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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.64 (2001/08/13)
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 □ 中沢新一『はじまりのレーニン』
 □ 中沢新一『リアルであること』
 □ 中沢新一『バルセロナ、秘数3』
 □ 熊野純彦『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』
 □ 熊野純彦『レヴィナス入門』
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●173●中沢新一『はじまりのレーニン』(岩波書店)

 立川文庫というものがある。明治44年から大正12年にかけて立川文明堂(大阪)
から200点近く刊行された講談本のことだ。当然のことながら、私は同時代の経験
として読んだ覚えはないのだけれど、中沢氏の『はじまりのレーニン』はまさに立
川文庫なみの面白さをもった本だった。

 講談本のように思想や思想家や革命家を語る書物は、実に得がたいものだと思う。
思想関係を十八番とする現代の講談家・中沢新一は、おそらく本書でその絶頂を迎
えたのではないか。皮肉を書いているのではない。絶賛しているのだ。学問的な水
準や細部の論理構成に瑕瑾があるのかどうか、私は知らない。知らないけれど、本
書は実に面白い。まずは愉しめればそれでいい。たとえば、本書のさわりともいう
べき次の一文など、熟読玩味すべき。

《いっさいの生命は、この三位一体の形式をもつ。未発の力を内蔵した空間そのも
のである「父」から、光の発芽がおこる。「子」が生まれるのだ。そこには、最初
の状態の統一を破る分割力が発生する(ベーメは、悪の起源を、この分割のうちに
みいだしている)。しかし、それは「父」を貫流し、「子」をとおして出現する「
聖霊」の力によって、ふたたび三つのペルソナによって一体であるという、より高
められた統一を回復する。

 この三位一体の形式のなかでは、「聖霊」は、感覚や具体性をもった個体の世界
に、直接あらわれる力をあらわしている。しかし、その力はもともとは、「父」と
いう普遍的なものにねざし、「子」をとおして、個体のなかに感覚や愛となってあ
ふれでる。具体的なものと抽象的なものが、おたがい陥入をおこし、普遍的なもの
は個体性をとおして、はじめてみずからをあらわにできる。

 抽象も普遍も、そのものだけとしては、存在できない。また、単純な本質などと
いうものもないし、個体としての物質などというものもない。すべては、この複雑
で、ダイナミックな、三位一体の形式のおこなう運動のなかに現象する。その三位
一体が、わたしやあなたのような、すべての存在のなかで、瞬間瞬間、生きて働い
ているのだ──ヤコブ・ベーメは、このような思想をとおして、未来のヘーゲルを、
そしてさらには『資本論』の出現をさえ、準備したのである。(略)

 ベーメ的三位一体論は、不思議なことに、東方教会(のちのギリシャ教会、ロシ
ア教会など)が、深めてきた三位一体の考え方と、根本的な共通性をもっている。
だが、この東方的な三位一体論は、一〇世紀ころからはげしくなり、長い間つづけ
られた「フィリオクエ論争」をとおして、ローマを中心とする西欧のキリスト教会
によって、敬遠され、採用されなくなってしまった。》

●174●中沢新一『リアルであること』(メタローグ)

(その1)
 中沢氏は本書で、思想における二十世紀はグノーシスの時代であったと書いてい
る。

 中沢氏によれば、ヘーゲルであれマルクスであれハイデッガーであれ、二十世紀
の人類にもっとも大きな影響をあたえた思想の大半は「ドイツ・イデオロギー」を
母体として生まれたものなのだが、このドイツ思想の「家族的遺伝形質」を形成し
たのが、徹底した二元論を特徴とするグノーシスの思想だったのである。

《もしも、創造の神がみずからのプランにしたがって、世界をこのようなものとし
て創造したのだとすると、その創造の神とは邪悪を本質とした、偽物の神、悪の神
ではないのだろうか。真実の神は、人間の生きている世界からは、隠されている。
その神は宇宙の創造には、いささかもタッチしたことがなく、この宇宙のどこにも
所属していない。人間は叡知(グノーシス)によって、それを理解しなければなら
ない。それを知って、悪の神によって創造されたこの世界を否定し、そこから、抜
け出すことを試みなければならない。
 このような二元論の考え方を、グノーシスは徹底的に追及しようとした。そのた
めに、それはキリスト教会最大の敵となった。》

 中沢氏によれば、宇宙が「実在世界」と「隠されてある世界」の二つの異質な原
理でできているとするグノーシス主義的な二元論を、近代において主張したのが「
唯物論」である。

《弁証法的唯物論では、人間の理性が数学としてとりだす、科学のとらえる物質的
世界の背後に、無限の深さと複雑さをもつ、もうひとつの「物質」を認めようとし
ていた。》

