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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.50 (2001/05/04)
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 □ 岩井克人『貨幣論』
 □ 今村仁司『貨幣とは何だろうか』
 □ ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』
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前回「魂の経済学」という言葉を使いました。ここ一年あまり、私の頭の中でとぐ
ろをまいていて、誤解かもしれないけれど、しだいにその輪郭を現わしつつあるも
のなのですが、平たくいってしまえば、宗教儀礼や教説、心的現象を経済行為とし
てとらえ、さらには脳や遺伝子のことなども含め、民俗学に人類学、歴史学その他
諸々の臨床的な人文知や芸術や技術も総動員しての循環と反復をめぐる総合的かつ
普遍的な「学」の構想(というより、妄想ですな)。

で、その壮大かつ誇大なプロジェクトへ向かって序走(というより、先走り)して
みました。まずは、貨幣理論編。
 

●122●岩井克人『貨幣論』(ちくま学芸文庫:原著1993)

 トートロジーは「力」の表現である。──エックハルトは、「命が命自身の根底
から生き、自分自身から豊かに湧き出ている」とき「命はそれ自身を生きるまさに
そのところにおいて、なぜという問なしに生きる」のであって、もし命が「あなた
はなぜ生きるのか」との問いに答えることができるならば、それは「わたしは生き
るがゆえに生きる」という以外答はないだろうと説いている(「なぜという問のな
い生き方について」,田島照久編訳『エックハルト説教集』所収,岩波文庫)。

 ニーチェの永劫回帰とは、あるいはウィトゲンシュタインが「同語反復は諸命題
の実体のない中心である」(『論理哲学論考』5.143,奥雅博訳)とか「論理の命
題が同語反復であることは、言語の、世界の、形式的──論理的──性質を示して
いる」(同6.12)と書いているのも、もしかすると世界の「力」の裏返しの表現だ
ったのかもしれない。

 岩井氏は本書(後書)で、「貨幣とは何か?」という問いにまともに答えてはい
けない、もしどうしてもそれに答える必要があるならば、「貨幣とは貨幣として使
われるものである」というよりほかにないと書いている。

 同氏はこのことをマルクスの価値形態論と交換過程論の徹底的な読解を通じて、
つまり「商品語」(全体的な相対的価値形態と一般的な等価形態との無限の循環論
法によって成立する貨幣形態)とその「人間語」への翻訳(貨幣が今まで貨幣とし
て使われてきたということによって、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使わ
れていくことが期待され、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくと
いうこの期待によって、貨幣が今ここで現実に貨幣として使われる)の両面から論
証している。

 さらには、労働価値説に立脚し商品世界に実体的な根拠を確保しようとしたマル
クスの「価値記号論」や「超越的な記号されるもの」の場を究極的に確保してきた
古典ギリシャ以来の伝統的な記号論を、貨幣の系譜をめぐる歴史の事実(「本物」
の貨幣の「代わり」がそれ自体で「本物」になってしまうという小さな「奇跡」の
くりかえし)によって論駁し、最終的に資本主義の真の危機としてのハイパー・イ
ンフレーション(貨幣からの遁走)に説き及んでいる。

 「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるからなのである」。──マルクスの
方法の徹底化、すなわち抽象化の極限値として摘出されたこのトートロジーが示す
「世界の実体のない中心」から噴出する力とは「剰余価値」であり、岩井氏はこの
力の創出を「原初の奇跡」と表現している。

《…わが人類は労働市場で人間の労働力が商品として売り買いされるよりもはるか
以前に、剰余価値の創出という原罪をおかしていたのである。それは、貨幣の「な
い」世界から貨幣の「ある」世界へと歴史が跳躍したあの「奇跡」のときである。
その瞬間に、この世の最初の貨幣として商品交換を媒介しはじめたモノは、たんな
るモノとしての価値を上回る価値をもつことになったのである。貨幣の「ない」世
界と「ある」世界との「あいだ」から、人間の労働を介在させることなく、まさに
剰余価値が生まれていたのである。そして、その後、本物の貨幣のたんなる代わり
がそれ自体で本物の貨幣になってしまうというあの小さな「奇跡」がくりかえされ、
モノとしての価値を上回る貨幣の貨幣としての価値はそのたびごとに大きさを拡大
していくことになる。》(227頁)

 備忘録。本書を読んで強烈に印象に残ったこと。その一。一般的な交換の媒体と
しての貨幣が価値の保存手段としての役割も果たしていることに関連して、ケイン
ズが「時間をえらばずにどのような商品にも交換できる容易さの程度」を「流動性」
と名づけたこと。この周知の事実が、とりわけ「流動性(liquidity)」という語彙
がなぜかとても新鮮に思われた。

 その二。木村敏氏の著作を示しつつ、不況(depression)、熱狂(mania)、解体
(splitting)という「貨幣的な交換に固有な困難なあり方を形容する」言葉が、そ
れぞれ鬱病(depression)、躁病(mania)、精神分裂病(schizophrenia=splitt
ing of mind)といった精神病理学的な病名を想起させるのはけっして偶然ではない
と岩井氏が註をほどこしていること。

