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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.5 (2000/10/01)
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前回取り上げた山内志朗「解題:『善の研究』という書物」から、若干の抜書き。
《個性が生まれ出ることは、生まれ出ること一般がそうであるように、自己実現の
達成感などという、よろこばしい感情に包まれたものではなく、底知れぬ不安感と
無力感に覆われた、そして赤黒い暴力衝動・攻撃欲に満ちた時間を過ごすことだ。
十四歳と十七歳の暴力と、異端審問・魔女狩りを比較するのは、歴史家の常道とな
っているが、明治の日本、そしてそれ以降の日本がどのように赤黒い衝動を成長さ
せていったか。それはここで論じるまでもないだろう。》(44頁)

《「十四歳の犯罪」、そして「十七歳の犯罪」は、たぶん強度をめぐる病なのだ。
この強度を、いや強度の不在を通して、強度の文法を示そうとしている表現者とし
て、ねこぢるや岡崎京子や椎名林檎を挙げることができる。》(58頁)

《概念によって歩もうとすると、無限の距離を持っているように感じられる空間が、
直観によって瞬時に飛び越えられるとき、ちょうど暗闇から目が眩むばかりの光が
突如として現れるのを見たときのような、強烈な体験が得られる。/現代の表現者
達も、「十四歳達」や「十七歳達」も、そのような体験・世界を求めているのだろ
う。もちろん。そういった天使を模倣する飛躍は必ず失敗し、墜落する。そして、
わざわざ墜落をのぞんだとしか思えないように、飛躍してみる。急場しのぎの個体
化は、幻想としてのアクチュアリティにしか行き着かない。》(62-3頁)

ここに出てきた「魔女狩り」という言葉から、最近読んだ中井久夫氏の本を思い出
しました。中井氏とは一度電話でお話したことがあります。といっても、ある研究
会に参加いただけないかとお願いして断られただけのこと。いま忙しいからと随分
そっけなかったのだけれど、阪神・淡路大震災後で何かとお忙しい時だったのだか
ら無理はないと思ったし、どこか毅然とした口ぶりがとても印象的で、いつかご本
人の顔と肉声にたっぷりと接したいものだと、その時心からそう思ったものでした。
以上、余談として。
 

●7●中井久夫『西洋精神医学背景史』(みすずライブラリー:1999.12)

 カバー裏に「ユニークにして驚嘆すべき幻の書」とある。その一語一文が折り畳
まれ濃縮された意味の坩堝で、若き著者(中山書店「現代精神医学体系」シリーズ
に本稿が収録されたのは1979年で、中井氏の生年は1934年)はおそらく石に刻むよ
うにして執筆されたのではないか。一行の裏に一つの論文、一冊の本を込めようと
したとあとがきに記されている。「ギリシアは二つの顔をもっている。きわめて独
自な面と、古代オリエント世界の二次的派生物という面である」に始まり、ドッズ
の『ギリシャ人と非理性』に準拠しつつ「被支配階級の治療が次々に支配階級の治
療となる」古代ギリシャ・ローマ世界における精神治療の系譜を論じ、「最後にキ
リストとその使徒がローマ世界の最下層民の悪魔祓い、治療者として出現し、競合
する治療神との闘争に打ち勝ち、ついにローマ帝国の国教となる」で終わる冒頭が
まず素晴らしい。張りつめた緊張は最後まで持続し、巻末に付された「一九九九年
の追記」──そこには「西欧医学の対抗医学としての「東洋医学」の主張者はしば
しば声高に心身一元を語るが、彼らといえども「こころ」と「からだ」の二語を廃
してたとえば「こらだ」のような一語をもって替えることはできないだろう」とか
「結局、私たちは精神医学あるいは心理学の対象を指す単純明快なことばを持って
いないのかもしれない」といった印象的な文章がちりばめられている──も含めて、
これは実際、驚嘆すべき書だ。

