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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.62 (2001/08/05)
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 □ 永井均『転校生とブラック・ジャック』
 □ 永井均『マンガは哲学する』
 □ 永井均『〈子ども〉のための哲学』
 □ 永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』
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●165●永井均『転校生とブラック・ジャック 独在性をめぐるセミナー』
                   (双書現代の哲学・岩波書店:2001.6)

 この本には著者による前書きも後書きもない。つまりこの本には、〈私〉は、も
う、いない。〈私〉は火星へ転送されたのかもしれないし、十字架上で死んだのか
もしれない。だからこの本には、〈私〉がいなくなる前夜、最後の晩餐での出来事
が綴られている。

 つまりAからIまで十二人の学生(使徒たち?)と先生N(猫のインサイトなら
ぬイエス?)との最後のセミナーでの会話が記録されている。実際、四人の使徒(
学生DからGまで)はそれぞれ福音書(レポート)を書いている。(そうすると、
裏切り者ユダはいったい誰なのだろう。)

 この本の登場人物を示す記号にアルファベットのMが出てこないのには、実は意
味がある(と思う)。Mはたとえば中間者・媒介であり、三つの精神鑑定(現実世
界の犯罪者と可能的な法的責任主体《私》との関係を問う)を経て死刑判決を受け
たMであり、あるいは三浦俊彦、もしくは森岡正博、ひょっとすると茂木健一郎で
ある。ついでに言うと、NをはさんでMと対峙するOは大庭健、それとも大森荘藏
のイニシャルではないか、と私はにらんでいる。

 ところで、終章に出てくる「解釈学的生・意識」「系譜学的認識」「考古学的な
視線」をめぐる議論は本書にとってどのような「意味」をもつのだろうか。あるい
は、どのような「哲学的問題」の所在を示しているのだろう。このことを確認する
ためにも、本書をもう一度最初から読み直さなければなるまい。

 付記。ずいぶんと迂闊なことで、これは後になってようやく気がついたことなの
だが、第7章「談話室──哲学的議論のための要諦」はむしろ前書きか後書きにふ
さわしい自著解説とこの本の成り立ちや背景への言及を含んだ章で、これがこの位
置に、つまり学生Gのレポートと終章の前に置かれていることには深謀がはりめぐ
らされているのかもしれない。

 ──といった事柄とは無関係に、この第7章にはちょっと珍しい文章が出てきた
ので、書き写しておこう。

《全共闘運動って、プロレタリアートという無垢な理想を措定しておいて、特権を
享受している大学教授たちを断罪して、同時に自分たちの罪深さも誠実に自覚して
悔い改めようという、一種のキリスト教運動だったんだよ。いまでもあの武器を使
って他人や自分を告発できると思っている人が結構いるんだけどね。当時から嫌悪
感のほうが強かったな。》(182-183頁)

●166●永井均『マンガは哲学する』(講談社:2000.2)

@『転校生とブラック・ジャック』に、「『マンガは哲学する』は、ぼくにとって
は初めて中心化された世界という考え方を虚構世界に適用した画期的なもの」と書
いてあった。

@ことさらに言うほどのことではないけれど、マンガで一番おもしろいところはフ
キダシという技法だと思う。それからコマ割りも(アニメがいつも「今」の映像し
かアクチュアルでないことと比べて)。

●167●永井均『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書:1996.5)

@『転校生とブラック・ジャック』に、「『〈子ども〉のための哲学』は、それ以
前に出した本や論文より一段高い水準に達している」と書いてあった。

@永井均語録。(ただし、ここで言われる独我論とは「存在論的独我論」であって、
「認識論的独我論」のことではない。)──《〈今〉という問題は、〈ぼく〉とい
う問題と、論理的な構造が同じだ。だから、独我論と独今論は同じ構造をしている。
》(123頁)

