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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.63 (2001/08/12)
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 □ 永井均・小泉義之『ルサンチマンの哲学』
 □ 小泉義之『デカルト=哲学のすすめ』
 □ 小泉義之『弔いの哲学』
 □ 小泉義之『ドゥルーズの哲学』
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●169●永井均・小泉義之『ルサンチマンの哲学』(河出書房新社)

 永井均氏は本書で、ニーチェの永遠回帰概念の不整合性を示すために、次のよう
な思考実験を展開している。

 まず、同じものが永遠に回帰すると考えるかわりに、時間を空間化して考えてみ
る。つまり、「この世界と同じ世界が空間的に無限に存在する」と考えてみる。そ
うすると、この世界には無数の「私」が存在することになる。

 もし、ある一つの「私」(これを〈私〉と呼ぶ)を除いて他の「私」が〈私〉の
全性質を同じくするにすぎないのだとしたら、それらは〈私〉ではないのだから、
「同じ」世界が無限に存在していることにはならない。

 もし、すべての「私」が〈私〉だとしたら、今度は、空間的には異なる場所だが
性質的にはまったく同じ複数個の世界、ということの実質が失われてしまう。つま
り、複数の〈私〉はただ一つの〈私〉(この〈私〉)に収斂して、実質的には一つ
の世界しか存在しえないことになる。

 つぎに、時間化して「同じことが永遠に回帰する」と考えてみる。つまり、「こ
の世界と同じ世界が時間的に無数に存在する」と考える。そうすると、「何から何
までこの今とそっくりの世界状態がかつて無限に存在」したことになるし、これか
らも無限に存在しうるということになる。

 もし、「それらの時点が今と同じということが、単に世界の全状態がこの今と同
じである状態ということにすぎないなら、それらはこの今ではありませんから、こ
の今にいるこの僕には何の関係もありません」。というのも、〈私〉を〈私〉たら
しめるのはいかなる物質的・心理的性質でもありえないから。そうすると、やはり
この今だけが特別の今であることになって、同じ世界が時間的に無数に存在するこ
とにはならない。

 もし、すべての世界にこの今があるのだとしたら、つまり時間的に無数に存在す
るすべての世界に〈私〉がいるのだとしたら、今度は、性質的にはまったく同じ状
態の時間的な回帰ということの実質が失われる。つまり、複数の今はただ一つの今
(この今)に収斂して、実質的には一つの世界しか存在しえないことになる。

 永井氏は以上の思考実験を経て、ニーチェの永遠回帰の概念は、「この時間の中
で何かが繰り返すってことではなくて、この時間そのものが回帰するメタ時間みた
いなものを考えるってことに、どうしてもならざるをえないんじゃないか」と述べ
ている。「そうすると、これはもう時間空間の中での話ではありませんから、同じ
ものが回帰するってときの「同じ」の意味に関しても、性質的な同一性と個数的な
同一性が、もう区別できないことになります。」

 ここに出てきた「メタ時間」とは、いったいどこに存在しているのだろう。「時
間空間の中での話ではない」としたら、それはどこで語られるものなのだろう。そ
もそも「最も重要な意味において隣人をもたない」ものである〈私〉のあり方が語
られるとき、おのずと示される〈私〉の隣人たちの世界は、どのような「時空構造」
をもっているのか。そして、デカルトのいう神が見ているのはどのような「世界」
なのか。「私」をめぐるすべての「問題」はここに帰着する。

●170●小泉義之『デカルト=哲学のすすめ』(講談社現代新書)

 実に刺激的な書物だ。そこから始まるだろう、いまだ誰によっても考えられたこ
とのない議論の予告めいた文章が生煮えのままで提示されている箇所がいくつか見
受けられはしたが、それがまた読者の、つまり私の思考をいたく刺激して、本書の
魅力を構成する要素となるのだった。

 ところで、この書物のタイトルはどう読めばいいのだろう。「デカルト」と「哲
学」がイコールで結ばれるものであって、だから「デカルト=哲学」への誘いの書
なのか、それとも「デカルト」そのものが、というよりデカルトの書き残した言説
がそれを読む者を哲学へと誘うものであるということなのか。あまり意味のない詮
索かもしれないが、小泉氏は著書のタイトルの中で「デカルト=哲学」という命題
を宣告したかったのだと私は理解している。

 デカルトこそが哲学だ。カントやヘーゲルではなくて。──それにしても、これ
は随分と大胆で潔い断定だ。そして本書を読み終えたときに私は、「デカルトこそ
が哲学だ」という言明が成り立ちうるかぎりでの「哲学」は確かにデカルトによっ
て始められ、デカルトにおいて極められたに違いないと確信したのだが、もしタイ
トルに込められた小泉氏の「主張」がいま述べたようなものであるのならば、私は
その術中に(実に気持ちよく)はまったわけである。

 本書の第二章「懐疑−世俗的生活からの脱落」は、デカルトの第一省察を扱って
いる。小泉氏はそこで、次のように書いていた。

《デカルトは「一生に一度」は懐疑を遂行しようと呼びかけていた。ところで、「
一生に一度」だけ起こることとは、生誕と死去にほかならないだろう。とするとデ
カルトは、夢の懐疑を遂行することを、生まれくる者と死にゆく者の観点に立つこ
とだと考えていたに違いない。(中略)夢の懐疑は、世のまともな大人と狂ったふ
りをする大人とは無縁の場所で、要するに一切の大人とは無縁の場所で、死にゆく
者が遂行する懐疑である。》

