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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.65 (2001/08/14)
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 □ 新宮一成『夢分析』
 □ 新宮一成『無意識の組曲』
 □ 新宮一成『ラカンの精神分析』
 □ 大澤真幸『虚構の時代の果て』
 □ 大澤真幸『戦後の思想空間』
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●178●新宮一成『夢分析』(岩波新書)

 私は本書を読むまで、夢のこと、フロイトの夢分析の意義などほとんど解っては
いなかった。本書を読み終えたとき、そのことが明晰に理解できた。本物の「啓蒙
書」とはこういう読後感を与えてくれる書物のことをいうのだと、これもまた一つ
の発見だった。稀に見る傑作。ここから何かが始まる予感に私は興奮している。

《現実を夢にとっての材料とすること、それは、現実から現実の固有性を奪い、も
う一度夢の理屈にしたがって、それを表現しなおすということである。現実という、
本来は否応なく与えられてしまうものに対して、それを作りかえる権能を手に入れ
るということである。すなわちこれは、言語そのものの機能に他ならない。言語の
この機能が、夢の中でまったき姿で発揮されたとき、夢は、覚醒生活の言語へと切
れ目なく移行するのだと言えるだろう。

 とりあえずこのことは、我々が目覚めを経験する際に起こっている、基本的な構
造変化であると結論づけることができるであろう。しかしこのことを認めたがため
に、我々はさらに深い原理的な問題に直面させられることになる。それは、夢が現
実を自分の力で作りかえることができると自認しているのならば、我々は覚醒生活
の中にいてさえも、夢のこの機能を手放さないでいることがありうるのではないか、
という問題である。さらに言えば、我々自身の知らないうちに、夢が勝手に続いて
おり、我々は夢の中に閉じこめられたまま、そうとは知らずに過ごしているのでは
ないか、という問題である。》

 夢と現の価値関係を問い直すことで、本当に問われているのはリアリティの問題
なのではないか。それは「私」のアイデンティティといった、ある意味で些末な問
題をはるかに凌駕している。――私は保坂和志氏の『世界を肯定する哲学』を読ん
で本書を想起し、改めて読み返してみたのだが、やはりこの書物をくぐらずして今
後思想などは語れないと確信した。

●179●新宮一成『無意識の組曲』(岩波書店)

 無意識は言語のように構造化されている。ラカンはそのように述べたが、新宮氏
は本書で、無意識は音楽(組曲)のように織りなされていると規定しているようだ。

《私の中にあって私のものではない音の流れの存在を考えるとき、私の個人的な同
一性が、それに強く依存していることを認めないわけにはいかない。私というもの
を示す音の流れがあって、今の場合、その流れはとりあえず言語ではなく、一定の
音楽的潮流なのである。
 この音楽的潮流を無意識というべきであろうか。私はそう言ってもいいと思う。
無意識は、私という個人が占有しているものではない。》

《音楽は時間芸術であると言われる。だがその意味は、音楽が時間の中で鳴るとい
うことではない。そうではなくて、音楽が時間なのである。音楽がなければ時間も
ない。すなわち、生命そのものの中に潜む時間は、原初的に音楽であるような何物
かがなければ、人間的現象として現前することができないということである。》

 この書物には音楽や美術、映画などをめぐる、いや人間の精神的営為そのものを
めぐる究極の言葉がちりばめられている。私はとりわけポール・デルヴォー論やシ
ューマンをめぐる文章に驚嘆させられた。

●180●新宮一成『ラカンの精神分析』(講談社新書)

 『知の欺瞞』で徹底的にこきおろされたラカンと数学の(怪しげな?)関係。た
とえばラカンの黄金数をめぐる新宮氏の解説を引用してみよう。

 まず、αにとってβが「どう見えるか」を「割合」=「理性」[ラシオー]で表
わすならば、β/αとなる。
 私=xと他者たち=yに共通な視線を「x+y」と表記する。すると、私と他者
たちを加えた全体の目から見た私は「x/(x+y)」と書き表わすことができる。
これこそがラカンのいう「対象a」の本質であり、私自身には本来入手不可能な私
の像である。
 ここで、私が他者を見ているその見え方(y/x)の中にその私の像(a)が現
れるとしたら、つまり私を含めた全体にとっての私がどのようなものであるのかと
いうことが、私が他者をどのように見ているかということの中に浮かび上がってく
るとしたら、この時の状況は「y/x=x/(x+y) =a」と書き表わすことがで
きるだろう。
 これを解いて得られる値が黄金数(黄金分割比)である。a=(√5−1)/2。
 対象aは、私が私自身を超越的な視点から見るようになるとき、必要とされる支
えである。

