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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.57 (2001/06/24)
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 □『國文學』臨時増刊(村上龍特集)
 □ 村上龍『あの金で何が買えたか』
 □ 村上龍『フィジカル・インテンシティ 』
 □ 村上龍『寂しい国から遙かなるワールドサッカーへ』
 □ 村上龍『寂しい国の殺人』
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「二○世紀の後半、特に最後の四半世紀に瀰漫していた空気は、けっして濃いもの
ではなかった。」(山内志朗『天使の記号学』227頁)──この文章を読んで、思
い出したこと。盲目の囚人が、絞首刑に先立って頭部を目隠しにすっぽりと覆われ
てパニックをおこし、息ができないと泣き叫ぶ『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の
ラストシーンは鮮烈だった。[*1]

『天使の記号学』を集中して読んでいたとき、年長の友人が私を訪ねてきて、この
秋の神戸市長選に村上龍が立候補するようはたらきかけたいと思っている、と切り
出した。ついては、村上龍に会う前に何を読んでおけばいいだろうか。私は適当に、
JMMの出版物を全部読んでおくべきでしょう、とかなんとか答えておいたのだが、
村上龍は小説家としての強烈な自覚を持った作家だから、その話にはまず乗らない
だろうと考えていた。

そうこうするうち、私のなかでいつのまにか『天使の記号学』は村上龍を解読する
ための手引書の位置をしめるようになってきた。いま村上龍を解読すると書いたけ
れど、やりたいと思っていることは、目分量でたぶん三割程度しか読んでいない村
上龍の文章を小説中心に読み込んでみて、あれこれ素材を収集し、諸々の雑念をノ
ートしておくといった作業で、とりあえずタイトルは、『天使の記号学』の序章か
らそのまま借りた「リアリティのゆくえ」か、「スピリチュアル・インテンシティ」
あるいは「魂の濃度変化」とでもしておくことにした。[*2][*3]

* 田口ランディとの対談「魂と向き合いたい」(『鳩よ!。』2001年4月号)の冒
頭で、鎌田東二が「田口さんはビョークに似ているんだよね」「顔が似ているとい
うだけじゃなくて、思想も行動も感性も感覚もかなり似ている」と語っている。(
最近ようやく『ダンサー・イン・ザ・ダーク』をビデオで観たのだが、先入観が抜
けなくて困った。)

 その田口ランディが村上龍との対談「引きこもりと狂気」で、「人間は死という
違和をとにかく体に入れないことには、「私」になれないんじゃないかなというこ
とをよく感じていて、多分ウエハラも、死を共生虫という形で、ある異物として自
分の中に入れたんだなと思いました。…自分というものの中でアレルギーを起こし
ながら、異物と戦ったあげくに、「私」というものが何となくできてくる。そうい
う限りない違和の取り込みの過程があって、人は生きていく、その最大の違和が死
だな、そんなふうに思って読みました」(文庫版『存在の耐えがたきサルサ』586
頁)と語っている。「村上さんがいつも小説を通じてやってこられたのは、きっと
いろんなことを異物化させることだったんじゃないですか。」「そういわれるとう
れしいです。」(615頁)

*2 田口ランディのコラムマガジン(2001.5.17)に掲載された「アニミズムという
希望・山尾三省さんのこと」という文章に、今年の4月、初めて屋久島で詩人の山
尾三省さんと会った時の会話が紹介されていた。とても面白いものだったので、抜
き書きしておく。(これはほとんどドゥンス・スコトゥスではないか。)

  「つい最近、三作目の小説を書き終えて、今、新しいテーマに向かって
  いるところです。でも、自分でもまだイメージの塊のようなものしかな
  くて、何かを探しています。自分が何を探しているのかすらよくわかっ
  ていないのですが、今年に入ってから私はずっと、水と音楽について考
  え、水と音楽に関わる旅をしています。自分がいま、とてもこだわって
  いるのが水と音楽のようです」

  「おもしろいですね。水ですか……」「はい。それで、なんだか漠然と、
  水というのは魂ととても似ているのではないかと思い始めました。それ
  は……なんというか、水は蒸気になったり、氷になったりして姿を変え
  るけれど、その本質は変らないでしょう?それが、魂と似ているなあと。
  だからもしかしたら、魂は水という性質を似せて作ったものなんじゃな
  いか、なんて思ったりしました。こういう考えって変ですか?
  水と魂は相似形なんじゃないか……って」

  「いえいえ、ちっとも変じゃないですよ。わかります。その通りではな
  いかと思います。私はいつも、魂は濃度変化だと言っているんですけど
  ね、同じようなことだと思います。つまり、魂というのもその本質はいっ
  しょで、ただ、その濃淡があるんじゃないかと。濃度がどんどん濃くな
  ると、まあ神様のようなものになるし、人間もその濃度のなかのひとつ、
  というかね」「ああ、なるほど。濃淡ですね、濃くなっても、霧散して
  いても、その本質は同じなんですね」

