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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.42 (2001/03/11)
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 □ 入不ニ基義『相対主義の極北』
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入不ニ基義さんは『相対主義の極北』の序章で、地平線と国境線のあり方の違い、
足の裏と地面が接するところには「影」があるのか、といった二つの問題を提示し
ています。(これらについては、本論の158頁と175頁でそれぞれ明示的に「解答」
が与えられていました。)

私自身はこの二つの問題にそれほど強い「問題性」を感じないのですが、これらが
単に言葉の定義や使い方の問題ではなくて、真正の「哲学の問題」であることは間
違いないと考えています。正確にいうと、そのような問題を「哲学の問題」として
捉えた入不ニ氏の感覚は、紛れもない「哲覚」であると思っています。

扇風機の中心点は回っているかとの問いに関心を示さなかった芥川龍之介のことを、
だからあいつは駄目なんだと稲垣足穂が評したという、私が気に入っている逸話が
あります。(もしかしたら記憶違いかもしれない。)しかし、これは、だから芥川
龍之介が駄目なやつだったということではなくて、ただ稲垣足穂の「哲覚」と芥川
龍之介の「哲覚」(もしあったとして)が異なっていただけのことです。

念のために書いておくと、私はここで「哲学の問題」をめぐる相対主義を唱えてい
るのではありません。ちなみに私自身は、たとえば地球外生命ならぬ人間外知性の
実在と(人間による)その認識可能性、あるいは言語未生以前の思考の実在とその
認識(再現=追思考)可能性、さらにいえば私自身の思考の偶然性といった事柄に
限りない「問題」を感じ続けてきたのですが、それは入不ニ氏の「問題」が真正の
「哲学の問題」であることを肯定する根拠、私と入不ニ氏とが「私たち」であり得
ることの根拠だと思っています。

以上は、十年に一度あるかないかの哲学的興奮をもって読み終えた『相対主義の極
北』をめぐる感想文の補遺として。

もう一つの補遺。岩波書店の「双書現代の哲学」シリーズで、永井均氏の『独我論
──《私》の存在をめぐる三つのセミナー』の刊行が予告されています。「入不ニ
‐永井論争」以後の独在論の展開に期待が高まります。また信原幸弘氏の『意識の
哲学──クオリア序説』の刊行も予告されていて、これには『相対主義の極北』で
のクオリア論との対比を期待しています。

蛇足。実をいうと、今回、「双書現代の哲学」シリーズの既刊、山内志朗著『天使
の記号学』と清水哲郎著『パウロの言語哲学』、それから井上達夫著『貧困の哲学』
を取り上げる予定だったのですが、時間切れのため(?)断念。

ことのついでに書いておくと、リバタリアニズムと共同体主義とを相対主義と実在
主義になぞらえて森村進著『自由はどこまで可能か』を紹介したり、どう関連づけ
るかは自分ながら不明ながら多木浩二著『20世紀の精神』も取り上げる予定でした。

さらにさらにいえば、『相対主義の極北』の問題圏に関係するものとして、田邉元
の哲学を論じた中沢新一著『フィロソフィア・ヤポニカ』と、「人間原理」や永井
均さんの独在性の〈私〉論に言及した三浦俊彦著『論理学入門』も。これらの書物
については、いずれ機会を見て紹介します。
 

●97●入不ニ基義『相対主義の極北』(春秋社:2001.2)

 ほぼ15年の時を経て、真正の哲学の書に再びめぐりあえた。ここには確かに「考
えるヒト」がいる。──本書を読み進めながら、この読書感覚は、というより入不
ニ氏の(まさに哲学的としか形容のしようがない)思考の生理のようなものは、以
前たしかに経験した覚えがあると思い続けていた。

 プロタゴラスの人間尺度説に関するソクラテス=プラトンの個人主義的解釈の無
効性を衝き、これに替わる思考や認識や概念の「枠組み相対主義」説の詳細な検討
(マクタガートの「時間の非実在性」をめぐる議論やルイス・キャロルの無限推論
のパラドクスとの構造的・論理的同型性の指摘など)を経て、相対主義とその批判
との「非対称的かつ内的な関係」を反復的に産出する場の所在を炙り出し、一番外
側の「枠組みX」や「向こう側性 transcendency」、「遂行的な論証」や「私た
ち」の反復(私たちと彼らの差異づけを更新しながら、自らの存在を産出していく
あり方をいう。入不ニ氏はこれを「A[A⇔非A]」という基本形式に整理してい
る)といったとてつもない駆動力をもったアイデアが矢継ぎ早に提示されるくだり
(第2章〜第6章)まで来て、やっと確信が持てた。これは、永井均氏の『〈私〉
のメタフィジックス』(1986)を初めて読んだときのあの感覚(神秘感の伴わない
神秘体験?)の再来だと思い至ったのである。

 入不ニ氏は本書第7章で、「相対主義の極北」を次のように説明している。《「
私たち」はメタレベルによって相対化されるのではなく(「私たち」に対するメタ
レベルはない)、いわば、「私たち」の未出現という非対称的なプレレベルによっ
てこそ相対化される。つまり、「私たち」は、「未出現」のままに止まることなく、
なぜかこうして反復されてしまっているということ。その偶然性を、相対主義は極
限値として指し示している。》(184頁)

 このような地点から見れば、たとえばクオリア(感覚質)をめぐる主観主義と機
能主義の二つのアプローチ、さらには唯名論と実在論、観念論と実在論、相対主義
と実在論といった哲学的な二項対立は、「ないよりもっとないこと」と「あるより
もっとあること」との極限的な一致へと到る無際限のプロセスのある切断面でしか
ない。本書末尾に記された次の一文は、このような哲学的思考の極北へ達した者に
のみ許された言葉だ。《行き着くところまで行き着いた。ひとまずここで考察を終
わりにしよう。》

 しかし、入不ニ氏の考察はここで終わらないはずだ。たとえばかつて「入不ニ‐
永井論争」を経て炙り出された「私3」(単独性の《私》)と「私4」(独在性の
〈私〉)との関係のアナロジーでいうと、「私たち4」の次元の問題(実在論の極
北としての「彼・彼女4」あるいは「彼ら4」の問題、さらにいえば「他者4」の
問題)が残っている。

 ヘーゲルは、哲学とは scientia すなわち神学と通底する体系知であり、表象
のかたちで神を捉える宗教に対して、概念において絶対者を把握するのが哲学なの
であって、絶対者の自己展開を追認する哲学体系(ミネルヴァの梟)は本質的に未
来を包摂しえないと規定した。(この要約は、廣松渉「マルクスにおける哲学」に
よる。ちなみに、廣松論文がいうマルクスの「体系的叙述=体系的批判」の方法は、
入不ニ氏の「遂行的な論証」を思わせる。)

 入不ニ氏の議論は、体系の原理的な未完結性を極限まで追及し、一瞬、「私たち
3」の無際限の反復自体を超出する絶対的無限=神と切り結んだ後に、過去現在未
来といった時間様相の始原へと──生を完結させる死と対峙した未来感覚ならぬ、
胎児以前さらには「父母未生以前」(夏目漱石『門』)にまで遡行する「未生感覚」
をもって──位相転換している。この分岐点の所在と構造を主題的に考察すること。
それがもし入不ニ氏の「問題」ではないというのであれば、その解明は、氏の道案
内によって相対主義(実在論)の極北へと到る探求を擬似的に体験させられた読者
である私の仕事なのかもしれない。

註:
「入不ニ‐永井論争」の周辺については、以前書いた文章のなかで言及しました。
 ☆ http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/ESSAY/TETUGAKU/17.html

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