●123●今村仁司『貨幣とは何だろうか』(ちくま新書:1994.9)

 「金属的想像力」と「from soup to nuts 」という二つの言葉が気になっている。

 前者は『サイアス』(2000年4月号)に「ここでは金属を、金属結合という様式
で原子が結合している物質である、と定義する。金属結合は、イオン化した原子が
「自由電子の海」の中に浸っているような状態である。理想的な金属結合は方向性
がなく、電子は自由に物質の中を移動できる」(増子昇・千葉工大教授)と書かか
れていたのを読んで、バシュラールの物質的想像力が扱ったテトラ・ソミアに「金
属」を加えるならば(これでは五行説になってしまう?)何かしらまことしやかな
議論を展開することができはしまいかとふと思いついたもの。

 後者は、茂木健一郎氏との対談『意識は科学で解き明かせるか』で天外氏が「素
粒子というのは、…粒子と波動の両方の性質を持っている。これは豆を煮て作った
スープのようなものだと考えるとわかりやすい。豆を煮てスープを作ると、もう豆
は見えなくてドロドロのスープの状態になる。素粒子は普段はスープの状態なわけ
ですが、それを観察すると煮る前の豆に戻ってしまう。…つまり、観測をすると豆
になる。観測をしないときにはスープの状態です。これが素粒子の非常に不可解な
現象です」と語っているの読んで、この言葉── from soup to nuts ──を手が
かりにすれば、たとえば中世普遍論争の意味を解き明かすことができはしまいかと
突然閃いたもの。

 前置きがアンバランスなほどに長くなってしまったけれど、貨幣経済に関する書
物をまとめ読みしようと思ってまず手に取った本書がはからずもこの二つの言葉に
リンクを張っていた。

 まず、著者が本書で論じているのは素材としての貨幣ではなく形式(媒介形式)
としての貨幣(=墓=供犠=文字)なのだが、ここでいう素材の典型はいうまでも
なく、十九世紀の金本位制から二十世紀の管理通貨制度へ、というときの「金」属
のことだ。

 そしてジンメルの『貨幣の哲学』に準拠しつつ著者が示す「関係の結晶化」の定
式(「無媒介なもの=渾沌」〜「媒介形式=境界」〜「差異関係=社会関係」)は
まさに‘ from soup to nuts ’でもって表現できるものなのではないだろうか。

 これ以外にもジッドの『贋物つくり』の分析(貨幣小説論)など、本書は私の現
在の関心事とあまりに合致しすぎていて、うっかりすると思考を決定的に規定され
てしまいそうになる。こういう時は要注意。(それでなくとも本書の論述は少しで
きすぎているように思った。)

●124●ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』
                    (兼子正勝訳,青土社:2000.1/1994)

 フーコーが「私たちの時代のもっとも偉大な本」と称えた書物。フロイトとマル
クスが紡いだ思考の上に「サドが決定的に刻印した真実」(フーコー)と「フーリ
エの奇妙な構築物」(クロソウスキー)を重ね合わせた本。一度や二度の通読では
容易にその全貌を明らかにしない謎めいた著書で、バタイユの『呪われた部分』と
ともに、私にとって半永久的な常備本のひとつとなった。

 訳者解説によると、「主体の欲望の次元と産業社会の生産=消費の次元を重ね合
わせることで、欲望あるいはファンタスムが広く社会的に流通する体制を思考しよ
う」とした本書の全体で、クロソウスキーが追及していることはただひとつ、「伝
達も共有も交換も不可能である情欲[e'motion voluptueuse]を、交換可能なもの
として思考するためにはどうしたらいいか」ということである。

 「クロソウスキーに対する裏切り」との非難を覚悟の上で「わかりやすさ」を旨
として再構成されたこのよくできた「見取り図」を繰り返し読んでみても、本書に
表現された何かしら思考し得ない事柄が要約整理の手捌きをすり抜けて、どこか深
いところで息づいているのを感じてしまう。

 自ら「生きた貨幣」となって「情欲の普遍的コミュニケーション」(訳者)──
「普遍的に真であるようなコミュニケーションはただひとつしかない、つまり身体
的諸記号による秘密の言語によって身体が交換されることしかない」(本文117頁)
──に身を投じることでしか理解できない何か。

《いつの日か人間存在が、外的倒錯を、つまり諸「欲求」の病的肥大の怪物性を乗
り越え、つまり減少させ、そのかわり内的倒錯に、つまりみずからの虚構の統一性
を解体することに同意したならば、そのときには、欲望とその対象物の生産とのあ
いだに、みずからの諸衝動との相関において理性的=合理的にうち立てられた経済
学というかたちで、調和が組織されることになるだろう。つまり、労力の無償性と
非理性的なるものの価格とが、相互に釣り合うことになるだろう。サドの教えは、
フーリエのユートピアには深い現実が隠されていることを証明する。しかし、現在
からそのときに到るまでは、フーリエのユートピアがユートピアでありつづけ、サ
ドの倒錯が産業の怪物性の原動力でありつづけることが、産業の利益にかなうこと
なのである。》(99頁)

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