*3 この作業はいくつかのフェイズに分かれることになるだろうが、その一つはた
とえば「政治神学をめぐって」といったタイトルで、『愛と幻想のファシズム』や
『五分後の世界』や『ヒュウガ・ウィルス』や『希望の国のエクソダス』を取り上
げることになると思う。いつ作業を始めるか、ほんとうに取り組む気があるのか、
いまはまだ何ともいえない。(こうやって宣言しておけば、その気になるだろう。)
 

●138●『國文學』臨時増刊(2001年7月:學燈社)

 「世界経済・金融」「学校」「戦争・暴力」「フーゾク」「キューバ・音楽」「
映画」の6つのフェイズで「“現代”のエッジを行く」作家村上龍を特集している。
(「サッカー・スポーツ・F1」といったフェイズがあってもいいと思う。)

 詳細な年譜がとても重宝だし、小熊英二や田口ランディや妙木浩之や寺脇研や金
子勝といった最近の Ryu's Bar の常連の文章もそれなりによかったのだけれど、
面白かったのが竹中平蔵の「村上龍はとてつもない“正統派エコノミスト”である」
という文章。

 われわれ経済学者の抽象的で無感動な政策シュミレーションは社会的存在感を持
ち得ないが、言葉という武器を縦横無尽に駆使して無から感動を生み出す魔法使い
=作家という人種は物凄い。

《その意味で、村上が日経新聞の経済教室に堂々たる政策論を展開する姿自体が、
もはや近未来小説のようでもある。そもそも経済学の語源は、「共同体のあり方」
すなわち社会のあり方である。原点に立ち返って人間と社会を捉え、それを感動を
もって表現する村上のような作家が社会をリードする主役になるのは、極めて自然
なことなのかもしれない。》

 ──ちなみに竹中がいう日経新聞の記事(2001年1月8日付「経済教室」欄)は
「経済変革は文化の力から」というタイトルで、これは政策論というよりむしろ政
策を語る言葉とメディア批判の論文だ。その要約部分を抜き書きしておく。

《経済活動にはコミュニケーション、つまり文化の力が欠かせないが、いまはそれ
が十分機能していない。日本の場合、近代化や高度成長などの目標を達成できたの
は、一体性を訴えて国民を鼓舞できたマスメディア・文化の力による。しかし、こ
うした目標の達成後も文化は、「個人の確立」など社会が概念を共有していない言
葉を、旧来手法で多用し、啓蒙しようとしている。その手法の限界を超えないと、
既得権の切り崩しと経済の変革はおぼつかない。》

 巻頭の池澤夏樹との対談では「高度成長の先に新しい倫理をどう作るか」という
くだりが面白かった。「僕はいつも小説は情報だと言うんです。情報を物語に織り
込んでいくということだと思っているんです。物語の構造というのはそんなにたく
さんあるわけではないですから、ものすごく織り込み方がうまいとか、織り方が非
常に高度であるというのはわかるんだけど、そもそも物語の中に組み込んである情
報が古かったり、あまりにも陳腐なものであったりすると、影響は受けにくい」と
いう村上の発言が印象に残った。

●139●村上龍『あの金で何が買えたか 史上最大のむだづかい'91〜'01』
                           (角川文庫:2001.4)

 2年前小学館から出た絵本に書き下ろしのエッセイや竹中平蔵との対談、最近の
事例が追加された改訂版。たとえば今年の2月経営破綻したシーガイアの負債総額
3261億円で、プレステ2を開発し(200億円)、都道府県に100面ずつ芝のサッカー
コートを造り(2021億円)、トルシエ級のサッカーコーチ100人を1年間雇い(100
億円)、坂本龍一オペラを製作して(50億円)、それでもおつりが890億円もある。

 対談の中で竹中が、英米では経済学の社会教育という分野が確立していると述べ
ている。右肩上がりの成長が続いた日本では経済に対する基本的な目を持たないで
済んだのだが、普通の国になると経済の社会教育が必要になってくる。しかし専門
家がいない。結局は自分で考えるしかない。

 これを受けて村上が、誰がコストを払っているかに少し気をつければ、物事の本
質が見えてくると応じる。個人の確立とは(思惟主体の確立の前に)経済的主体の
確立のことであって、だから経済の社会教育というのは人間の生存条件を体得させ
るものにほかならず、だからそこに小説家の技術がかかわってくる(と思う)。

●140●村上龍『フィジカル・インテンシティ '97-'98 season 』
                            (光文社:1998.12)

 タイトルが実にいい。文章もいい。この、今も続くスポーツ・エッセイは、村上
龍の代表作になるかもしれない。
《わたしはあのジョホールバルのゲームでまさにフィジカルなインテンシティを感
じたのだと思う。肉体的な強度、鮮烈さ、濃度、彩度、そういうものである。サッ
カーにおける本当の意味での死闘を目にして、電子メールなどという、肉体性のな
いコミュニケーションツールがさもしく思えたのだ。》(26頁)

