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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.58 (2001/06/30)
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 □ 正高信男『子どもはことばをからだで覚える』
 □ 兵藤裕己『〈声〉の国民国家・日本』
 □ 桑子敏雄『感性の哲学』
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山内志朗さんは『天使の記号論』の第3章「聖霊とコミュニカビリティ」で、声と
聖霊の類似性をめぐって、そこには「一なるものが多なるものに移行する作用」が
見られる(「声は心をそろえるメディア」であると山内氏はいう)と述べていまし
た。そして「声の文化」が根づよく支配していた中世にあって、その典型的なコミ
ュニケーションであった祈りに関して、次のように書いていました。

《…祈りが神への伝達として捉えられれば、声に出す必要はないはずなのに、声に
出すことが重んじられたのは、祈りは伝達ではないからだと言うこともできる。祈
りとは絆を作ることだ。では祈るのは誰なのだろうか。我々人間が聖霊を通して祈
るのであるが、その祈りが生じているのは、聖霊の賜物によってであるから聖霊が
祈っていると述べてもよい。ここで立ち止まって考えよう。人間が聖霊を通して祈
ることと、聖霊が人間において祈ることが同じだというのは何を意味するのか。聖
霊は、人間の心の内に深く浸透し、心の自発的な働きと区別できないような形で内
在するということだ。媒介が主体となっているのだ。ここで、人間が話すのではな
く、言葉が話すというモチーフを思い出してもよい。これは、媒介と主体が相互浸
透している事態の表現なのだ。》(82頁)

山内氏は同書のあとがきに、「いまだに、文章を書いていると、どこかから湧いて
くる声を書き留めているだけだという感じが拭えない」と書いていて、生じている
事態のニュアンスは異なるのかもしれないけれど、私もまたしばしば、何かをしゃ
べり終えたとき、それはどこかから湧いてきた声が私の発声器を通して出現しただ
けだという感じが拭えないので、いたく共感してしまったのですが、それはともか
く、いま抜き書きした文章を読んで、『子どもはことばをからだで覚える』の第五
章「ことばの意味はどのように把握されるのか」に出てくる次の文章──「身ぶり」
の果たす役割、と小見出しがついた箇所の文章──が、どこかでつながっているよ
うに思えたので、そのさわりの部分を記録しておきます。

《…子どもが単語のシンボリックな意味を理解するにいたる過程を考えてみると、
特定の事物の属性・特徴に依存して、分析的に高度な次元に到達することが不可避
な上、なにはともあれまず発話行為のイメージ的側面をとっかかりにせざるを得な
いのである。それは、ことばの指示対象を身体的に把握することにほかならない。
 身体でわかるとは、単に自分の体を用いるにとどまらず、大人からの教示を受け
る際にも、相手のジェスチャーに影響されるということなのだ。ことばを発する周
囲の人物が意識・無意識に行う身のこなしを目にしたとき、それを自分の体と心で
「なぞる」ことで、イメージ的側面を共有することを媒介にして、脱文脈化した語
彙の意味の把握は初めて進行するのだと考えられる。》(135-136頁)

なお、以前、拾い読みならぬつまみ食いしただけで放置していたW・L・オングの
『声の文化と文字の文化』をあらためて読み始めたのですが、今回もまた、残念な
がら時間切れ(?)で読了できず、他日を期すことにしました。
 

●143●正高信男『子どもはことばをからだで覚える』(中公新書:2001.4)

 「少し長いあとがき」に出てくる音楽の起源をめぐる仮説が面白い。子どもにと
って言語の習得とは、身体全体を巻き込んでなされる営みなのだが、いったん自由
にあやつれるようになると、ことばを用いることは理性的かつ主知的な営みである
とみなされてしまう。ヒトはロゴスを所有する動物である、というわけだ。

