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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.40 (2001/02/25)
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 □ 藤原正彦『心は孤独な数学者』
 □ 北村薫『リセット』
 □ ジャック・デリダ『言葉にのって』
 □ 養老孟司『臨床読書日記』
 □ 保坂和志『世界を肯定する哲学』
 □ 山口椿『一条戻り橋』
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今回は「小ネタ集」です。小ネタといっても、取り上げた書物が小粒、不出来だと
いうわけではもちろんなくて(なかにはくさしているのもありますが、それもまた
当方の虫の居所が悪かっただけで、他意はありません)、コメント、感想を充分に
発展させることができなかったという、読み手の側の都合によるものです。

(保坂和志さんの本など、実に新鮮な読書体験をさせてもらって、できれば本格的
に腰を据えて論じてみたいと思うのですが、これはまた別の場所、別の機会に。)

それにしても、こうやって一列に整列させてみると、たまたま同じ時期に読んでい
たという点を除いて、まあ見事に不連続というか無関係な書物たちを無秩序に取り
上げる姿勢も、いい加減といえばいい加減。

なお、山口椿さんの『一条戻り橋』は書店では購入できません。興味をもたれた方
は「山口椿の世界」[http://www5a.biglobe.ne.jp/~maoniao/tubaki/01.html]
から「オリジナルグッズ販売のお知らせ」をたどってごらんになるといいでしょう。
 

●86●藤原正彦『心は孤独な数学者』(新潮文庫:2001.1/1997.10)

 雨の休日、冬の薄日がさす午前、とても気持ちのいい本を読み終えた。藤原正彦
氏の『心は孤独な数学者』は、達者な筆運びの「評伝紀行」で、ニュートン(「神
の声を求めて」)、ハミルトン(「アイルランドの悲劇と栄光」)、ラマヌジャン
(「インドの事務員からの手紙」)の三人の天才数学者がとりあげられている。ヒ
ューモアのうちにいつしか痛切なものが漂ってくる忘れがたい文章だ。

 なかでも印象深かったのはラマヌジャンの章で、私は以前、到底この世のものと
は思えない不思議な公式のいくつかを見たことがある。その独創の源泉を問う著者
に対して、「チャンティング(詠唱)が独創の一因と思う」「インドでは古来より、
数学と文学は混淆していました」と語るラマヌジャン高等数学研究所のランガチャ
リ教授の見解が面白い。

●87●北村薫『リセット』(新潮社:2001.1)

 「時と人」三部作の第三作。完結してからまとめて刊行順に読もうと思って、大
切にとっていいたが、完結編(といっていいのかどうか)を先に読んでしまった。
どこかしら太宰治を思わせる語り口の冒頭から、いきなり北村ワールドがひらけて
くる。丹念に綴られる日常、正確に読書中の感覚を書いておけば、退屈といえば退
屈にも感じられる淡々とした叙述の積み重ねが、クライマックスの痛切のうちにく
っきりと生きてくる。ここには紛れもない人の生が表現されている。円熟した芸を
感じさせる作品で、ラストシーンは絶品。

●88●ジャック・デリダ『言葉にのって』(林好雄他訳,ちくま学芸文庫:2001.1)

 分かるか分からないか、好きか嫌いか。──いずれにしても哲学の書をめぐる評
言としては禁句だと思うし、そもそも私はそういった事柄を云々できるほどにデリ
ダを読んでいるわけではないので本当はなんとも形容のしようがないのだけれど、
強いていえばこの本はデリダが語るその内容はよく分かるような気がしたが、あま
りデリダの「肉声」が聞こえてくるような気がしなくて好きになれない。(書かれ
た言葉の中途半端な肉声化。これはもちろん翻訳のせいではないと思う。)

 「デリダ自身によるデリダ哲学への入門書」とカバーの裏に書いてあるのも気に
入らない(私は別にデリダに弟子入りしたいとは思わない)し、訳者解説で唐突に
デリダと道元の「類似」に言及されるのも(訳者の一人である森本和夫氏の著書に
『デリダから道元へ』がある)舌足らずだと思った。

 とまあ好き放題に毒づいてはみたものの、本書に収められたラジオ番組での六本
のインタビュー記録のうちたとえば「歓待について」と題されたそれなどはとても
興味深いもので、私は何度も読み返して熟読玩味した。ちなみに哲学の書について
もしイエス・ノーの回答を求める問いを発しうるとすれば、「それは私の問題なの
か」でしかないと思う。

●89●養老孟司『臨床読書日記』(文春文庫:2001.1/1997)