 「スポーツというのは圧倒的なコミュニケーションの場である」と村上はいう。
すばらしい試合、プレー、選手は、必ず音楽的だ。
《音楽にはスコアがあり、また即興演奏でも「敵」はいないが、サッカーでは敵と
の応酬を含めて、それが一つの音楽的なコミュニケーションを形作る。
 言葉を必要とせずに、何か大切なものが伝わってくるのだ。選手たちの勝利への
執念といったものが、生存の条件とか、歴史とか、運命とか、偶然を生む意志の力
とか、そういう抽象的なものに姿を変えて、見ているものに伝わってくる。》
(26-27頁)

 解任された加茂前監督が解説者・評論家として「復帰」したことやカズへのバッ
シングをめぐって。
《歴史というのは本来、ある一貫した価値観を持つ個人・集団・国家の、他者との
遭遇とその反応の連続だ。歴史とは単なる過去ではない。歴史は現在に連なり、未
来とも連続するものだ。歴史とは「終わってしまったこと」ではない。日本人にと
ての歴史とは、内輪の栄枯盛衰の物語に過ぎない。》(98-99頁)

 中田とペルージャの日本マスコミとの対立をめぐって。
《「このゴールの喜びを誰に最初に伝えたいですか? チームにはもう溶け込めま
したか? 慣れない土地で苦労しているんでしょう?」
 苦労しています、とマスコミは中田に言わせたい。それは世間に対する甘えた告
白だからだ。「苦労しています。毎日大変です」と中田が甘えると、日本の世間は
安心する。イタリアへ行っても依然として中田が仲間で家族のような存在だと思え
るからだ。
 中田は、日本の社会に庇護を求めない、貴重で新しいモデルだ。(略)中田は今
後もマスコミに迎合することはない。自分の価値観を貫くべきだ。マスコミの側が
少しずつ中田の価値観に近づいていくだろう。旧態依然としたシステムはこのまま
ではこれから生き残っていけないからだ。銀行の次には製造業、そのあとにメディ
アの淘汰が始まるだろう。》(220-221頁)

 補遺。自作のどこが面白いの、と韓国人に聞いてみたら、「近代化を急ぐ国の、
人間の精神の未来が書いてある」(56頁)という意見が返ってきたという。実に面
白い。批評にはモデルが必要だという指摘も鋭い。

●141●村上龍『寂しい国から遙かなるワールドサッカーへ』
                       (ビクターブックス:1999.4)

 ワールドカップ'90イタリア大会、ユーロ'96イングランド大会、そしてワールド
カップ'98フランス大会の観戦記が掲載されている。

 サッカーのゴールは奇跡である、90分間集中するのは人間の限界を越えている、
集中力の持続が、才能というものなのだ──「ある何かに対して集中力を持続させ
ることができる、それがその人の才能のすべてなのだ」「文章の上手な人が小説家
になるわけではないのだ。小説を書く時に最高度の集中力を発揮してそれを持続で
きる人が小説家になるのである」「集中力を持続させるためには、常に飢えていな
くてはいけない。…だから、ゴールに飢えていないプレーヤーはフォワードにはな
れない」「ハングリーとプアは別のものなのだ」、マラドーナはセクシーなプレー
ヤーだろうか、イタリアではセクシーなことが美徳とされている、なぜか、豊かだ
からだ──「豊かさの果てにそうなったのである。貧乏人には幸福はあっても快楽
はないといったのはスタビスキーだが、日本もあと5百年か千年繁栄を続ければイ
タリア人のことが理解できるようになるかも知れない」と語る90年の村上と、日本
には「過去」はあっても「歴史」はないと語る98年の村上の対比が面白い。

●142●村上龍『寂しい国の殺人』(シングルカット社:1998.1)

 村上龍の文章には「強度=濃度」(インテンシティ)がある。本書はもともとイ
ンタビュー構成の予定だったものを止めて「書く」ことにしたものだとあとがきに
書いてある。「近代化の終焉」によって集団的・国家的な目標が喪われ、さまざま
なレベルでのコミュニケーションが変わらざるを得なくなって「伝えなくてはいけ
ない情報を正確に伝える技術への依存度が高まる」とも書いてある。「書くのは面
倒だといつも思っている。」

 本書にはアドビ・フォトショップを使って「滅び行く日本」をモチーフに村上が
製作したCGが添えられていて、テキストの「強度=濃度」と拮抗している。「(
貧しさによる)悲しみから(豊かさによる?)寂しさへの基本感情の変化」が造形
されている。──「近代化が終わったのはすばらしいことだ、おめでとう」(イタ
リア人の新聞記者のインタビュー語の言葉)。

 ちなみにこの6月に刊行された対談集『存在の耐えがたきサルサ』の文庫版あと
がきで村上は次のように書いている。《近代化の途上では、近代化のあとにどうい
う問題が噴出するのか誰もイメージできない。わたしは日本の近代化の終焉につい
て、もうしばらく考え続けたいと思う。》

 本書に収録された文章は、読売新聞に「インザ・ミソスープ」を連載中、神戸須
磨区で起きた児童殺傷事件の犯人が逮捕された時のものだ。《例の十四歳の少年が
本当に犯人で、ひょっとして会うことがあったら、聞いてみたいことがある。警察
へのあの挑戦状を書いているときも、自分を「透明」だと思ったか、ということで
ある。》──「書く」ときのインテンシティを支えるもの。

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