《だが、「ことばを持った動物」たるヒトは、「テキストとしての言語を所有する
動物」にはとうていなりきれないのだと私は思う。ゆえに、身体性を表面的には消
し去ることに成功したとしても、決して抑圧することはできないのだろう。ただ、
形を変えて、姿を現すだけなのではないか。そして、それこそ音楽というものの本
質ではないかと、私には思えるのだ。それゆえ、およそ音楽は、歩行のリズム・和
声・韻律・手の動き(舞踊)といった、ことばの習得に重要な役割を果たすにもか
かわらず、言語がテキスト化するなかで排除された要素によって構成されているの
ではないだろうか?》(176-177頁)

《古典としてのテキストこそが、「正しい」言語とみなされていた時代を例にとる
と、当時は「語り」としてのことばが音楽の主たる要素であった。韻律や声調を、
メロディーとして効果的にデフォルメするなかで、演じ手が他者にいかに感銘深く
話して聞かせることができるかによって、音楽の良し悪しは評価された。(略)ア
ーノンクール風に表現すれば、ここ一五○〜二○○年あまり、先進国地域での音楽
は、「語り」中心の姿勢から離脱し、「響き」の注目へと一貫して傾斜を強めてき
たのだが、それは言語のとらえ方が変わってきたこと[philologyからlinguistics
 へ:引用社註]と表裏一体をなしているのだ。》(179-181頁)

 このあたりの面白さを堪能するためには、本書を最初から丁寧に読むことが必要
だ。言語の習得が子どもにとってどれほどの大事業である(あった)ことか、そし
て大人はいかに「常識」にとらわれてそれを見てきた(忘却していた)ことか、目
から鱗の鮮烈な読書体験を味わうことができるだろう。(それから、実験科学のす
ごさも。)

 本書を読んで、思ったこと。一つは、ここに叙述されているプロセスを、脳科学
の最近の知見(たとえばミラー・ニューロンの発見など)でもって理論的かつシス
テマティックに叙述した書物をぜひ読みたいと思ったこと。いま一つは、最近感銘
を受けた二冊の本、清水哲郎著『パウロの言語哲学』と山内志朗著『天使の記号学』
と響き会うところが多々あるのではないか、子どもの言語習得のプロセスが西欧の
ロゴスやキリスト教神学の歴史とかなり重なり合うのではないかということ。

●144●兵藤裕己『〈声〉の国民国家・日本』(NHKブックス:2000.11)

 NHKのラジオ全国放送が開始(昭和3年)され、日本で浪花節が流行していた
1930年代のはじめ、ホメロスの物語が「オーラル」に構成されるしくみについて考
察したミルマン・パリーは、その成果を検証するため、旧ユーゴスラビア地域に残
存していた吟遊詩人のパフォーマンスを実地調査していた。ミルマン・パリーがそ
こで観察したのは、物語芸人たちの口頭芸を通じて旧ユーゴスラビア地域の民族意
識(ナショナリティ)が再生産されるしくみだった。(序章「声と日本近代」)

 著者は本書で、たとえば日本近代を代表する「リテラルな文学者」漱石と同時期
に活躍した桃中軒雲右衛門の声が「社会秩序や法制度のロジックにたいする合理的
な感覚」を麻痺させ、聴衆を「ある均質で亀裂のない心性の共同体」へとからめと
った経緯を通じて、ミルマン・パリーの「発見」を実地に検証・確認している。

《浪花節という声の文学は、ラジオという新時代のメディアをとおして、昭和初年
の日本に全国規模の声のユニゾンを形成してゆく。法制度のロジックを吸収・解体
してしまうメロディアスな声は、「日本固有の義理人情」といったことばで説明さ
れる浪花節的心性の実体である。…浪花節の声によって浸透する物語のモラルは、
既存の秩序やヒエラルキーにたいする暴力的破壊の気分さえただよわせながら、日
本的ファシズムの感性を醸成してゆくのである。》(235頁)

 日本人の「均質幻想」を生み出した背景に、権力による徹底した文書主義の浸透
(多様な口語世界をおおった均質な文字文化の表皮)を見る網野義彦の所説に関し
て、著者は次のように書いている。

