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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.52 (2001/05/06)
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 □ ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分』
 □ 小松和彦・栗本慎一郎『経済の誕生』
 □ 蛭川立『性・死・快楽の起源』
 □ 金子勝『市場』
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「魂の経済学」への序走、その三。(たぶん、続く。)
 

●127●ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分』
                  (生田耕作訳,二見書房:1973.12/1949)

 訳者あとがきによると、晩年のバタイユは、『わが母』をはじめ「聖なる神」の
総題のもとに統合される文学作品群や「無神学大全」三部作(『内的体験』『有罪
者』『ニーチェ論』)とともに、「普遍経済学の試み」の副題を持つ──そしてウ
ィリアム・ブレイクの「過剰は美である」を題辞に持つ──本書を第一部として、
以下『至高性』(未完)『エロティシズム』へと続く「呪われた部分」三部作の三
つの著述群をもって、その思想的総決算を構想していたという。

 言語芸術(あるいは心理学、もしくは精神医療)と宗教と経済。このトリアーデ
はまことに魅惑的で、本書はとてつもない起爆力を潜めていると思う。(ほぼ20年
ぶりに腰を据えて再挑戦を試みたものの、今回もまた徒労に終わった。再起を期す
べし。)

《…目下執筆中の書物(今日世に出す)は専門の経済学者の流儀で諸事象を考察す
るものではなく、わたしには一個の見方があり、それによれば供犠や教会の建立や
財宝の贈与が麦の売買に劣らぬ関心事であるということを附言せねばならなかった。
要するに、富の「消費」(蕩尽)が、生産に比して、第一目標となるような「普遍
経済」の原理をわからせようと努めてみたが、徒労に終った。》(緒言)

●128●小松和彦・栗本慎一郎『経済の誕生 鬼と富の民俗学』(工作舎:1982.9)

 対談の最後で、「私が経済について話すなんてことはありえないとおもっていた。
しかし、今日の対談で、自分は経済民俗学者なんだということを発見した」と小松
和彦が語れば、栗本慎一郎が「私も、だからいまや経済とは憑きものであると確信
している。(笑)……ストレンジャーや、ストレンジャー的なものである貨幣を、た
んなる内部の論理から生みだされたものだとしないと同時に、やはりたんに外部か
らの力だけだと逃げないという苦しい地点にわざわざ身をおいてふたりともがんば
ってみているということです」と応じる。

 共同体の秩序に関する学(エコノミー)が宗教と切り結ぶ場の所在を示す対話編。
ほぼ20年ぶりの再読。これはもはや現代の古典だと思う。──栗本の次の発言が妙
に心に残ったので、書き抜いておく。《技術というのは、もともと秘密から出たと
いうべきですね。共同体が安定している普遍的な非市場社会で、そのままみんなが
やっていけるもの、というのは秘密でも技術でもなんでもない。》(136頁)

●129●蛭川立『性・死・快楽の起源 進化心理学からみた〈私〉』
                           (福村出版:1999.11)

 快楽ドラッグやシャーマニズム、チンパンジーの不倫から説き起こす人間の利己
主義と利他主義の話題、遺伝子交換過程としての性と死の観念、死後の世界や臨死
体験、互酬性と再分配の交換原理、『千のプラトー』からフーリエの「ファランジ
ュ」、聖アウグスティヌスの回心をめぐる脳生理学的説明まで、そしてミームにA
Iに「心の転移(ダウンローディング)」等々と、てんこ盛りのコラムが縦横に編
集され、まさに学問領域を超速度で横断する「最先端の科学読み物」(カバー裏に
印刷された言葉)で、結構楽しめた。

 著者はあとがきで、「遺伝子再生産機械として進化してきた使い捨ての身体」と
いう社会生物学のモデルと「認識と行為の主体である「私」という感覚」との折り
合いをどうつけるかが進化心理学に課せられた今後の課題ではないかと書いている。
ここから何か(無意識を意識的に語りデザインする「情報革命」後の学問?)が生
まれそうな予感を育んでくれる書物。

●130●金子勝『市場』(岩波書店:1999.10)

 自立性(自分らしく生きること)への要求と共同性(一人では生きていけない)
への要求という、近代的人間が抱え込んだ「分裂」を見据え、ありふれた人間が抱
える問題を「弱い個人の仮定」を出発点として解決する政策構想力を提唱する。

 グローバリズムという名のアメリカンスタンダード、市場原理主義という名の全
体主義への対抗戦略として著者が示す方向(コミュニティへのセーフティネットの
張り替え、市場では提供できないものを送り出す社会的交換のネットワークや独自
の第三者評価機関の創出など)や視点(企業組織における「自己なるもの」の制度
化、労働・土地・貨幣的資本という本源的生産要素を「所有することの限界」など)
は、いまだ抽象的なものにとどまる。

 だが、本書の主眼と魅力は、主流派経済学の市場理論やマルクス経済学に対する
ラディカルな批判にある。この理論的な抽象化の徹底を通じてこそ、いいかえれば
普遍と特殊を同時に説明する論理の一貫性の追究においてこそ「社会哲学における
現実感覚とアクチュアリティの回復」(104頁)がもたらされるのであって、近代
的人間の分裂はまことにパラドキシカルで根が深いのである。

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