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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.55 (2001/06/04)
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 □ 『エックハルト説教集』
 □ 田口ランディ『モザイク』
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私はいまエックハルトに熱中しています。生年は1260年頃。大聖堂で有名なケルン
の神学大学でアルベルトゥス・マグヌスの最後の弟子(最初の弟子がトマス・アク
ィナス)として学び、「都市という新しい世界における托鉢説教者修道会」(上田
閑照)であったドミニコ会高位の宗政家にして、ニコラウス・クザーヌスにヤコブ
・ベーメ、フィヒテ、シェリング、さらにノヴァーリスに及ぶドイツ神秘主義の主
峰をなし、1328年に没したエックハルト。

上田閑照著『エックハルト』には、アリストテレスの理性の哲学を思弁的基礎とし
て、同時にアウグスティヌスの霊性から深く強い影響を受け、新プラトン主義的な
「一(いつ)」への還帰と否定神学から親密かつ決定的な精神的洞察を得、さらに
アラビアとユダヤの哲学にも深い親近性をもち、「そのような諸源流の合流と融合
から、霊性によって荷電された知性、知性によって平常化された霊性とでも言うべ
き独特な立場──立場というよりは現実の只中での根源的な生の独特な質が開き出
され、正にエックハルト以外の何者でもないエックハルトがそのような生を語った
のであり、また語りつつあるのである」と書いてありました。

ところで、中沢新一氏の『純粋な自然の贈与』は「人間の霊性」を主題とした本(
「あとがき」にそう書いてある)なのですが、「バイオテクノロジーと脳生理学と
全面化された市場経済」の現代において、霊はふたたび新しい変態をとげつつある
のであって、「いまや、大地、貨幣、情報についで霊こそが人間にとっての「第四
の自然」となりつつある。だから、いま私たちにもっとも必要なのは、新しい「霊
の資本論」の出現ではあるまいか」と結ばれるその「序曲」で、著者は次のように
述べています。

中世を通じて、カトリックの世界では「三位一体のボロメオの輪のうち、聖霊の部
分は大きく収縮して、父と子の超越性のほうに、大きなウェイトがおかれるように
なってしまった。こういう世界では、商業しか発達することができない。貨幣は、
交換のプロセスを超越するものとして生み出され、発達してきたが、その貨幣その
ものは、霊のように、みずからを増殖させることができない。利子によっては、国
民の富は増えないからである」。

《だが、ドイツ人が、このような事態を打ち破ったのである。ドイツ(チュウトン)
人はその昔から、ローマの秩序に逆らって、霊(ガイスト)に大きな価値をあたえ
てきた民族であった。その彼らが、カトリックの秩序に反逆して、プロテスタント
の運動を開始したとき、長いこと大地の下で眠っていた、自由な霊が目を覚ました
のだ。マルチン・ルターは、聖霊をドイツ語に翻訳するにあたって、「聖霊(サン
クト・スピリトス)」の語を、ゲルマンの土俗にまみれた「ガイスト」の語をもっ
てあてた。(略)貨幣は「プロテスタントの倫理」をくぐりぬけ、聖霊の洗礼を受
けることによって、堂々とみずからを増殖する資本への転化をとげたのである。》

ここに出てくる、宗教改革の精神を担った「チュウトン人」の思想的源流が、たと
えばヤコブ・ベーメであり、さらにはユングが『アイオーン』で「自由な精神の木
に咲く最も美わしき花」と称えたマイスター・エックハルトにほかならないと、私
は確信しています。

カテドラルに「霊感」を受けて、エックハルトという、古代と近現代を連結する西
欧中世の、いわば「配電盤」もしくは「変電所」(あるいは、人を「熱き者」にす
る電子レンジ?)に到達しました。その思想について、ここでは云々しません。以
下、連想ゲームよろしく、若干の素材へとリンクを張っておくことにします。

まず、上田閑照氏の「霊性によって荷電された知性」という語にヒントを得て、か
つて大聖堂に充満していたはずの声(音的存在)を、電子的存在、あるいは電磁波
的存在に置き換えるとどうなるだろうと考えました。

山内志朗氏は『天使の記号学』で、現代を「電子的グノーシス主義=天使主義」の
時代と規定し、そこに、「天使主義」(透明な存在への憧憬──現実への途方もな
い呪詛に発する、喪われた全能状態へのノスタルジー、母親の胎内への帰還願望、
失われた始源としての純粋性への希求)と、1980年代以降の「新しいグノーシス主
義」(失われた真実へのノスタルジー、黙示録的な予言、新世紀への希望を混在さ
せたもの──世界や「私」への憎悪と世界や「私」を造ったものへの憎悪、そして
そういった憎悪に裏づけられた非現実的な未来への希望)、さらに「電子メディア」
との重なり合い(現代の三位一体?)を見ています。[*]