 死にゆく者が遂行する懐疑。そして、デカルトの第二省察はそのような「死にゆ
く者の独我論」(小泉前掲書第三章の標題)である。──これは卓見だと私は思う。

 死にゆく者は世俗的生活から離脱しつつある者なのだから、いわば純粋な精神生
活者であるといえるだろう。つまり小泉氏がデカルトから読みとったものは、その
ような精神的世界における「善い生活」(それは世俗的世界での「正しい生活」あ
るいは「良い生活」とは完璧に異なる)をめぐる「浮き世離れした哲学・倫理学」
の究極の表現だったのである。

(私は、小泉氏が『デカルト=哲学のすすめ』で展開した議論は、永井均氏が『
〈私〉のメタフィジックス』で『省察』第二の第三パラグラフまでのデカルトの思
索とそれ以後のそれとを区別し、前者から後者への移行を「デカルトの撤退」と表
現したことに対する反論、あるいは永井氏のそれとは別の読み方の提示だったので
はないかと考えている。この点については、いつか私自身の作業として『省察』第
三以降に取り組むなかで確認してみたい。)

●171●小泉義之『弔いの哲学』(河出書房新社)

 本書の末尾で小泉氏は、「死んだ子の顔を想起すること、死んだ子の歳を数える
こと、死んだ子の名を呼ぶこと、それが弔うということであ」ると書いていて、そ
のような振る舞いだけが死んだ人を「英霊」や「犠牲者」に、つまり匿名の「死者
=亡霊」にまつりあげることのないやり方であるとしている。

 おそらくは、「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじ
てアジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か」(加藤典洋「
敗戦後論」)といった言説を念頭におき、そのような問題のたて方そのものを無効
にするような根底的な批判を試みた(と思われる)この書物のキーワードは、次の
二点にほぼ尽きている(と私は解する)。

 第一、死とは生体が「死体」になるというただそれだけのことにほかならず(死
者=死体)、したがって「誰かの死と私の生の断絶を思い知ること」。第二、「死
者の名」を唱え続け死者を亡霊にしないことこそが弔いであること。

●172●小泉義之『ドゥルーズの哲学』(講談社現代新書)

 小泉氏は本書で、人格(人物)の同一性をめぐる論争(「記憶説」対「身体説」)
を決するために現代思想が導入した方法とその結論を批判している。

 それは二人の人物、たとえば太郎と花子をめぐる記憶交換や身体交換といった思
考実験への批判であり、現代思想が「私」の同一性を保証するものとしてそこから
導き出す「思考不可能で表象不可能な外部の他者」への批判である。

《…このようにして現代思想は、同一性から出発して他者論に到達した。そして、
他者性は同一性とは違うので、アイデンティティ・ゲームを突破した気持ちになれ
たし、他者性を礼拝しておけば、アイデンティティの政治を批判できる気持ちにな
れたのである。しかしこれでは、過去と未来の得体の知れぬ壁に挟まれて、「私」
に閉塞するばかりである。外部の他者性は否定的に語られるばかりで、「私」は否
定性の氾濫に溺れてしまう。こうして現代思想は、私が生物であり他人も生物であ
るという平明な現実を取り逃がしてしまう。そして結局は、私と他者の差異、「私」
と他人の差異を認識し損なうのだ。

 出発点のSF的発想を批判しておこう。そもそも、太郎と花子を死なせないよう
な仕方で、記憶や身体を交換することが、自然界において可能なのか。仮に不可能
ならば、不可能なことの想定からは理論的に任意の結論を引き出せるから、論争に
決着はつかないし、論争は無意味であるということになる。何でもアリになるから、
何も分からないということになる。仮に可能ならば、分子生物学の知見から推して
も、種々のウィルスや種々の化学物質や種々の機械装置を使用することになるから、
交換を開始する時点で、太郎と花子は人間とは別の生命体に変容すると考えなけれ
ばならない。そして、交換操作が記憶と身体に残す痕跡を消去することは原理的に
不可能だから、交換を終了した時点で、人間のパーツを保持した新しい生命体に進
化したと考えなければならない。もはや人間は存在しないのである。したがって、
同一性に固執して「太郎」や「花子」と呼びかけたいと思うこと自体が、あまりに
も人間的な因習なのである。同一性を墨守する思想はあまりに粗雑であり、同一性
に拘泥するSFはあまりに稚拙である。ドゥルーズは『差異と反復』を「サイエン
ス・フィクション」と銘打っているが、そんな新しいSFが求められるのだ。》

 ちなみに、中村桂子氏は日本経済新聞の読書欄(2000年9月3日付)で次のよう
に述べている。

《個別の技術に対して倫理という言葉で対処しようとしても、経済優先の何でもあ
り社会では空しく響くだけだ。科学の成果を人間解釈に直結せずに、従来の自然観、
人間観と照合して新しい考え方を打ち出し、生命、人間を扱う技術の是非を判断す
る基準をもつ以外にない。ゲノム情報は、医療への応用と共に、いやむしろそれ以
前に人間観、生命観形成に活用することが大事だ。》

 中村氏は続けて「幸い、日本の人文・社会学研究者の中に生命科学に関心を持ち、
その成果をとり入れながら新しい思想を組み立てていこうという人たちが出ている」
として、その一例として本書の名を挙げている。卓見である。

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