《…ひょっとすると独我論とは本来きわめて実在論的な考え方(実在論を前提にし
ないと成り立たない考え方)なのではあるまいか。ぼくとしてはもっと極端に、そ
の逆のところまで、つまり、実在論は本来独我論的なのだ、というところまで、突
き進んでみたいなと思っている…。》(125頁)

《誤解を恐れずにいえば、哲学をすることは、ある点でやはり、祈ることに似てい
るだろう。…(祈るとは、その行為の内に神の存在を信じることだろう)…。》(
216頁)

@金沢創著『他者の心は存在するか』は、他者の問題を、哲学の言葉ではなく自然
科学の枠組みの中で考え、その結果、感覚情報一元論とでもいうべき立場から、心
身問題はニセの問題だ──外部世界や他者、自己の身体などは、感覚情報に基づく
進化の創作物なのであって、だから「心身問題とは自己の身体という創作物を、す
でに存在し与えられたものと考えてしまうことによるニセの問題であることになる」
(218頁)──云々と結論づける、まことに刺激的な書物なのだが、その冒頭に挙
げられた「哲学の言葉」とは『〈子ども〉のための哲学』に出てくる、たとえば「
ある人がどんな心理的事実を持ったとしても、それを他人の心理状態を直接感じた
こととは認めない、ということが「他人」という概念の中核を形成している」とい
った表現のことで、それは金沢氏も言うように「論理」に関する言明ではあっても、
哲学の言葉ではない。(少なくとも、そこには「どんな哲学的問題もない」。)

 だから、金沢氏は「他者の心」の問題を自然科学の枠組みの中で考察するに先立
って、哲学の言葉云々を持ち出す必要はなかった。(少なくとも、次の文章に二度
出てくる「私」は、永井氏の〈ぼく〉や〈私〉の問題とはいささかの関係もない?)

《私はこう考えたい。感覚情報の数だけ宇宙がある。本当は、まったく交差するこ
とのない宇宙が複数あり、それらが「恒常性を作り出すシステム」によって、一つ
の物理宇宙の中に存在するように仮定してわれわれは生きている。そのシステムの
作用を取り去って、ただ感覚情報の海の中に身をおいたとき、私にできるのは、こ
の真に存在する「今、ここにある感覚情報の宇宙」以外に、また別の宇宙が存在す
ることを漠然と想像することだけである。》(220-221頁)

●168●永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み─哲学的諸問題へのいざない─』
                       (ナカニシヤ出版:1995.12)

@『転校生とブラック・ジャック』に、「『翔太と猫のインサイトの夏休み』は、
他の本よりずっと高水準の議論をしている」と書いてあった。

@インサイト語録。──《翔太は神の概念を信じるが、神の存在を信じない。イン
サイトは神の存在を信じるが、神の概念を信じない。》(65頁)

@『〈子ども〉のための哲学』で、『翔太と猫のインサイトの夏休み』は「もっと
ふつうの意味での哲学入門書に近いもの」であって、「哲学のもっとさまざまな問
題を、SFふうの設定の中で、翔太という少年とインサイトという猫が話し合うも
ので、この本よりもおもしろく読めると思うし、この本で扱われた問題も別の観点
から論じられている(とくに独我論の問題は可能世界との関係で論じられている)」
(212頁)と紹介されている。

@三浦俊彦『可能世界の哲学』の最終節に、「心とは論理のことではないか」とあ
る。「物理的に隔絶した諸可能世界の中の物理的個体が、ある非物理的な配列で(
たぶん類似性の順序で)まとまった順序集合が精神なのではないか」。諸世界の諸
部分の順序集合としての心。

 ──その付録「可能世界ブックガイド」に、「意識」や「私」の問題について溢
れ返るほどの日本語文献が出ているのに、可能世界論の枠組みでそれを論じている
ものを私(三浦)は知らないが、それでも『翔太と猫のインサイトの夏休み』のよ
うに、「自己存在の問題を可能世界論にかすらせつつ論じている本もあって、様相
的インスピレーションを掻き立てます」とある。

