〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ 不連続な読書日記               ■ No.56 (2001/06/24)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 □ 山内志朗『天使の記号学』
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

梅雨の晴れ間の日曜の朝、ためこんだ疲れを癒すため久しぶりの朝寝をきめこんで
いたら、突然のインターフォンで夢の世界が瓦解し、パジャマのまま飛び出してみ
ると、宅急便で一冊の書物が届いていた。それは以前 bk1 で予約していたもので、
永井均さんの『転校生とブラック・ジャック』。「独在性をめぐるセミナー」と副
題がついていて、大切にとっておいたのにうっかりなくしてずっと気に病んでいた
『春秋』(1999年10月号)掲載の短文「火星に行った私は私か」が序章に収録され
ている。嬉しい。ずいぶん久しく遠ざかっていた永井ワールドにこれからしばらく
浸ってみるかと、寝覚めと機嫌のいい休日の午前を堪能した。

さて、岩波書店から刊行中の「双書現代の哲学」全15冊にはとても期待していて、
永井さんの本を含めてこれまでに出た五冊はすべて、限られたスペースしかない本
棚の一角を半永久的に独占する常備本の候補。偶然なのかもしれないけれど、第一
回配本の二冊がいずれも中世哲学関連本だったのにも、何やら編集者の心意気(?)
が感じられてとても好感がもてる。

もっとも、前々回に取り上げた清水哲郎さんの『パウロの言語哲学』は、古代の思
想から中世哲学を照射するものだったし、今回紹介する『天使の記号学』は、中世
を鏡として近代的な「身体を持たない、純粋な意識形態としての超越論的統覚」と
その延長線上にある「現代に瀰漫するリアリティの空白」を顧みるといった趣向の
ものだったのだが、このあたりの対比も実にバランスがいいと思った。

それにしても山内志朗さんのこの本は、途方もない射程の広さと深さ、そしてとて
つもない汎用性をもった概念的濃度を湛えていて、たとえばその一例として、金融
論への「応用」、あるいは村上龍の思索と活動と作品世界をめぐる批評的言説のバ
ックボーンとしての「活用」などが考えられる。前者は措いて、後者については、
次回少しだけ言及することにしよう。[*]

* 最近『超越論的金融哲学論考』(ISコム)という書物があることを知った。著
者の藤崎達哉氏のホームページ[http://www1.odn.ne.jp/~cbr79810/]で一部が紹
介されていて、その中に「レポ取引・・・短期金融市場におけるスコラ論争」とい
う文章がある。実念論(リアリズム)と唯名論(ノミナリズム)の論争を、本質と
現象をめぐる問題の「変奏曲」ととらえて……と、下手に要約するより、さわりの
部分を切り貼りしておく。

《オレ達は、レポ取引を、証券とりわけ国債を担保にした安全な資金取引として理
解している。それはそれで正しい理解である。間違ってはいない。事実、財務証券
レポ市場は、フェデラルファンド市場と並んでニューヨークの短期金融市場の心臓
部だし、日本でも国債レポ市場は、低金利の影響で縮小しちゃったコール市場を抜
き去って、今では最大規模の短期金融市場である。この場合、国債は資金を融通し
てもらう為の担保であるから、同じ信用力の証券なら基本的にはなんでもかまわな
い。国債は、発行ごとに名前(回号)があり203回債と157回債では別物であ
るが、資金取引としてのレポでは問題にされないのだ。言ってみれば、個別の国債
ではなく、国債の信用力という抽象的なものの見返りとして資金が融通されている
わけである。このようなレポをGC(一般担保)取引と呼ぶ。これは普遍論争にお
ける実念論の立場だといえる。唯名論者は、存在するのは個別の国債のみだと主張
するかもしれないが、金融市場では「国債一般」という抽象的なものが「実在」す
るのである。》

 ついでにもう一題。羊王国[http://www2s.biglobe.ne.jp/~yoshia/index.html]
に掲載されていた村上龍『ストレンジ・デイズ』の「感想」がちょっと面白かった
ので、一部をペーストしておこう。

《ところでこの本を読みながら感じていたのは、村上春樹との相違性だったんです。
この『ストレンジ・デイズ』と同じ位相にあるのが『ダンス・ダンス・ダンス』だ
と思います。このふたつの作品を対比しながら読むと、彼らが若い頃に聴いていた
ポップスやロックの違いがそのまま二人の小説世界の違いだという気がしてくるん
ですね。それはやさしい言葉が見つからなかったんだけれども、中世スコラ哲学で
いう普遍論争に近いものを感じていました。(略)この普遍論争と模して考えると
「唯名論」が村上春樹で、「実念論」が村上龍なんだと思う。あくまで村上春樹の
場合は具体的に触れたり考えたりできる世界で物語を組み立てているし、個人と世
界の関係なんかを考えるときに必ず自分の中の必然性をかきあつめて納得している
んですよね。あくまで自分という個人があって世界が存在する。すごく登場人物に
リアリティがある。だから神的なものが希薄なんだけれども、村上龍の場合には登
場する人物がどことなくみんな存在がぼやけている。それは物語の背景に必ず「使
命」的なものが感じられるからなんだと思うんですね。それは世界の側にとってみ
れば神的なものであるし、個人の側にたてば運命的なものに感じられてしまうので
すね。だから村上龍は常に社会に敏感なんだと思う。まあ、私にはなんか村上龍の
小説には、私のようなバカものたちを居心地悪くしてやろう、と使命感のようなも
のを感じてしまうので(^^)、いまいち好きになれない作家なんだけれどもやはりこ
ういう経済状況の中、こういう扇情的な人も貴重ですよね。》★羊男★1998.4.4★
 

