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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.41 (2001/03/04)
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 □ 廣松渉『物象化論の構図』
 □ 中島義道『カントの時間論』
 □ 中島義道『時間を哲学する』
 □ 吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』
 □ 大沢在昌『灰夜 新宿鮫VII』
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このところ同時進行的に読んでいた書物(『時間を哲学する』は再読、というより
再覧?)をめぐる、とりとめもない感想文集。二元論というテーマで通したかった
のですが、あいかわらずの不連続です。

それから、これは何の意図もない単なる記録にすぎないのですが、『ダカーポ』463
(2001/3/7)が「村上龍の冒険」という特集を組んでいて、そのなかで村上龍が推
薦する10冊の本が掲げられていたので転記しておきます。読んだものやら読みかけ
のもの、持っているだけのもの、存在すら知らなかったものが入り混じっています
が、いつかそのうち再読したり読んでおきたい本ばかり。

☆ルイ=フェルディナン・セリーヌ『夜の果ての旅(上・下)』(中公文庫)
☆ジャン・ジュネ『泥棒日記』(新潮文庫)
☆柄谷行人『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)
☆小熊英二『単一民族神話の起源』(新曜社)
☆アダム・スミス『国富論(I・II・III)』(中公文庫)
☆吉川洋『高度成長』(読売新聞社)
☆J・J・ギブソン『生態学的視覚論』(サイエンス社)
☆カール・グスタフ・ユング『人間と象徴(上・下)』(河出書房新社)
☆クリスチャン・ド・デューブ
 『細胞の世界を旅する(上・下)』(東京化学同人)
☆ロバート・H・ヘスマン編
 『リー・ストラスバーグとアクターズ・スタジオの俳優たち』(劇書房)
 

●92●廣松渉『物象化論の構図』(岩波現代文庫:2001.1/1983.11)

 噛んで含めるような文章で綴られ、あまつさえ要点の反芻まで疑似体験させてく
れる古典的ともいうべき香気に満ちた作品集。本書には序文や跋文を含めて五つの
論文と二つの講演録が収められているのだが、書き言葉と語り言葉との間にまった
く違和がない。もちろん講演録にも著者の筆は入っているに違いないのだけれど、
この連続感が廣松渉という希代の哲学者の強靭かつ独特の思索力を際立たせる一つ
の特徴なのだと私は思う。

 本書は主著『存在と意味』で展開されている著者独自の物象化論の「前梯」とな
るマルクスの物象化論の「構制と射程」を見事に描き切った「廣松哲学の精華」(
文庫版カバー裏の言葉)である。疎外論から物象化論への移行、そして中世におけ
る唯名論(ノミナリズム)と実念論(レアリズム)、デカルト以後の物質と精神、
観念論と経験論、本質と実存、普遍と個別、類と個、等々、等々の様々な二元論の
相克と対立がマルクスの物象化論において、すなわち生態学的な視座をもった「生
産関係」論によって相即的に叙述され超克されていく様が説得力をもって叙述され
ている。

 なかでも私が刺激を受けたのは、「体系的叙述=体系的批判」というマルクスの
方法をめぐる議論と、本書冒頭と末尾で反復的に触れられ本書全体の通奏低音をな
している『ドイツ・イデオロギー』の次の件をめぐる考察、つまり自然と歴史の相
克と超克をめぐる議論だった。

《われわれは唯一の学[Wissenschaft=体系知]、歴史[ゲシヒテ]の学しか知
らない。歴史は二つの側面から考察され、自然の歴史と人間の歴史とに区分されう
る。両側面は、しかし、切り離すことはできない。人間が生存するかぎり、自然の
歴史と社会の歴史とは相互に制約しあう。》

●93●中島義道『カントの時間論』(岩波現代文庫:2001.1/1987)

 私は『純粋理性批判』を毎朝20分、週5回、つごう4週間で読んだ。通勤電車で
の「速読」というやつだ。続けて『存在と時間』をたしか5週間程度で読み切り、
その前後に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をこれは数ヶ月かけ
て「精読」した。

