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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.6 (2000/10/08)
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久しぶりに「文章」が読みたくなった。「文章」が読みたくなると、まず最初に大
谷崎の名が浮かんできます。翻訳も含め日本語で書かれたフィクション系以外の書
き物で、私がこれまでもっとも「文章」を感じたのは「陰翳礼讃」でした。(それ
以外でいまとっさに思いつくのは、講演禄が伝える漱石の「語り」。)「美は物体
にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にある」とか「美と
いうものは常に生活の実際から発達するもの」だとか、いささかの曖昧さも許さな
い強固な論理のうえに、具体に即して躍動する艶かしい知性となにかしら豊穣なも
のを湛えた、官能的とでもいうべき「文章」。

それはあたかも「私の見た大阪及び大阪人」(昭和七年)に描かれた関西の女の声
を思わせるものです。これは、私自身が播州(姫路)で生まれ、現在阪神間(神戸)
に住んでいることもあって、とても好きな文章の一つ。(要するに、身びいきとい
うやつなんでしょうね。)

《私にいわせると、女の声の一番美しいのは大阪から播州あたりまでのようである。
……東西の夫人の声の相違は、三味線の音色に例を取るのが一番いい。……東京の
女の声は、良くも悪くも、あの長唄の三味線の音色であり、また実にあれとよく調
和する。キレイといえばキレイだけれども、幅がなく、厚みがなく、円みがなく、
そして何よりも粘りがない。だから会話も精密で、明瞭で、文法的に正確であるが、
余情がなく、含蓄がない。大阪の方は、浄瑠璃乃至地唄の三味線のようで、どんな
に調子が甲高くなっても、その声の裏に必ず潤いがあり、つやがあり、あたたか味
がある。》

さて、今回は若い頃の作品を三つ読んでみたのですが、いったいどこが「官能小説」
なのだろうと訝しく思いながらも(それは何を期待して読んだかという、読者の側
の事情も影響しているのでしょう)、知らず識らずのうちに物語世界に引き込まれ、
すっかり谷崎の藝に酔ってしまいました。途中で、どういうわけか小津安二郎の映
画のシーンが頭をよぎってきて、それはたぶん作中の会話(とりわけ、英子や三千
子の歯切れのいい東京弁の台詞)がもたらした連想なのだと思う。そこで、近所の
レンタルショップに一本だけ置いてあった『浮草』を観て、なにやら浮世離れした
休日の午後を過ごしたわけです。(ついでに「エロスの祭司」の筆にのって、古代
アレクサンドリアの時代離れした恋愛譚に陶酔しました。)
 

●9●『潤一郎ラビリンスXIII 官能小説集』(中公文庫:1999.5)

 二つの中篇、「熱風に吹かれて」(大正二年)と「捨てられる迄」(大正三年)、
そして一つの短編、「美男」(大正五年)が収められている。久々の谷崎体験で、
これは文学というより文芸、それも文藝と綴りたくなる「文章」を堪能した。「熱
風に吹かれて」は漱石の『それから』を意識した作品らしいのだが、太った男、玉
置輝雄(「豚の土左衛門」と英子から悪態をつかれているけれど、十七貫というか
らそれほどのことはない)と、その友人斎藤の愛人で大声大食いの大女、資産家(
銀行家)の令嬢太田原英子(こちらは十五貫)との一夏の恋愛譚で、結局のところ、
愛人に愛想をつかした英子が手管を弄して男を取り替える、流麗な筆で描かれたど
こかのどかな「ユーモア」小説と見ることもできるように思った。これに対して「
捨てられる迄」は、妄想癖のある男、山本幸吉と、これまた富豪(医者)の令嬢、
植田三千子との技巧的かつ「藝術的」な恋愛譚。駆け引きに敗れた男が女の奴隷に
なってからかわれ捨てられる話で、あまつさえ男は(心理的にも、その言葉遣いま
でも)女になってしまう。「三千子さん、どうぞあたしの命をあなたの自由にして
下さい。あたしはどんな目に会わされても、あなたに捨てられさえしなければ、仕
合せです。幸福な人間です。……どうぞあたしを非道い目に合わせて下さい。出来
るだけ泣かせていじめて下さい。あなたの手なら、打たれても、縛られても、殺さ
れてもかまいません。」──この作品もまた一種の滑稽譚、ユーモア心理小説と見
ることができそうだ。
 これは「美男」でも感じたことなのだが、これらの作品には物語の表舞台に現れ
ない隠れた世界が設えられている。何か語られていない世界がある。たとえば「熱
風に吹かれて」では、英子と斎藤の深夜の会話の中味。もしかすると、両者の間で
密かに別れ話が進行していて、斎藤は金、英子は輝雄をそれぞれ手に入れる算段が
できていたのではないか。輝雄が英子に惹かれるよう、斎藤も協力していたのでは
ないか。それから「捨てられる迄」では、三千子と嫂との関係がどこか謎めいてい
て、これもまた深読みだとは思うけれど、この二人はグルになって幸吉を玩具にし
ていたのではないか。──決して「傑作」だとは思えないけれど、それにしても後
々まで楽しめる作品たちだった。