《私が自分を自己同一性を持ったものと感じているとき、私はいわば「1」である。
そのとき他者の中にあの「(√5−1)/2」と書かれるべき対象aが現れているだろ
う。そして、私とその他者を合わせた全体的な超越者はというと、私の「1」と対
象aの「(√5−1)/2」を足して、「「(√5+1)/2」」として現れているだろう。
 
 このとき、よく見れば、対象aと、この超越者の値は互いに逆数である。(√5−
1)/2×(√5+1)/2=1となる。このようにして私は、二つの互いに逆数をなす
無理数の間にはさまれて、辛うじて自己同一性を、つまり「1」であることを、保
持し得ているのだ。そして、私がこのようにして「1」であるとき、その「1」は、
全体的な超越者「(√5+1)/2」から見れば1/(√5+1)/2つまり (√5−1)/2
となる。すなわち、自己同一性を保った私というものは、超越者にとっての黄金数
なのである。

 私の自己同一性の支え、これが私に対する他者の比率としての、対象aである。
比率である対象aは当然目には見えないはずであるが、何でも物事がうまくゆかな
いときに問題があらわになってくるように、この比率がわずかに崩れたとき、対象
aは比率でなく、まなざしや糞便等々として、具体的に現れる。他者を黄金数にお
いて見るような、私と他者との関係は、元来不安定なものである。それは黄金数が
無理数だからである。愛は、いわば「無理数な関係」として、絶えざる割り切れな
さの中を揺れ動いている。

 そういえば先ほど私にとっての他者を、y/xという分数(割合[ラシオー])
の形でひとまず書いたが、実際に出てきた答はこのように無理数であった。無理数
は本当は分数では書けない。だから、私と他者との関係は、分数(割合[ラシオー
])を超えたもの、すなわち理性[ラシオー]を超えたものなのである。

 我々が方程式を利用して考えてきたことは、私が他者を見る視点が、我々が私を
見る視点に等しくなるということであったから、これは、個別と普遍の一致である
とも言える。》

 これを単なる「比喩」と読むかあるいは数学的概念の「誤用」と読むか、人さま
ざまだろう。私自身はそこに比喩でも誤用でもない「表現」を見出すのだが、では
そのようにして言語的に表現された「リアリティ」とは一体何か。それは本書に、
この古今東西に例をみないほどよくできた解説書(解説の域を超えて、新宮氏自身
の語られざる思想が限りなく臨界点に近づいていく強度を湛えた書物)の全編を通
じて書かれている。ラカンへの好悪は度外視して、とにかく読むべし。

●181●大澤真幸『虚構の時代の果て』(ちくま新書)

 著者は本書で、麻原の弟子の模範的な「モデル」ともいうべき石井久子が修行で
得た体験(「そのとき、私は光だった……」)をめぐって、東方キリスト教の行者
ヘシュカスト(静寂主義者)の体験と比較しつつ、彼女が自らを等置するに至った
「光」とは、自己がそこに内在しかつ自己の否定であるところの〈他者〉の形象だ
ったのであり、したがって光=〈他者〉の自己への重なりは、自己が自己以上のも
のであることを保証し、まさに「自己以上の」と特徴づけられるような無限性への
通路が開かれていることを直観させるものであったと指摘している。

《だが、他者性の自己への内在を経験することは、通常は、具体的な他者に媒介さ
れなくては、困難なことであろう。ある具体的な他者が、自己の内に浸食しうる〈
他者〉一般の代理人として現れることによって、したがって、とりあえずまさにそ
の具体的な他者(へ)の内在を直観することを通じて、自己の身体の内に他者性一
般への通路が開削されるのである。オウムの場合、その具体的な他者の機能を果た
したのが、もちろん、麻原彰晃である。麻原の身体が、解脱への「触媒」であった、
というのはこの意味である。(略)化学反応の促進剤である触媒は、その化学反応
にとって、理論上は不可欠ではないが、しかし、事実上は、触媒なしには、化学反
応はほとんど絶対に生起しない。(略)解脱は、先に述べたように「自我」を無化
することを前提にするから、「自我」に帰属させうる一切の判断を停止し、自らを
空虚な器へと変形させる変形させることを必要条件とする。頼れる何者もなしに、
自身をただ空虚にすることは、絶望的なほどに難しいだろう。逆に、絶対的に信頼
しうる他者がいるならば、一切の判断をその他者に委ねることが可能ならば、さし
あたって、比較的容易に、「自我」を空虚化することができるに違いない。》