 流し読みや拾い読みではない速読と、いたずらに細部に拘泥し文脈感覚を喪失す
るのではない精読。これらの「実験」の結果、いま挙げた三冊の書物は読後数年経
ったいまでも私の脳髄のどこかに艶めかしく息づいていて、いま直ちに言語化する
わけにはいかないものの、概念群がかたちづくる星雲状の形態やその背後の呻吟と
陶酔の肉声(カントとハイデガー)、あるいは諸概念の内実とそこに犇めき蠢く欲
望のダイナミズム(ヴェーバー)が無意識の一歩手前で身構えている。

 ──中島義道氏が本書の文庫版まえがきで『純粋理性批判』を「時間論の書」と
規定しているのを読んで、私は、その意味がまったく異なることは百も承知の上で、
読書をめぐる二つの時間体験を想起したわけだ。(超越論的観念論者の速読と経験
的実在論者の精読?)

 本書は時間や認識をめぐる二元論のポリフォニー、すなわちアリストテレスとア
ウグスティヌスの時間論、つまり外的な物体の運動か内的な「こころ」のあり方に
準拠した時間論、自己意識と自己認識、物自体(物質の動力学的秩序)からの触発
による客観的時間の構成と「自己触発」による内的世界ないしは「私の時間」の構
成、そして時間の経験的実在性と超越論的観念性へと到るダイナミックな叙述と構
成をもった力強い書物だ。

 私はとりわけ第3章「時間の経験的実在性(II)」と第4章「時間の超越論的観
念性」に惹かれた。たとえば次の一文など、とてつもない起爆力を秘めているので
はないか。

《赤い色は、私がそれを知覚し、それを空間における一定の場所に位置づけるのみ
ならず、客観的時間の一定の場所に位置づけることによって、はじめて私の状態と
してとらえられる。言いかえれば、私は、過去の構成を通してはじめて、知覚を私
の状態へと転換することができる。(略)私の眼前の赤い色は、それが非知覚的な
諸表象と並んで客観的時間における位置を得るときはじめて、私の状態とみなされ
ることになる。私が、もし知覚という唯一の意識作用しかもたず、常に目を見開い
て外的世界の全体に対しているのだとすれば、私は内的世界をけっして構成しない
であろう。》

 付言。中島氏の本の造り方は懇切丁寧だ。充実した人名索引と事項索引、掲載論
文の要点と全体構成の的確な紹介。『時間と自由 カント解釈の冒険』(講談社学
術文庫版)では、各論文の末尾に「読者へのメッセージ」が付されていて、文庫版
へのまえがきでは「初心者」向けの読み方まで書いてある。(私はこのまえがきと
読者へのメッセージを繰り返し読むことで『時間と自由』を仕上げたつもりになっ
てしまった。)

●94●中島義道『時間を哲学する』(講談社現代新書:1996.3)

 著者は、「心身問題」とは現在と過去の関係の問題だという。《いきなり宣誓し
ますが、私は知覚ではなくむしろ想起こそ「心身問題」のモデルだと思っておりま
す。それをみな知覚の場面で論ずるから、答えられないことになる。心身問題の原
型は想起、すなわち「刻印」というブラック・ボックスにおける現在と過去との関
係なのですが、知覚をモデルにしたとたんに心身問題を引き起こす張本人である「
時間」は消去されてしまい、大脳の〈ウチ〉に想起の「場所」を求めるというあた
かも空間論のようなかたちをとってしまうのです。》

 中島氏よれば、人間とは〈今ここ〉から離脱しつつ〈今ここ〉にとどまっている
二重存在なのであり、眼前の知覚風景を見るとき、いつも「見えないもの」として
の想起風景との関連で見ているのであって、したがって現在と過去の二元論を「克
服」することはけっしてできない。そして、過去はどこへ「行った」のでもなく、
「もはやない」ものとして〈今ここ〉にある。

《つまり、現在と過去との両立不可能な関係を必死に「解決」しようとするのでは
なく、むしろこの矛盾的関係こそ、「ここから」すべての現象が説明されるような
根源的関係なのではないか、と思われます。大脳のある状態Gを過去の痕跡とみな
す関係は、ほかのところからは説明不可能な根源的関係なのです。(略)「心身問
題」のモデルが過去と現在との時間関係であり、具体的には過去の出来事を現在想
起することであるという私の見解の根拠はここにあります。「痕跡」というブラッ
ク・ボックスの中を探っても現在と過去との関係を示すような証拠物件は何も出て
こないでしょう。すべて順序が逆だからです。われわれは現在と過去との根源的関
係から出発して、それを適用して大脳の中に「痕跡」というものを読みこんだので
すから。》

