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■ 不連続な読書日記 ■ No.43 (2001/03/13)
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□ ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』
□ ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
□ ベルクソン『精神のエネルギ−』
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かとお誘いを受けました。哲学関係の書物を千冊読んで、それぞれにコメントを付
ける、いわば「不連続な読書日記:哲学千番勝負編」といったところです。そのときは、千冊の哲学本をどういった原理原則でもって選ぶかという方法意識の
ようなものが確立されないと、ただたくさんの哲学関係書を読むだけで終わってし
まいそうです、などともっともらしい応答をしてお茶を濁してしまったのですが、
要するに、それは時間がかかりすぎるという思いが先に立ってのことでした。たとえば私は、ヘーゲルの『大論理学』を一年近くかけて読んだことがあります。
この調子で千冊読むとなると、寿命がいくらあっても足りない道理です。廣松渉さ
んは若い頃、一日七、八百頁のペースで哲学書を毎日読んでいたとどこかで語って
おられましたが、それくらいのエネルギーと集中力がないととてもやり通せない。でも最近になって、ふと、どのようなジャンルの書物であっても、そこに私自身の
「哲学の問題」が見出せるなら、「千冊斬り」の対象に加えてもいいのではないか
と思い到りました。そうなるとことは簡単で、いやもちろん簡単なことではないのですが、気が楽にな
ってきて、もしかしたらやり通せるかもしれないと思うようになりました。で、今
回から四回(西欧編と日本編で各ニ回)、そのシュミレーションをやってみること
にしました。(といっても、いずれも、昔書いた文章からの断片的切り出しでしか
ありませんが。)
●98●ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』
(西尾幹二訳,中央公論社『世界の名著45 』)ショーペンハウアーは「世界はわたしの表象である」という。しかし世界は、こ
のような認識可能な側面、すなわち主観と客観の分裂という形式の上に成り立つ表
象としての世界の他に、表象の世界を自らの客観化によって現象させる「意志」と
しての世界の側面も有している。すなわち、「世界はわたしの意志である」。彼は、「意志が意欲しているものは、つねに生命であって、…端的に「意志」と
いう代りに「生きんとする意志」というとしても、…言葉の重複にすぎない」と述
べ、このような意志の盲目的な客観化にすぎない「いっさいの生は苦悩である」と
断言する。そして、苦悩の世界からの「解脱」への道の一つを、同情(共苦)とし
ての愛に求めるのである。ショーペンハウアーは、「愛の起源と本質とは「個体化の原理」を突き破って奥
を見ること」、すなわち「あらゆる現象は多様でも意志はただ一つである」という
直接的な認識に到達することだという。《万物のうちに自分を認識し、万物のうちに自分の最内奥の真実の自我を認識して
いるそのような人であれば、生きとし生けるものみなすべての無限の苦悩をも自分
の苦悩とみなし、こうして全世界の苦悩をわがものと化するに違いあるまい。…彼
は全体を認識し、全体の本質を把握している。そしてその全体はたえまなき消滅、
虚無的な努力、内部的な闘争、そして不断の苦悩にあけくれていることが彼には分
かっているし、どこに目を向けようと、人間界は苦悩しているし、動物界も苦悩し
ているし、世界は衰退しつつあるのを彼は目撃している。エゴイストにとってわが
身一身のことが大切であるように、こうした全体の世界相こそが彼には今や大切な
のである。》ショーペンハウアーは続いて、「世界をこのように認識したからには、どうして
彼はほかならぬこのような生を、つねひごろの意志行為を通じて肯定するはずがあ
り得ようか」と述べ、苦悩の世界からの究極的な解脱の道である「意志の否定」へ
と論を進める。意志の否定によって、世界は無に帰するだろう。それが私の魂にどのような境地
をもたらすか、大いに興味をそそられるところだが、ここでは、同情(共苦)とし
ての愛を支える認識(意志としての世界のあり方に関する直接的な認識)が、若き
日のウィトゲンシュタインの断章――《世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これ
を私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界
霊魂として把握するのである。》――をめぐる一つの解釈を成り立たせる根拠とな
るものだと指摘するにとどめよう。ショーペンハウアーというと、なぜかしら「老人」のイメージがつきまとうのだ
が、この主著は二十代に書かれた「青春の書」である。私は若きウィトゲンシュタ
インの『論理哲学論考』ともども、こよなくこの書を愛し続ける。●99●ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
(奥雅博訳,大修館書店ウィトゲンシュタイン全集第1巻)「私はなぜ私なのだろう」という思いをつきつめれば、「他ならぬこの私」が他
者一般とは決定的にそのあり方を異にするものであることに行き着くだろう。もし
それが、哲学用語でいう独我論(唯我論)の弊に陥るものであったとしても、性急
にそこからの脱出を図るべきものではない。「私」とは何か、そして世界とは何かをめぐって、精神の病への怖れと闘いなが
ら徹底的な思索をめぐらせた若き日のウィトゲンシュタインは、後に『論理哲学論
考』としてまとめられることとなる草稿の中で、次のようにその思索の痕跡を綴っ
ている。《世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そし
て私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。
右の見解は、唯我論がどの程度真理であるか、ということを決定するための鍵を