 ──数々の創見と鋭い着想に満ちた本書の叙述のなかでも、とりわけ「他者」を
めぐる議論は秀逸だと思う。いまそのインデックスとして、大澤氏による他者の四
類型を掲げるならば次のようになるだろう。詳細は本書を読まれたい。

 ☆他者1=〈他者〉:自己の根源的否定・自己に内在する他者
 ☆他者2=《他者》:近くて遠い敵
 ☆他者3=寄生する《他者》:異和的な他者・侵入してくる他者
 ☆他者4=〈超越〉的な第三者の審級:任意の他者・独自の他者・特権的な他者

●182●大澤真幸『戦後の思想空間』(ちくま新書)

 ここで取り上げたいのは本書の「後記」だ。そこには、この三章建ての書物が昨
年「戦後思想」を主題として三回連続で行われた講演に手を加えたものであること、
講演というものの性格上、論理の緻密さと論証の完全さと構成の周到さを欠いてい
るけれども講演でなければ言わなかったような内容が含まれているし、講演であれ
ばこそできた極端な単純化や乱暴な断言にもときには意味があるだろうといったこ
とが書いてある。

 柄谷行人著『〈戦前〉の思考』(文藝春秋)の「あとがき」にある次の文章と比
較してみてほしい。《もちろん、本書は(加筆したとはいえ)講演録だから、平易
であるかわりに一種の単純化をまぬかれてはいない。本当は、もっと緻密に書かな
ければならないと思う。しかし、たぶん講演という機会がなければ、こういうこと
を発言しなかっただろう。》

 いずれもこの種の書物に似つかわしいごくありふれた物言いであって、これらの
素材だけを使って性急な一般化を行うべきでないことは重々承知の上で、あえてそ
の愚をおかすならば、両氏はここで「講演会」という(黙して文章を綴る場合とは
まったく異なる独特な)コミュニケーションの場においてこそ語られる思想、遂行
される思考の存在に言及しているのだと思う。

 ここで、本論で展開されている議論を少しだけ(我流で)借用した思いつきを述
べると、講演者とは「予言者」の位置にあるのではないだろうか。

 一対多の対面関係にさらされ、空間的にも質的に区切られた「特異点」に身を置
く講演者は、日常とは異なる身体的な状態を強いられる。彼は自らの「無意識」を
否応もなく露出させつつ、聴衆の身体群が(バターのように)連続しガス状の「精
神」を浮遊させる瞬間をキャッチし、たちどころに両者を──つまり自分自身の無
意識と群衆のそれとを──ひっくるめて言語化しなければならないのだ。まさに「
思想」の場にふさわしい状況だと私は考える。

 もう一つ思いつきを書く。いま私はピーター・ゲイの『歴史学と精神分析』を読
んでいる。「歴史の無意識」といったテーマについて考えてみたいと思ったからだ。
「後になって考えてみるとよく理解できる」という日常ありふれた経験の意味を考
えれば歴史の概念について見えてくるものがあるのではないかというのが出発点で
ある。(いってしまうと鼻白むほどあっけない動機。)

 フロイトが「子供時代はもうない」といったように、歴史的事実は常に「もうな
い」ものにほかならない。(ちょっと意味が違うかもしれないけれども。)あるの
は「いま」であり「記憶」であり「身体」である。そして、これらがすべて「講演
会」というコミュニケ ーションの場には用意されている。

 ましてそれが日本の近現代の歴史や「戦後の思想空間」といった事柄をテーマと
するものであれば、その場に露出し浮遊するものこそが「歴史の無意識」なのでは
ないか。そして「講演者」とはまさにこの無意識にかたちを与え言語化する役割を
引き受けた「予言者」(超越的他者)なのではないか。

 なお、私は「座談会」というコミュニケーションの場にも独特な構造があるよう
に思う。多対多がおそらくは円卓を囲んで交す発言の連鎖は、たとえば裁判のよう
に経験的に培われた厳密なルールの遵守によって超越的次元が仮構されるわけでは
なく、ただだらだらと循環し水平的に円環を描くかその場の雰囲気(対立であれ親
和であれ)のなかに拡散してしまうのが本来の姿だろう。そして(これは直観にす
ぎないが)そのような座談会が一つの経験として成り立つ条件が「外部」だと思う。
それは正確には漠然と差し示され比喩的に言及される「外部性」というべきだろう。
(いわずもがなかもしれないが、私がここで念頭においているのは「近代の超克」
をテーマに開催された座談会のことである。)

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