●95●吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』(文藝春秋:2000.12.31)

 著者は、1989年から翌年にかけて、昭和天皇の重態が報じられるなかで遂行され
ていった幼女連続誘拐殺人事件を二つの側面から叙述している。犯人宮崎勤の事実
と妄想とファンタジーに彩られた精神のリアリティを内側から理解すること。そし
て、宮崎を「憂鬱な先端」として持つ「世界」の実相を、つまり戦後復興から高度
成長を経て脱神話化された「生活圏の町」を実現し、大衆化された消費社会へとつ
き進んでいった戦後日本の社会システムやメインとサブのカルチャー、映像を代表
とするメディアの在り様を外側から叙述すること。この二つの視点は本書に張りつ
めた緊張感を強いるものであって、マス・メディアから精神鑑定、ノンフィクショ
ンの言説のあり方への批判、はてはいままさに書きつつある自作への内省的言及と
ないまぜになり深い陰翳に富んだ作品世界をもたらしている。

 本書に記述された「宮崎語」、たとえば、のそりのそり、どっきんどっきん、甘
い世界、父の人、母の人、ネズミ人間、肉物体(生きていない状態の体)、骨形態。
あるいは著者による、映像の攻撃性その他の分析枠組みの提示。そして宮崎勤=解
離性同一性障害(多重人格)説と地域社会や日本の戦後社会そのものの解離性を重
ね合わせて描写するその構えは、抑圧と解離をめぐるたとえば斎藤環氏(『文脈病
』その他)の言説へと接続されるのではないか。

 それにしても、このような書物を前にしてどんな言葉を紡ぎ出せばいいのだろう。
しゃべるな。語るな。沈黙するな。通奏低音のように響くこの言葉に、私の魂は戦
慄する。著者は本書に10年かけたという。その時間と思索と内省の重みが、たとえ
ば次の文章に凝結している。

《おそらく私の国が歴史を取りもどすことはないだろう。この国をニ○世紀のまん
なかで大陥没させた狂信や残酷さや激しい暴力を思い起こす記憶力を、この社会は
持っていない。解離はまだつづいている。/そうであれば、ひとつの国が、ひとつ
の社会が、一人の人間が持っている攻撃性の意味を考え、想像し、認識するのは一
人ひとりがやるしかない。集団にたよらず、一人で考え、あたえられた関係を離れ、
絆を選びなおし、そうやって親密圏を作っていくなかで人間と国家と世界の善と悪
を、正と邪を、愛と憎を、美と醜を、真と偽を見きわめ、もう一度理念を作ってい
くこと。/しかし、歴史意識を欠いたまま理念を作ることができるだろうか?/た
とえできたとしても、それは脆弱なままではないだろうか?/そうかもしれない、
と私も思う。/だからこその先端なのだ。/やがて確実に歴史を忘れていく世界の、
憂鬱ではあるけれどもここが先端なのだ。》

●96●大沢在昌『灰夜 新宿鮫VII』(光文社:2001.2)

 私の好きなシリーズもののキャラクター。イギリス情報部(MI6)所属の窓際
スパイ、チャーリー・マフィン(フリーマントル)。彫師伊之助(藤沢周平)。そ
して新宿署生活安全課鮫島警部。──本書はその新宿鮫シリーズ第八作。昨年、三
年ぶりに第七作『風化水脈』が出たばかりだが、そこで手がけていた大掛かりな窃
盗事件捜査の合間、自殺した警察庁キャリアの同期、宮本の七回忌に出席するため
鹿児島を訪れた鮫島が遭遇した三日間の悪夢の出来事が描かれている。この作品は
むしろ短編で読んだ方が印象が深いのではないか、長編小説としてはもう少し緊密
な構成やストーリーの展開、人間関係の書き込みが欲しいところ。だけどそれは一
気読みでいつに変わらぬ新宿鮫の世界を堪能した読後の後知恵であって、ファン心
理は多少の瑕ですら味わいの種にしてしまう。愛すべき番外編。

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