《列島の言語が「日本」語でありつづけたことには、文字言語の画一性よりも、中
世以来の口頭的[オーラル]な物語芸能の流通が、より大きな要因として作用した
と思われる。地域を越えて伝播・流通する物語芸能の声が、「日本人ならだれでも」
わかる口頭言語の最大公約数を提示しつづけたのである。》(77頁)

 また、丸山真男が日本型ファシズムの思想的特徴として、農本主義、大アジア主
義とともに家族主義をあげ、昭和のテロリズムが天皇を親としていただく国体思想
を行動原理としていたと指摘していることに関して、こうした「家族主義」は、制
度としての家父長制とは異質の文脈から発生したものであると指摘している。

《物語として流通・浸透した制度外のファミリーのモラルを媒介として、国体とい
う観念が受容され、天皇の「赤子」としての国民の平等幻想が大衆に共有される。
浪花節のメロディアスな声が、地域や階級による差異・差別をいっきょに解消して、
あるナイーブな「国民」精神の共同体をつくりだすのである。》(232-233頁)

●145●桑子敏雄『感性の哲学』(NHKブックス:2001.4)

 「感」とは動くことである。「気」(エネルギーをもつもの)が拡散して空間と
なり、拡散した物質が凝集して物体的なものが成立する。これら二つの状態は相互
作用によって宇宙と生命を作り出す。この相互作用を「感」という。また、「性」
とは能力(デュナミス)である。性が感じて、つまり世界と交感して「情」(エネ
ルゲイア)となる。「性」と「情」の統合が、すなわち「心」である。感性とは「
環境世界と自己の身体との交感能力」(32頁)であり、「配置と履歴から世界を感
知する能力」(222頁)である。

 ここに出てくる二つの言葉、「配置と履歴」が本書のキーワードとなる。人間を
「履歴をもつ空間での身体の配置」(198頁)と捉えることが、「履歴をもたない自
己」=「デカルト的自己」の対極に位置する、著者の人間観の根幹をなすのである。

 著者は、風景がもつ奥行きを「ひだ」と呼ぶ。《風景のひだの奥には、空間のも
つ履歴が存在する。ひとの人生の長さを超える履歴がひそんでいる。その履歴をも
つ空間のなかに自分の存在を得ることで、自己の存在は、時間的存在であることを
確認し始める。》(51頁)

 西行に朱子学、アリストテレスのプシューケー論とこれにもとづき江戸初期に書
かれた『妙貞問答』(ハビアン不干斎著)、ハードゾーニングの形態をとる「概念
風景」(ロゴス化された風景)と空間の意味に着目したソフトゾーニングによる「
感性空間」の対比、環境と生命と情報をめぐる価値構造論、等々、西洋と東洋の哲
学から公共政策のあり方まで、まことに射程の広い目の眩むような書物で、全九章
のどれをとっても刺激的な洞察に満ちているのだが、とりわけ終章の、個人的交流
の履歴を織り交ぜた故大森荘藏をめぐる叙述は印象深く、感動的でさえあった。

《大森は、ことばについて考察するプロセスでつぎのように考えている。声になっ
たことばは、じっさいは、身体の外にあってのみ、はたらくことができる。声は出
されていないときには存在せず、声として身体の外に出されてはじめて存在するか
らである。すると、声は皮膚の外で身体の生きることに「参加」しているのである。
そこでこそ、声は、身体と密接な関係をもつ。大森は、このように考えて、声を身
体の一部として見ることもできるという。(略)ひとが身体を動かすとき、身振り
が生じるが、この「身振り」ということばを大森は、たんに身体を動かす場合だけ
でなく、声や視線を動かすときの「視振り」や「声振り」などの全体を含めて用い
ている。(略)触れられ、動かされることが、ことばの意味を知ることであり、だ
からこそことばとは行為である。(略)このように考えるならば、ことばとひと、
ことばと世界とは人間の生活のなかで直接的にむすびついていることになる。だか
ら、そこには、世界とことばをむすぶ第三の存在としての「意味」を想定する必要
はない。》(205-206頁)

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