《…もし現代がグノーシスの時代であるなら、そしてグノーシスを乗り越えたけれ
ば、グノーシスと格闘した教父、グノーシスを越えて成立した中世に戻る必要があ
るのではないか…。
 中世は、天使や奇跡に溢れた時代に見えるし、それを否定しようとするのではな
いが、最近の中世史研究が明らかにしているように、神について語り、知ること(
テオロギア)ばかりでなく、現世の営み(オイコノミア)を重視し、現世との関わ
りで天上を語る時代でもあった。いつの時代でも人間にとって最も関わりがあるの
は、やはり人間のはずだ。謎めいた言い方になってしまうのだが、中世は基本的に
内在か超越かの一方を選ぶのではなく、「内在的超越」の時代であったと言える。
 私としては、媒介が経験の「前」や「後」にあるのではなく、「中」にあること、
あえて言ってしまえば、リアリティは〈見えないもの〉と〈見えるもの〉のいずれ
のうちにあるのでもなく、その間にあることを述べていたのが、中世の実在論だっ
たと思う。リアリティは直接与えられるものでも、目の前にあるものでもない。た
ぶん、後ずさりしながら、未来に向かうとき、背中に背負っているものなのだろう。
》(序章)

ここで私が想起したのが、かの「歴史の天使」であり、ベンヤミンでありました。
(それと同時に、ドゥルーズを、また、エックハルトからノヴァーリスへという回
路を経て、ベンヤミンへと至るもう一本の接線を見出したのですが、これらはまた
別の話題です。)

そのベンヤミンは『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序章」で、「トラクタート」
と呼ばれるスコラ哲学の入門教科書の叙述方法を、モザイクに喩えています。(ち
なみに、三島憲一氏は『ベンヤミン』で、「ここではベンヤミンはそう述べていな
いが、トラクタートのモデルは実はイスラムのモザイクなのである」と書いていま
した。)

《モザイクも哲学的考察も、個別的なもの、そして互いに異なるものが寄り集まっ
て成り来たるのである。超越的な力──聖像のそれであれ、真理のそれであれ──
というものを、このことほど強力に教えてくれるものはほかにない。思考細片が基
本構想を尺度として直接に測られる度合いが少なければ少ないほど、思考細片の価
値はそれだけ決定的なものとなり、そして、モザイクの輝きがガラス溶塊の質に左
右されるのと同じように、叙述の輝きは思考細片の価値にかかっている。細片のこ
まかな細工が造形的な全体また知的な全体という尺度に対してもつ関係に見てとれ
るのは、真理内実は事象内実の個々の細部のすみずみにまで沈潜していく場合にの
み捉えうる、ということである。モザイクとトラクタートは、ヨーロッパでそれら
が最高度に完成された時代からすれば、中世に属している。両者の比較を可能にし
ているのは、真正なる親縁性なのである。》(浅井健二郎訳)

詳しい説明は省略しますが、思考細片という「ベンヤミン語」から私が連想するの
は、いつもきまって「器の欠けた破片」であり「割球」という語彙です。ここで、
一気に飛躍します。(割球から受精卵へ、そして古東哲明氏がプシューケーになぞ
らえた「器官なき身体」へ、さらにモザイクから「多様体」へといった連想から、
ここでもまたドゥルーズの名が点滅するのですが、これもまた別の話題。)

「モザイク卵」という言葉があります。広辞苑には、「受精卵で、その部分や割球
が、種々の操作を加えても、予定されている特定の器官に発生する傾向を特に強く
示すもの。軟体動物・環形動物・ホヤの卵の類。嵌工卵」と書いてある。

──突然ですが、ここで、とりとめもなく不連続な連想ゲームは中断。いくつかの
切断面を縫合する作業は、もしそれが必要かつ可能であるなら、また別の機会に。

* 田口ランディとの対談「魂と向き合いたい」(『鳩よ!。』2001年4月号)での
鎌田東二氏の発言。

《…僕にとって、あなたがシャーマニズムの問題をコンピュータと比較していると
ころが非常に新鮮でリアルなんだ。シャーマニズムが現代のような形で浮上してく
るのは、1950年代から60年代のカリフォルニアで、まさにコンピュータ産業が開花
してきた頃なのね。その前は19世紀末期とか20世紀初頭にラジオが生み出されたと
き、そのときにも古い形のスピリチュアリズムや心霊現象的なものが浮上していた。
目に見えない世界とのチャンネルを合わせるというのは、ラジオのチャンネル合わ
せと同じなんだよ。それがさらに進化して、立体的になったものがコンピュータだ
と思う。コンピュータはチャンネルの合わせ方が非常に立体的だから、画面上でモ
ザイクしたり編集することができる。それと同じ意味で、シャーマニズムの形態も、
現代と百年前と変わってきているんじゃないかな。》