《ただし、「自分の存在の奇跡、神秘にはどんな根拠づけも及びえない」とする猫
のインサイトの論旨は、神秘を神秘でなくする企てこそが哲学だとしてきた本書の
基本姿勢とは正反対かもしれません。》

@インサイト語録。──《…『現実』であることと『ぼく』であることは、すごく
似ているよね。それなのに、ぼくらはふつう、現実世界と可能世界とはまったく違
うものだって言うくせに、自分と他人に関してはそう言わない。》(78頁)

《可能世界ってものの特徴はね、細部がないってことなんだよ。可能世界が実在し
ているって考える人は別だよ。(略)きみが感じた懐疑論の本質はね、他人にはひ
ょっとしたらほんとうは細部がないんじゃないか、ってことなんだよ。(略)哲学
にはね、独我論とか唯我論っていわれるものがあるんだけどね、…それがどういう
感覚から来ているのかって考えてみるとね、どうもいま考えているような感覚がい
ちばん近いんじゃないかって思うんだ。ふつうはね、…他人には心がないんじゃな
いかって疑惑から独我論が出て来るって考えられているんだけど、どうもそれは問
題感覚の誤解じゃないかって気がするんだ。》(80-81頁)

@インサイトは、物質と精神の問題、心身関係の問題より自己と他者の問題の方が
ずっと根本的で本質的だと思っている(68頁)。

 もう一人のN、中島義道は、心身問題のモデルは過去と現在との時間関係であり、
具体的には「過去の出来事を現在想起すること」であると言う(『「時間」を哲学
する』168頁)。──あるいは、知覚世界の「細部」としての物自体。想起世界の
「細部」としての過去自体。

《…過去を可能性としてとらえることがとりもなおさず過去を実在性としてとらえ
ることなのです。過去が「実在した」という信念を探ってゆきますとこの信念は私
が現実に体験したことと等価ではなく、誰かが現実に体験したこととも等価ではな
く、むしろ誰も現実に体験していなくとも、誰か(人間でなくともよい架空の誰か)
が体験しえたことという可能性の領域が開かれてきます。》(146-7頁)

@ところで、村上龍の『五分後の世界』はラッセルの「世界五分前創造説」を連想
させる。

@哲学者の思考実験(サイエンス・フィクション)の三題噺。──火星へ行った中
国人と猫(五分前に?)。

@小泉義之『ドゥルーズの哲学』は、人格(人物)の同一性をめぐる論争(「記憶
説」対「身体説」)を決するために現代思想が導入した方法とその結論を批判して
いる。それは二人の人物、たとえば太郎と花子をめぐる記憶交換や身体交換といっ
た思考実験への批判であり、現代思想が「私」の同一性を保証するものとしてそこ
から導き出す「思考不可能で表象不可能な外部の他者」への批判である。

《出発点のSF的発想を批判しておこう。そもそも、太郎と花子を死なせないよう
な仕方で、記憶や身体を交換することが、自然界において可能なのか。仮に不可能
ならば、不可能なことの想定からは理論的に任意の結論を引き出せるから、論争に
決着はつかないし、論争は無意味であるということになる。何でもアリになるから、
何も分からないということになる。仮に可能ならば、分子生物学の知見から推して
も、種々のウィルスや種々の化学物質や種々の機械装置を使用することになるから、
交換を開始する時点で、太郎と花子は人間とは別の生命体に変容すると考えなけれ
ばならない。そして、交換操作が記憶と身体に残す痕跡を消去することは原理的に
不可能だから、交換を終了した時点で、人間のパーツを保持した新しい生命体に進
化したと考えなければならない。もはや人間は存在しないのである。したがって、
同一性に固執して「太郎」や「花子」と呼びかけたいと思うこと自体が、あまりに
も人間的な因習なのである。同一性を墨守する思想はあまりに粗雑であり、同一性
に拘泥するSFはあまりに稚拙である。ドゥルーズは『差異と反復』を「サイエン
ス・フィクション」と銘打っているが、そんな新しいSFが求められるのだ。》

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