与える。》ウィトゲンシュタインは、このうち後半部分を『論考』に採用し、引き続き次の
ように記述している。《即ち、唯我論が考えている(言わんとする)ことは全く正
しい。ただそのことは語られることができず、自らを示すのである。》(『論考』
5・62)《私は私の世界である。》(『論考』5・63)「私が私であること」の意味は、これらの断章のうちに究極の表現を得ている。
少なくとも、私にはそう思える。《世界は私の世界である。》(『論考』5・641)
そして、この世界でただ一つ現実に存在する世界霊魂を、ウィトゲンシュタインは
「私の魂」と称し、他人の魂を「世界霊魂」として把握する。ここで注意しなければならないのは、ウィトゲンシュタインが、「私が他人の魂
と称するものも専らこの世界霊魂として把握する」というとき、彼は私の魂と他人
の魂が究極において一つのものだといっているわけではないということだ。世界霊
魂と私の魂との関係は、他人の魂と世界霊魂あるいは私の魂との関係とは決定的に
異なったものである。端的にいえば、私の魂は自己意識一般とは全く異なるものな
のである。いや、より根源的に、そもそも私の魂は「他ならぬこの私」といった特殊な自己
意識とも決定的に異なったものだといわなければならない。というのも、ウィトゲ
ンシュタインが「世界=私の世界=私」という等式を示し、この世界のうちに「世
界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する」と記述す
るとき、「他ならぬこの私」をめぐる謎めいた意識の実在は、そのような認識を導
く端緒あるいはそのような世界のあり方の痕跡としてのみ取り扱われているにすぎ
ないからである。だが、これらのことはおそらく言葉では表現できない事柄である。なぜなら、私
たちの言語の働きは、「他ならぬこの私」も私の魂も「私」一般も、したがって「
他ならぬこの人」も他人の魂も他者一般も、最終的にはそれぞれの存在論的な差異
を超えた意識一般のうちに分類してしまうだろうから。そこでウィトゲンシュタインは、「ただそのことは語られることができず、自ら
を示すのである」といい、「世界が私の世界であることは、唯一の言語(私が理解
する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに、示されている」とい
うのである。彼は、後に言語の働きについてより立ち入った考察を加え、有名な「言語ゲ−ム」
というアイデアを打ち出す。このいわゆる「後期」ウィトゲンシュタインが切り拓
こうとした思索の方向には、それはそれで大変興味深いものがあるのだが、私は何
よりもこの若きウィトゲンシュタインの「青春の書」をこよなく愛する者である。●100●ベルクソン『精神のエネルギ−』(宇波彰訳,第三文明社)
「私が私であること」の実質、あるいは「私」の同一性と連続性を支える根拠は
何か。こうした問題を考える上で、ベルクソンの思索を追体験することは有益な作
業だ。本書はその格好の入門書であると思う。たとえば「魂と身体」という本書に収められた講演で、ベルクソンは、「魂の生
活をそのすべての現われたかたちにおいて研究すること」が哲学の仕事だと語って
いる。ベルクソンはそこで「魂」を精神あるいは意識を表現する語として使用して
おり、物質すなわち身体と対比させている。そして、魂と身体、精神と物質の関係
をめぐって独自の考察を加えているのである。ベルクソンは哲学上のいわゆる「心身問題」を取り上げるに際して、「常識の直
接的で素朴な経験」が語る事実そのものに直接に向かう方法を採用する。そして、
魂・精神であれ身体・物質であれ、いずれか一方に偏した議論を(とりわけ、自然
科学の心身平行論を)排するのである。《実際、経験はわれわれに何を語っているのでしょうか。経験はわれわれに、魂の
生活、或いはもっとよい表現の方がいいと言われるならば、意識の生活が身体の生
活と結び付いていて、両者のあいだにつながりがあるということを示していますが、
それ以上は何も示していません。(中略)服はそれがかけられている釘とつながり
があります。釘を抜けば服は落ちます。釘が動けば服も揺れます。釘の頭がとがり
すぎていれば、服に穴があき、破れます。しかし、釘のそれぞれの細部が服の細部
と対応しているとか、釘と服とが等しいという結論にはなりません。まして、釘と
服とは同じだということにもなりません。それと同じように、意識はたしかに脳と
つながってはいますが、だからといって脳が意識の細部のすべてを描くとか、意識
は脳の機能だということにはならないのです。観察と実験、つまり科学によってわ
れわれに確認できるのは、脳と意識とのあいだの何らかの関係の存在だけです。》ベルクソンはこのように述べ、「あらゆるところで身体を超え、それ自体を新た
に創造しつつ行為を創造する」ものとして、自我あるいは精神・魂をとらえる。そ
して、霊魂の不滅という形而上学の問題を「経験の領域」に移していく。私たちは
彼の思索の跡をたどることによって、魂の行方をめぐる問題を、あたかも観察と実
験を重んじる自然科学者のように論じることができる場所へと案内されたのである
(もっとも、そこでなされる実験とはいわゆる思考実験に他ならない)。だが、私には腑に落ちないことがある。それは、ベルクソンは結局、意識一般、
精神・魂一般を問題にしているだけなのではないか。そこからは、「他ならぬこの
私」という謎めいた思いを解明する手掛かりは見出だせないのではないか、という
ものだ。もちろん彼は意識そのものの本性についても考察をめぐらし、「持続」と
いうよく知られた考え方を提示しているのだが、それとて私には意識一般について
の議論にしか思えない。この点は、ベルクソンの全著作を詳細に読み解くことであるいは解決するかも知
れないし、そもそもベルクソンの「問題」と私の「問題」は違うものなのかもしれ
ない。私はここでもう一人の哲学者(反哲学者というべきか)の名を想起している。
つまり、ウィトゲンシュタインの文章を参照することで、議論を先に進めることが
できるのではないかと思っている。論点は、魂は複数存在するのか、あるいは「私」
の魂にとって他者とは何かということだ。〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
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