 本書「あとがき」には次のように書かれている。《私はこれらの文章を書きなが
ら、どうやって表現のシンプルさの裏に、複雑さを隠すことができるか、そのため
の訓練をおこなっていたように思える。》

 私はそれらの文章を読みながら、どうやって善のシンプルさの裏に隠された悪の
複雑さ(悪の根源性とそのリアリティ)を開示するか、つまり未来の歴史を叙述す
る文体の可能性の模索を読みとろうとしたように思える。

(その2)
 小冊子ながら、いつに変わらぬ中沢節が楽しめる好著。たとえば本書に収められ
た「思想の二十世紀、グノーシスの時代」を読むと、およそ次のような事柄が書い
てあった。──グノーシスの思想は徹底した二元論を特徴とする。それは、偽物の
神・悪の神が創造した「いまある世界」(物質世界)を拒絶し、現実の秩序・権力
のなかには見いだすことのできない「隠された根源」としての真実の神を、叡知(
グノーシス)をもって理解しなければならないとする「反宇宙」の思想であり、「
自然に対するニヒリズム」に染め上げられた思想なのだ。

 思想における二十世紀はグノーシス主義の「復活」をもって開始されたと、中沢
氏は書いている。──ヘーゲルであれマルクスであれハイデッガーであれ、二十世
紀の人類にもっとも大きな影響を与えた思想の大半は、ドイツ・イデオロギーとい
う「家族的遺伝形質」を母体にして生まれたものなのだが、その原型をつくった神
秘主義者たち(エックハルトやベーメ)はいずれもグノーシス的だった。

 たとえばヘーゲルにとって、歴史とは「隠された神」である絶対的理性が自分を
実現していこうとする自己運動だった。マルクスもまた『共産党宣言』で、いまあ
る世界の創造原理である資本主義の黙示録を描き、その廃虚のなかから別の世界(
無階級社会)が誕生してくるさまを神話的な力をもって語った。そしてハイデッガ
ーの実存主義は、親しみのもてない世界に偶然投げ込まれていることを自覚し、「
意味」が生まれでてくる「隠された根源」に向かって探究を続けよと語った。

 また、グノーシス主義が「自然に対するニヒリズム」であることに関して、中沢
氏は次のように述べる。──古代のグノーシス思想家たちは、神の創造したこの物
質的世界を(真実の神を隠し、彼らを恐怖させる)悪と見た。人間を慰め癒す自然
など、そこでは考えられなかった。近代のグノーシス主義者パスカルも、人間のこ
とばなどにまったく無関心な無限の宇宙に恐怖した。マルクス主義もまた、科学技
術と結びつくことによって、自然に対して(「悪しき自然」の改造・開発による真
実の理性的な人間社会の創造を唱えるという)別の意味でのグノーシス的態度をと
り、グノーシスが地上の権力でもあるという信じ難い事態を招来したのである。

 このようにして二十世紀の人類の思想をリードしてきた新しい形態のグノーシス
は、かつてキリスト教会によって激しく憎悪されたのと同じように、「自由主義」
諸国から徹底的に憎悪されることとなったのだが、中沢氏は、地上のグノーシス帝
国を滅ぼしたのはこれら自由主義諸国の包囲や戦略ではなく、実は「マリア的自然」
──母性的な一体感とエコロジカルな幸福感をもたらすもの、あるいはたんなる物
質的天体ではなくひとつの生命体である「地球」──だったのだと指摘している。

 ここで中沢氏がマリアの名をもちだすとき、それは東方的ギリシア世界のソフィ
ア(叡知)に対する西方的ラテン世界のマリアという対の関係(霊的姉妹)を踏ま
えてのことなのだけれど、この点はここではとり上げず、ただ「マリア的自然」な
るものに中沢氏が一方的な肩入れをしているわけではないこと、むしろグノーシス
的二元論の新たな「復活」を予感し希求しているに違いないことを書き止めておく。

 中沢氏は「思想の二十世紀、グノーシスの時代」の最後を、次の文章で締めくく
っている。

《思想の二十世紀は、グノーシス的な展望によって、世紀を開いた。そして、世紀
末、ふたたびグノーシスは否定と忘却の大地の下に、埋葬されようとしている。マ
リア的自然の母性は、知性の自己増殖の危険を察知して、その力を押し止めること
に、成功した。しかしそれとともに、思想の生産力も、抑圧された。人類が、グノ
ーシスの限界を乗りこえ、新しいグノーシス思想を創造できるその日まで、この抑
圧は続いていくにちがいない。》

●175●中沢新一『バルセロナ、秘数3』(中公文庫)