 書物を文庫版で再読する楽しみの一つは、著者の自著への言及や練達具眼の士に
よるオマージュに接することである。本書には残念ながら著者の文庫版まえがきや
あとがきは付されていないが、そのかわり『ダ・ヴィンチ』発行人長薗安浩氏の解
説が掲載されている。そこに「養老節とも呼べる断定短文でのエッセイ」という形
容が出てきて、私はいたく共感を覚えた。長薗氏は「断定のエクスタシー」という
けれど、断定される側はたとえそれが絶賛の辞であったとしても堪ったものではな
いだろう。それはほとんど斬られる思いではないか。

 本書ではとりわけ中沢新一著『純粋な自然の贈与』と坂口ふみ著『〈個〉の誕生』
をめぐる文章が面白かった。それから文科系の学問の粋ともいえる歴史をめぐる養
老氏の文章は(ついでにいえば政治と宗教をめぐる文章も)いつ読んでも苛烈なま
でに面白い。たとえば次の一文。(『毒にも薬にもなる話』に収められた「臨床歴
史学」に関する文章ではこのあたりのことがより詳細に議論されていた。)

《しかし、事実とはじつは理論によって負荷されたものだということを認めれば、
歴史もまた脳の法則にほかならないのである。私が面白いと思うのは、そのこと自
体ではない。西洋人がそれを「自発的には」なかなか認めないということなのであ
る。それを認めるかどうか、まともに議論をしたことはない。説得したこともない。
しかし、書物を読んでいれば、かれらはやはりなんらかの外的客観性を「頭から」
信じているように見える。だからやっぱり、かれらにとっては、世界は神による被
造物なのであろう。それはおそらく言語負荷性に依存している。つまり西洋語のな
かにしみ込んだ原則なのである。私が日本語を使って抽象的にもの考えると、結果
はお経になる。それと同じことであろう。》(223頁)
 

●90●保坂和志『世界を肯定する哲学』(ちくま新書:2001.2)

 この人の作品はまだ三冊(それと某文芸誌に掲載されていた野矢茂樹氏との対談)
しか読んでいない。それでも私の脳髄の中には保坂和志のための領域がくっきりと
確保されている。『この人の閾』はその不思議な言語感覚が後々まで印象に残り、
『季節の記憶』ですっかり魅了されてしまって(文庫版の養老孟司氏の解説がとて
もよかった)、『〈私〉という演算』では前代未読の途方もない言語表現の世界(
がそこからひらけていく可能性)に驚嘆しなぜかしら嫉妬に近い感情を覚えた。保
坂和志はイナガキタルホやハニヤユタカ(そしてカフカやボルヘス)のようにカタ
カナ表記が似合う作家なのだと私は思っていて、この人の紡ぎ出す言葉には「抽象」
の力が漲っているしその作品は「体系」を湛えている。

 だからこの人はいつか自分流の「哲学」を、つまり「論理的抽象」を語りだすに
違いないと思っていた。案の定というか予想的中というか雑誌『世界』に「世界の
はじまりの存在論」が連載されはじめて、気がついたかぎりでコピーをとっておい
て連載終了後まとめて読もうと計画していたのだがそれより先にどういうわけか別
の出版社のそれも新書版で刊行された。カバー裏に「風景や動物を文学的な比喩と
して作品に組み入れず、ただ即物的に描写する特異な作風の小説家によって、問い
つづけられた「存在とは何か」」とか「小説家独特の思考プロセスを経て、存在す
ることの核心に迫っていく」といった文章が出てきて、私はそれはちょっと違うん
じゃないかと思う。この書物は「小説家」やまして「哲学者」などではなく「保坂
和志」の、いやホサカカズシの思考の論理と生理(といっても「無機物の生理」と
いった語彙の組合せが成り立つかぎりで)の極限的な言語表現の産物なのだ。

●91●山口椿『一条戻り橋』(2000.12)

 語りが出来事を紡ぎ出し、五、七の律動のうちに言葉は艶かしい肉の裏地を露呈
させ、あまつさえ腋、血、汗、涙に濡れ、滴り、流れ、そして臭、香を纏い、ねば
り、繁りゆく。まさに言葉の出自が歌(語り)であったこと、つまりは肉、ひいて
は“物質”と即物的にいってしまえばそれまでの生存の世界の所在を指し示す山口
椿の文の技は、意味や情緒や精神といった言葉に囲われ痩せ細った観念群をその本
来の在処のうちに解き放ち、読み手をもまた語りのうちに縫い込んでしまう。すな
わち戻り橋とは、言葉が世界を垣間見て自ら屈折する極北、臨界点なのだ。──こ
のような文章を挿絵入り和綴本で読めることは得がたい至福だ。惜しむらくは、活
字もまた水面を流れ行くかのごとき墨痕であれば。

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