 本書を読んで刺激を受けたことはたくさんあるのだけれど、ここでは二つの話題
をめぐって抜き書きしておく。その一。中井氏は「魔女狩りが中世の産物であると
いう通念はまったくの誤りである」という。もっとも、その根は深く中世に根ざし
ていたのであって、「一二世紀からのおよそ四世紀間、ヨーロッパがヨーロッパを
成立させたその文化的恩人たち〔引用者註:ユダヤ人とアラビア人〕を次々に消滅
させていった」という「育ての親殺し」の現象が先駆し、その連続線上に、古代に
源泉をもつ「中世における女性文化」の存在があったのである。《おそらく近代の
ヨーロッパはその誕生の時期にあたって、その試練に対し未来の予知による知的、
全体的理解という統合主義 syntagmatism による幻想的対応を行なったのであり、
これを取り消して現実原則にのっとった勤勉の倫理による応答に変化するためには、
自らに代わって無垢なる少女が贖罪の山羊として燃やされねばならなかったのであ
ろう。事実ヨーロッパの指導的知識人の中には、今なお「無垢なる少女の神話」と
もいうべきものが残っている。特にドイツではそのような観念の伝統がある。ヨー
ロッパの青年たちはしばしばこの神話のために成熟した生年に達することができな
かったり、通過儀礼のように少女を踏み台にして成年に達し、罪責感をもつ(森鴎
外の『舞姫』)。これは魔女狩りの残映ではなかろうか。》そして、ヨーロッパの
他の地域より一世紀以上早く魔女狩りが終息したのがオランダであり、中井氏によ
ると、それと同時に始まったのが臨床医学であった。

 中井氏によると、西欧における「無垢なる少女の神話」と対をなすのが、西欧に
よって「文化同化」された明治維新後の日本における「近代的自我の神話」である。
《この「近代的自我」の追求はおそらく二葉亭四迷にはじまり、小林秀雄あるいは
中村光夫とその追随者たちにきわまる。しかし、奇妙なことに「近代的自我」なる
語は西欧人のほとんど用いない稀語である。著者は、これを魔女狩りのあとに西欧
に出現する「無垢なる少女の神話」と一種の対をなす神話、「近代的自我の神話」
とみなす。すでに述べたように、西欧においてはシンタグマティズム(統合主義)
の破産と「無垢なる少女」の犠牲においてのパラディグマティズム(範例主義)に
よる出直しが西欧をつくったのである。》しかし、織田信長による「ネオプラトニ
ズム的な幻想的問題解決の中心でありえたかもしれない比叡山」の焼き払いに始ま
り江戸幕府による「宗教の根こぎ」へといたる世俗化を通して、「わが国では、魔
女狩りを経ての出直しではなく、はじめからパラディグマティズムによる近代化過
程が発足しえた」のであり、また武士階級の城下町集中(土地からの根こぎ)と実
際上の武力行使の禁圧は「深い去勢感情を彼らのあいだに生んだ」のである。《
(畿内地方をおそらくは例外として)武士の精神的後継者である知識人の、西欧人
に生得的で、しかるに自らは努力のはてについに持ちえないとする、近代的自我の
追求は、彼らがこの去勢感情を引き継いだことを示唆している。》

 その二。中井氏はまた次のように書いている。《心身二元論が言葉の発生以来、
あるいは意識の発生の時代にさかのぼるか否かは思弁の域を出ないにしても(私は
心身二元を言語と密接な関係にあると考える)、その明確な出現はすでに述べたご
とく奴隷制と密接な関係があるだろう。ある挿話を思い出す。アメリカ黒人の奴隷
が大雨にあって帽子を身体でおおった。人がいぶかると、彼は答えたという。「身
体はご主人様のものだが、帽子は俺のものだからね」。ゆくりなくも、これは二千
年前、確実に奴隷出身であるエピクーロスの哲学に類比的である。以来心身二元論
はヨーロッパ哲学に亡霊のごとくつきまとった。》。──奴隷の哲学としての心身
論?

●8●妙木浩之『フロイト入門』(ちくま新書:2000.7)

 フロイトの謎めいたドラマティックな生の軌跡と精神分析学という「思想」の誕
生をめぐるそれこそ精神分析学的な叙述。なぜ精神分析をはじめるときフロイトか
ら入るのか、なぜフロイトの人生なのか、それは「精神分析は文脈の科学だ」から
であると著者はいう。これは入門書ではないし、決して読みやすい本ではない。悪
文とも思える見通しのききにくい文章(誤植と見まがいかねない不器用で不自然な
言葉遣いが散見されたし、本物の誤植も一箇所はみつけた)を通して、著者の熱い
こだわりのようなものが感じられるとても力強い書物だ。こういう文章を書く人は
信用できる。

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