 中沢氏の本はどれを読んでも感興尽きない。少しできすぎているのではないかと
思うほど、面白い。本書は紀行文、フィクションとしてはいまひとつ気持ちがのれ
なかったけれど、随所にちりばめられたいくつかのアイデアは刺激的だ。

 唐突だが、私は本書を読んで夏目漱石の『三四郎』を想起した。たとえば題名に
出てくる「三」と「四」は中沢氏が本書で述べた西欧思想史の二つの流れ、すなわ
ちプラトン、デカルト、ニュートン、アインシュタインなどの「3の信棒者(トリ
ニタリアン)」とピタゴラスやカント、ゲーテ、ショーペンハウアーといった「4
の信棒者(クォータナリアン)」との「ねじれ」た関係を反映しているのではない
か、などと思いあたったのだ。

《トリニタリアン的思考は「否定」の機能を(+、−)の対立として、考えようと
する。つまり対立を、極性―対立(polar opposites)としてとらえ、論理表現化
しようとするのだ。これにたいしてクォータナリアン的思考は、論理における否定
の機能を相補的対立(complementary opposites)と考える。運動量(p)と位置
(q)のふたつを同時に確定することができないように、おたがいが相手を内包し
ながら否定しあっているような関係である。

 「否定」の機能(これは最終的には、言語の象徴機能の問題である)には、はっ
きりとふたつのタイプが存在して、思想におけるふたつの流れをつくりだしてきた
のだ。古典科学やその方法をバックアップしたデカルト的合理論は、その表現のな
かに(+、−)タイプの対立だけを認めようとした。これにたいして、量子力学は
別のタイプの「量子論理」にしたがって、物理的リアリティを表現しようとしてき
た。(略)

 量子論理(Quantum Logic)は、通常の(+、−)論理に比較すると、おそろ
しく複雑な構造をもっている。これは量子論理が、アリストテレス的論理学の因果
律(Causality)にしたがうことなく、たがいに内包しあう否定機能にもとづく
「縁」の関係にあるリアリティを論理化しようとこころみていることに関係がある。
その意味でも、これは東方的な超論理学(中観仏教、聖グレゴリオ・パラマスによ
って大成されたギリシャ正教神学、イスラムの天使学など)と、深い内在的関係を
もっているのである。》

 明快な図式化はかえって物事の精妙な実相を見えなくする危険を伴うものだけれ
ど、中沢氏の議論は少なくとも漱石が考えていた科学と文学の問題を解くための有
効な切り口になるものだと思った。

●176●熊野純彦『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』(岩波書店)

 強靱な思索力と「暴力的」なまでの分析力に貫かれた書物だ。レヴィナスのどこ
か吃音めいた語句が徹底的に腑分けされ、憂愁を纏った肉声が摘出され、その濃密
に圧縮された諸概念がひらかれていく。熊野対レヴィナスの息づまるような哲学の
ドラマ。――以下は、そのほんの一端の要点筆記である。

 著者は第I部第4章で、自他の非対称性・不可逆性をめぐるレヴィナスの主張(
『全体性と無限』)の哲学的裏づけとして、次の三つの論点を提示している。第一、
〈他者〉にたいする関係の一項がほかならぬ〈私〉であるということ。第二、他者
にたいして語りかける〈私〉の〈ことば〉のありかた。第三、他者によって〈私〉
に語りかけられる〈ことば〉のかたち、ひいては他者の〈顔〉のありよう。

 第一の論点。一般に、ふたつのもの(例:本のかたわらに置かれた万年筆)の関
係は空間的な位置関係(隣接)である。それは二つの項(本と万年筆)にとっては
「外的」な関係であり、それゆえ外部から認識され等分に確認されるものである。
しかし、他者とのかかわりは、とりわけその関係の一方の項が「この、ほかならな
い私、つまり〈私〉」であるかぎり、これと同等なものではありえない。他者との
関係にあるかぎり、〈私〉はその関係を超越し外部から関係の項を等分に比較する
ことはできないからである。

 レヴィナスは、このような他者との関係そのものを「倫理」と呼び、この倫理の
関係のなかで私は無限の〈責め〉を負うとした。《関係の絶対的な出発点がこの私
であり、私が逃れようもなくほかならない私でしかない以上、〈呼応〉しないこと、
応答(re'ponse)をこばむこと自体が、関係の内部での一箇の反応になってしまい、
関係から逃れ出ようとすることそのものが関係への回答となってしまうからである。
つまり「呼応可能性」(responsabilite')としての〈責め〉(responsabilite')
からは逃れようがなく、〈責め〉は終わることもなく、完結することもない。》