あまり関係はないと思うが、ついでにフィリップ・K・ディックの文章を引用して
おこう。1974年2月から頻発した神秘体験をめぐる膨大な「釈義」を抜粋した『我
が生涯の弁明』から。

《マイスター・エックハルトがいうように、神の王国が個々の人間の魂のなかにあ
るなら、(すなわちまったく個人的な内心の出来事であるなら)、パルーシア[キ
リストの再臨]の領域全体、そのすべては、個々の人間の個人的な魂のなかにある
のではないのか。しかしそうであるなら、どうして他の人びとはわたしの体験を自
分たちのものとして報告しないのか。二千年以上にわたって、おそらくエックハル
トを除き、わたしのもののような個人報告はない。》(大瀧啓裕訳,邦訳82頁)
 

●135●『エックハルト説教集』(田島照久編訳,岩波文庫:1990.6)

 エックハルトの説教集を読んでいる。退屈の虫を噛み殺しながら読んでいる。だ
ったら止めればいいようなものなのだが、読まずに済ませられないない力がそこに
あるのだから、仕方がない。

 小林秀雄に「退屈に堪える練習」という言葉がある(「偶像崇拝」)。「理解す
る事とは全く別種な認識を得る練習」とも書いている。それは「絵はただ見るもの
だ」「絵を見るとは一種の練習である」といった文脈で言われているのだが、エッ
クハルトが解るということと「絵が解る」ということを、この際パラレルに考えて
おくことにする。(もちろんこれは乱暴な話だ。)

 エックハルトは、「わたしの体の内にわたしの魂はあるというよりは、わたしの
体がわたしの魂の内にむしろあるのだ」(「神の根底にまで究めゆく力について」)
と語っている。別の説教では、次のように語っている。本書を読んで、最も印象に
残った箇所だ。

《ある師は、目が歌とは関係なく、耳が色と関係がないように、魂はその本性にお
いては、この世界のすべてのものと関係がないのであると言っている。それゆえに
自然学の師たちは、魂が体の内にあるというよりも、むしろ体が魂の内にあるのだ
と言っている。ワインが樽を容れるのではなく、樽がワインを容れるように、体が
魂を保有するのではなく、魂がその内に体を保有するのである。》(「自分の魂を
憎むということについて」,98-99頁)

●136●田口ランディ『モザイク』(幻冬舎:2001.4)

 鯨は、全身これ耳である。──中沢新一の「すばらしい日本捕鯨」(『純粋な自
然の贈与』所収)の書き出しの文章だ。本作品の主人公は「ミミ」という名を持つ
女性で、「ミは、見であり、身であり、実である。そして弥勒の弥である。ミは第
三の道の三である。重なる三は六であり、天、地、水、太陽、月、火である。その
存在が、世界をバランスに導く」。

 ミミはまた「あしゅらおう」(『百億の昼と千億の夜』)であって、「この世界
に『シ』を組み込んで崩壊に追いやっている者は誰なのか、それを探して過去から
未来へと旅をしながら、ずっと戦う」。

 ミミは、古武術で鍛えられた性能のいいOS=身体をもつ「アース」でもある。
「俺たちさ、身体全体が耳なんだよ。ミミがサウンドって呼んでいるのは、耳で聴
いている音じゃなくて、もっとこう自分全部で聴いている音なんだよ。この音を聴
くためには、性能のいい身体が必要で、身体ってのは心とセットなんだよ。」

 この小説は、「天使にチューニングが合う」人間が生まれる時代、つまり映像の
世紀から情報の世紀へ向かう時代における、視覚と聴覚のシンクロによる霊覚化、
いいかえれば水と波(電磁波)による浄化、ホツレとムスバレの同時化による生き
霊化、すなわちOSの更新(復活)の物語だ。

 ところで「モザイク」とは何だろう。少なくとも12回以上は出てくる使用例のう
ち、もっとも印象に残った文章を記しておく。「人間の精神は無数の感情のひな型
で構成されたモザイクである」。

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