●10●ピエール・ルイス『アフロディテ 古代風俗』
           (沓掛良彦訳,平凡社ライブラリー:1998.1/原著1896)

 田口ランディ著『コンセント』のラストを読んでいて、本書を思い出した。(全
五編の途中で中断したままになっていた。)舞台は、かのクレオパトラの姉女王ベ
レニケ治下のアレクサンドリア。ガリラヤ生まれで金褐色の髪をもつ娼婦クリュシ
ス(黄金の女)と女王の寵愛を受ける彫刻家デメトリオスの愛と夢と死の物語。著
者ピエール・ルイスは、官能性は知性が発達する上での不可欠で創造的な条件だと
書いている。《それを愛するにせよ呪うにせよ、肉体の要求をその限界点まで感じ
たことのない人は、そのこと自体によって、精神の要求するところの全幅をとらえ
ることはできない。魂の美しさが顔全体を照らし出すように、肉体の持つ生殖力の
みが脳髄を豊かにするのである。》(序)──しばし陶酔の時を過ごした後、記憶
に残った断片を抜き書きしながら余韻に浸ることにしよう。
 クリュシスが七年もの間にわたって快楽の技術を学んだことについて。《なぜと
て、音楽と同じく愛もまたひとつの技法だからである。愛は音楽と同じたぐいの情
緒を、音楽に劣らず繊細で、同じように人の心を震わせ、時にはそれにも増して激
しい情緒を呼び起こすものなのだ。》(第一編)──哲学者ナウタラテスの言葉を
二つ。《人間の愛が動物たちの愚かなさかりと違うのは、愛撫と接吻という二つの
神聖な作用によってのみなんだ。》(第二編)《宇宙は三つの真理が語られるため
に創造されたのだ。してわれわれにとって不幸なことに、この真理の確かなること
が、今晩から五世紀も前に証明されてしまったのだ。ヘラクレイトスは世界を理解
した。パルメニデスは魂の本性を明らかにした。ピュタゴラスは神を測定した。わ
れわれはただ沈黙するしかない。私が発見したのは、エジプト豆がなかなか歯ごた
えがあるということぐらいのもんだ。》(第三編)──デメトリオスがクリュシス
にアフロディテを見る場面。《デメトリオスは一種の宗教的な畏れをこめて、女の
肉体の中の女神のこの怒り、全身をとらえているこの恍惚状態、自分が直接惹き起
こしたこの超人間的な痙攣に、じっと眺めいる。この痙攣を彼は高めたり抑えたり
し、それを見て千度も驚く。/彼の目の前で、生命のもつすべての力が、ものを生
みなそうとして力を尽くし、偉大さを帯びる。既にして両の乳房は膨らんだ乳首に
到るまで、母なるものが持つ威厳を帯びた。女の聖なる腹は、懐妊を成し遂げた…
…》(第四編)──デメトリオスがクリュシスに別れを告げる場面。《そうとも、
おまえか俺、愛している方がそうなんだ。奴隷になること! 奴隷でいること! 
これこそが恋の情熱の本当の名なんだ。》(第四編)

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