 第二の論点。一般に、ことばは語り手と聞き手のあいだの関係の対称性を前提し
ているかにみえる。だが、そうではないと熊野氏はいう。いっさいの言語行為は〈
祈り〉なのではないか。命令とは未来としての他者への祈りであるほかなく、指示
もまた参与の要請であり、やがては祈りとなるであろう。レヴィナスもまた述べて
いる、「〈ことば〉は他者へとむけられ、他者を召還し他者に祈念する」「〈こと
ば〉の関係は、召還、呼格(le vocatif)をその本質とする」と。

 第三の論点。レヴィナスは「意味づけられた世界とは、〈他者〉が存在する世界」
であり、「意味とは他者の顔のことである」と述べている。また、「〈私〉が問い
ただされること、おなじことだが、顔における〈他者〉の〈あらわれ〉を、われわ
れはことばと呼ぶ」とも。

《顔が、かくして、ことばの始原であり、それ自体ことばであることになる。──
世界が破壊しつくされ、その裸形を、つまりその端的な無意味さをあらわにすると
きがありえよう。それはたぶん、レヴィナスが説く〈ある〉の体験と、なにほどか
はかよいあうものである。その瞬間にあってもなおしかし、他者の顔だけは意味し
つづける。顔は、それ自体としては意味を欠き、光を欠いた世界のかなたから到来
して、世界に意味をもたらしつづける光源なのだ。世界はたんにある。このあるこ
と、存在のずれと余剰、そのいみでの〈かなた〉こそが顔であり、顔が意味するこ
となのである。》

 私はこれらの叙述に接して、戦慄さえ覚えた。

●177●熊野純彦『レヴィナス入門』(ちくま新書)

 世に「入門」の語を関した書物は数多くあるけれども、本物の入門書にはそう滅
多にめぐりあえるものではない。本書はその希有の例だ。少なくとも私は本書を通
じて、これまで敬して遠ざかっていたレヴィナスの施策の懐深くまで案内された。
その意味では、本書は入門書を超えた入門書だと思う。以下、その香りだけでも抽
出しておこう。

 「レヴィナスの第一の主著がこころみるのは、ひとことでいえば〈具体的なもの〉
の思考である」と、熊野氏は書いている。『全体性と無限──外部性についての試
論』は「生の具体的な細部において、〈他なるもの〉が到来するさまをえがきだす」
ものであるというのだ。
 
 ここでいわれる「生の具体的な細部」について、熊野氏は、「目から手へ」(フ
ッサールからハイデガーへ)を「手から口へ」(あるいは「道具」から「糧」へ)
と突きぬけさせ、さらに「口から手へ」「手から目へ」と、世界における生を「始
原的なもの」「身体であること」から説き明かしていくレヴィナスの叙述を紹介し
ている。

 手によって触れられ目によってかたどられるもの、それが他者の顔である。とい
うより、顔においてこそ他者が、無限に超越的な他者が世界の内部にあらわれる。
『全体性と無限』のレヴィナスにとって、顔は他者の「顕現」(エピファニー:「
公現」とも)である。
 
 しかし第二の主著『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』
で、レヴィナスはある「転回」を遂げる。熊野氏はこのことを「現前から痕跡へ」
と定式化している。ここで、現前するのはいうまでもなく他者の顔であり、痕跡と
して語られるのもまた他者の顔である。
 
 第一の主著で「享受する身体」を論じたレヴィナスは、第二の主著では「ひび割
れる」身体──いくつもの孔を穿たれ、その開口部で外部性へと曝されている身体、
あるいは可傷性(ヴルネラビリテ)の契機をもった傷つきやすい身体、老いる身体
──を論じている。ここで強調されているのは「感受性」の(享受=消費とは異な
った)別の側面なのだ、と熊野氏はいう。
 
 感受性とは「近さ」である。近さは生きられるものであって、認識されるもので
はない。このような「近さ」は他者において典型的である。以下は、第二の主著に
おけるレヴィナス自身の文章。
 
《その「近さ」とは、接近した顔であり、皮膚の接触である。つまり、皮膚によっ
て重みを課せられた顔であり、変質した顔が、そこで淫らなまでに息づいている皮
膚なのである。そうした顔と皮膚は、すでにじぶん自身にとって不在であって、過
去の回収不能な経過のうちに陥っている。》
 
 皮膚はつねに顔の変容であり、顔はいつでも皮膚の重みを課せられている。顔も
皮膚もともに現在であって現在にない。すなわちそれは痕跡、しかも自分自身の痕
跡である。いま現前しているものが同時にみずからの痕跡であるとは、しかしどの
ようなことがらでありうるのか。──熊野氏はこのような問いをたて、そこに「老
いゆく顔」「死にゆく顔」を導入することでレヴィナスの解を要約している。

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