●137●山内志朗『天使の記号学』(双書現代の哲学・岩波書店:2001.2)

 とてつもなく濃密で凝縮された内容をもつ書物だ。論理展開というよりは(饒舌
と寡黙の?)濃度変化とでも形容すべき精妙で「リリカルな」構図のうちに概念が
潜在し、自らの強度変化によって「見えないもの」から「見えるもの」へと現実化
=実在化を果たしていく。

 たとえばイデアやゲノムのように、ネオ・プラトニズム的な流出論の衣装を纏っ
たプロセスを通じて、潜在的に最初に与えられたものが最後に実在として成就する
(時間的な?)生成のメカニズム、あるいは聖霊を通じて祈ることと聖霊が祈るこ
ととの一致といった「己有化」ないしは「反転可能性」に根ざした(空間的な?)
生成のメカニズム、そして、こうした「内在的超越」プロセスの媒介を表現するキ
ーワードがドゥンス・スコトゥスの「形而上学的濃度 gradus metaphysicus 」=
「内在的様態 modus intrinsecus 」であり「このもの性 haecitas,haecceitas 」
である。

《実際、スコトゥスの固体化の議論は、「石」などの例を使いながら、ペルソナ・
人格を論じる枠組みと重なるところが多い。そして、新プラトン主義の伝統の中で
は、「私とは何か」を問うことと、存在論、宇宙創造論、霊魂論が重なっていたこ
とを思い出してもよい。
 話を先に進めよう、個体化は共通本性に新しい概念規定を加えないということ、
にもかかわらず個体化はそこに生じている。そこに見られる錯綜をスコトゥスは「
内在的様態」という概念で表現する。度(gradus)といっても、強度・内包量・濃
度と言ってもよい。たとえば、「赤」を例に取れば、濃いものの薄いものもある。
特定の赤色には必ず特定の濃さが備わっていて、その結果、特定の「赤」としてあ
る。しかし、この濃度、つまり「赤さ」というのは、「赤」に何を付け加えている
のだろう。
 スコトゥスは、個体化とは濃度・「赤さ」のようなものだと考える。概念規定の
領野に最終的な概念規定が加わって、個体が析出してくるというのではなく、その
ような最終的な概念規定は存在しないことを述べたのがスコトゥスの「このもの性
」ということだ。》(212頁)

 もちろん、これでは要約にも何にもなっていない。所詮、わかちゃいない。濃す
ぎるのだ。何度も咀嚼し希釈しなければ強すぎるのだ。──本書には、ベンヤミン、
パース、ドゥルーズという私が関心を寄せつづけてきた三人の思索家が揃い踏みで
出てくる。祈りや聖霊、欲望と快楽、魂と肉体、「私」と「存在」、個体と普遍、
受肉や三位一体や普遍論争をめぐるスリリングな議論、そして「コミュニカビリテ
ィ」や「私性」(「私は……である」ということを語りうる条件を形成するもの)
といった斬新な概念が矢継ぎ早に出てくる。要約整理して先へ進むことなどできな
い。というか、先へ進むための「力」そのものを立ち上げているのが本書だ。

《可能性が現実性への志向性であり、現実性が可能性を含んでいるとしたら、可能
性が未来に投影された場合、それは目的・テロスとして映じることになる。(略)
目的・テロスは、観察し、記述する能力を持った存在者がいるという条件が満たさ
れている場合には、可能性にとどまりながらも、現実性に含まれているばかりでな
く、現実性の表現の中に登場する。その場合には、最後に現れるものが、最初にあ
たかも原因であるかのごとく、いやたぶん実際に原因として存在する。(略)
この本の要点を取り出せば、意を尽くしていないが、だいたいこういうことになる
だろう。こういう存在論や形而上学のモデルを通して、リアリティの問題に踏み入
った場合、リアリティは、被限定項─限定項─限定態という三項図式においては、
限定項に現象するものであると考えている。
 結局のところ、私は「私」とはハビトゥスであると言うことで表現したかったの
だろう。「それをいっちゃあ、おしめいよ」で、事実を言っても仕方ない、いや言
説の流通過程に流すべきではないのかもしれないが、「私」とは、肉体でも脳でも
精神でも無意識でも関係でも幻でもないとすれば、少しは意味があるかもしれぬ。
「私」は必ず具体的な姿で、形を持って存在するしかない。》(231-233頁)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ メールマガジン「不連続な読書日記」/不定期刊
 ■ 発 行 者:中原紀生〔norio-n@sanynet.ne.jp〕
 ■ 配信先の変更、配信の中止/バックナンバー
       :http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
 ■ 関連HP:http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
 ■ このメールマガジンは、インターネットの本屋さん『まぐまぐ』 を利用し
  て発行しています。http://www.mag2.com/ (マガジンID: 0000046266)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