証されることで、参加者は現実世界では達成できなかった「
もうひとりの私」となって虚構性の強い自己表現を繰り出すことができ、その自己
表現の虚構内容の選択や創造をとおして、深層意識がもっとも強く解放されるとい
うのだ。《匿名デザイン通信での作業をとおして、ホストの身体には、参加者たちからの表
層意識と深層意識とが流れ込み、ホストの身体にかすかな痕跡を残してから意識交
流場へと発散してゆく。
参加者たちの深層意識は、ホストの身体を経由して、意識交流場の底辺に「社会
の無意識」を形成する。その社会の無意識の層には、デザイン通信への参加者たち
が共有するところの、いまだ解放されない「願望」や「衝動」や「表層意識への呼
びかけ」などが渦巻いている。
ホストは、ドリーム・ナヴィゲイターとなって意識交流場の深層へと旅立ち、そ
こに潜む社会の無意識の声をすくい上げて意識交流場の表層へとフィードバックし、
無意識のうねりを解放しなければならない。そうすることによってはじめて、ホス
トによる「夢の作業」が完全に成立し、デザイン通信の場に成立した社会は「夢」
を見ることができるようになる。
意識交流の深層への旅の「論理構造」を、私はヴィジアルな手法で描写してゆき
たいと思う。私はこれから、ドリーム・ナヴィゲイターが旅の途中で出会う光景を、
視覚と身体的想像力に訴える形で描写してゆく。その具体的な細部の記述それ自体
に客観的な意味があるのではない。そうではなくて、具体的な細部の記述によって
読者の脳裏に喚起されるイメージの運動の中に、私が示したい「論理構造」が現わ
れてくるはずである。私が捉えたいのは、一種の論理学なのだ。それも、記号関係
によって表現される「形式論理学」ではなく、イメージの運動によって喚起される
「可視論理学」とでも言うべきもの。
我々はここから、「論理の可視化」という実験に入ってゆく。》森岡氏の数ある著書の中で、本書がもっとも可能性と刺激に満ちていると思う。
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